あかく咲く [2]










世界は、闇色の衣の中に蔽われていた。
静寂の世界の中で人は等しく、夜の住人だった。
















低く、小さな声を聞いた気がして、陽子の意識は急速に浮上した。
その囁きは風の音よりそっと響いて、静寂の中に溶けて消えた。
どんな意味を持つ言葉だったのか聞き取ることは出来なかった。
それでもほんの微かな声に意識を引かれたのは、そこに心を揺らすような温度があったからだった。




「……どのくらい、眠っていた……?」
まだ目を閉じたまま、陽子は呟く。
軽い身じろぎに、背中に回された腕が緩み、そっと髪を撫でた。
沈み込んでいくような眠気を振り切って、忙しない瞬きとともに目を開ける。
闇に慣らされた筈の目に、それでも月のない夜の闇は深く映る。
すぐ傍にある人の顔さえ、おぼろにしかわからなかった。
応えがないことを訝しみ、手を伸ばして相手に触れれば、その手に、一回りも大きな相手の手が重ねられた。
「ほんの少しだけ」
静寂を震わせた明瞭な声に、陽子は安堵を憶える。
笑い混じりに、そうと呟くと、やわらかく抱き寄せられた。
触れ合う素肌が心地よく、気を抜くとそのまままた、眠ってしまいそうだった。




夜を分け合い、短くはない時が経っていた。
秘密が近付けた距離に、まだどこか、竦むものはあった。それでももう、どちらにも、引き返す気など一片もなかった。
背を撫ぜた細い指が、自然に曲げた肘から上膊をたどり、その手のひらの中に肩を包み込んだ。
衣越しではなく熱く伝わる熱に、今が夜であることをぼんやりと意識する。
「何が、ありましたか……?」
逡巡を含みつつ穏やかに向けられた声に、陽子は瞠目し、そして理解した。
以前ならただ目を背ければ気付かれずに済んだものが、今は何の形にすることもなく、洩れてしまう。だからこうして触れ合う存在を、素直に愛しいと思えた。
「悲しい話を、聞いたから……」
闇の中で、陽子は目を伏せる。嘘はつけない。けれど真実を語ることはできない、その後ろめたさから少しだけ、逃れるために。
「お聞きしても?」
「あまり、気持ちのいい話じゃないけど」
断って、陽子は努めて従容と先を続けた。
「鈴の知人が急に亡くなって、それで鈴がひどく気落ちしているか、ら……」
言葉を紡ぐ唇に何か触れ、陽子は声を途切れさせる。
ゆっくりと口唇をなぞっていく感触に、指先が触れているのだと知った。
闇の中で、全てが混沌としている。
けれどこんなふうに突然触れられてさえ、驚くことはなかった。
怖いことなど、ここには何もない。触れる指に指を絡めて、捉える。
怖くはない、だが存在を、自分がここにいることを確かめていたい。
彼がそこにいることを、感じたかった。
再び訪れようとする微睡みの中で、遠くに鳥の声を聞いた。 静寂の中で、高く澄んだの鳥の声は、思いのほかよく徹る。
「鳥の、こえ……」
思いもかけず、思考が口をついて出た。 歌うような響きに、景麒の気配が動く。
絡め合った指をほどいて、頬にその指をゆっくりと滑り落としていく。
羽根のような軽さに身を震わせれば、静かに指が離れた。
「昔読んだ、戯曲を思い出した……人目を忍ぶ恋人たちは、朝が訪れれば別れなくてはならない。外では朝を告げる雲雀の声がするんだけど、彼女は咄嗟に嘘をつくんだ。あれは夜に囁く鳥の声、だから朝はまだ来ていないって」
恋人たちの会話の中に見える駆け引きを、聡い相手は汲み取っただろう。
もともと、言葉の少ない人だった。だから、この話に肯定も否定もしない、そういう感じ方をしたのだろうと陽子は思った。
再び、鳥の声がする。
その響きはまるで一弦の、楽の音色のようだった。
重く迫ってくるような闇の中で、その鳥の歌声は不思議と澄んで、よく響く。
無意識の内に、鳥の声に意識を向けていたらしいことに、遅れて気付く。
そっと唇に触れた温もりに、暗闇の中で目を閉じた。
隙間なく肌を重ね、腕を伸ばして抱き込めば、いつの間にか毀れ物を抱くように、やわらかく抱きしめられている。
熱が溶け合い、躰の境界を感じなくなる心地よさが、夜の中でたやすく快楽へとすり替わっていった。ゆっくりと肌が粟立ち、次第にあがっていく息が、弱く喉を震わせた。
確かめるように滑り降りていく指先に、埋み火を熾され、掻き立てられる。
そうされる度にどうしてかどこか切なくて、いつも泣きたくなった。
「さっき、何を言った……? なに、か、言っただろう……?」
きれぎれの問いかけに答える声はなく、こぼれる声は相手に飲み干される。
深く物を考える余裕は消え失せ、もう鳥の声も聞こえなかった。
















日々は止めようもなく、指の隙間から抜け落ちる砂のように過ぎていく。
雑多なことは次第にそこへと埋もれ、風化していくのが日常の出来事だった。
















思った以上に早く、そして精確に事の次第を知り得た。
手の中から力なく数枚の書類が抜け落ちて、それを陽子は奇妙なほど冷めた気持ちで見やった。
「公然の秘密……」
口にした傍から、口腔内に苦いものが広がっていった。
怒りではない、ただ虚脱した。
躰の中から、大きなものが抜け落ちていく感覚に支配されていく。
時を経ても、人が変わることは、どれほど難しいのかと。
身分というものがどれほど人との間に隔たりを持つのか、わかっているつもりで、いつも現実に打ち砕かれた。そしてそれがどのように、人の心に仄暗い闇を抱かせるのかを、思わずにいられなかった。
物事には、決して越えられない領域がある。
それでも、善悪の区別はそこに加味されない。
膝を折り、陽子は床に散らばった書類を拾い集めると、灯火から火を移し、窓を開けた。
白い紙はまたたく間に身を焦がし、風にその身を崩していく。
後には何も、残らなかった。
何一つ、残したくなどなかった。
















閑散とした書庫で一人、整然と並べられた本の背を追って、景麒は静かに眼差しを伏せた。
昨夜共に過ごした人の様子が、いまだ心の隅で凝っていた。
人の気配の途絶えた場所に一人でいることが、景麒の思考を、次第に深くへと誘っていった。




果実が落果するようにして、手にした恋だった。
いつこの感情が生まれ、確かなものになったのか、憶えていない。
知らぬ間に芽吹き、気付けば止めようもなく育って、そして彼女と心を通わせた。
手にしてしまえば、なかったことにはもうできない。
引き換えるものが何であったとしても、もはや一瞬の躊躇もなく、彼女を選ぶだろう。
こんなに醜い執着を、愛とは呼べない。
麒麟という性が瓦解していることを自覚しながら、不思議とそれに戸惑いは生まれなかった。
もとより、麒麟は貪欲な生き物だった。
主を知らぬ麒麟でさえ、主を得ねば限られた生を終える。
だから王を知った麒麟は決して、王なしでは生きられない。
そして自分たちはまさしく、王と麒麟だった。
彼女が、心に不安を抱いていることを知っていた。
けれど主への思慕と恋情は、まったく別のものだった。
応えは、至極簡単だった。
同じであるなら、かつて失われた人はたった一人、奥津城に眠ることはなかった。
こうして二度目の生を得、二度目の主を頂くことはなかった。
それでもそれは決して言葉にはされず、ただすれ違う眼差しの奥にだけ、気まぐれに見え隠れする。
その眼差しに、かつての人の、脆く不安な面影が甦った。
だからただ、彼女を抱きしめることしかできなかった。
どれほど強く抱きしめても、そこには埋めようのない虚ろがあり、それでも不完全な恋を、もはや手離すことはできなかった。
音のない水底に似た空間で、現実に戻るきっかけを失えば、より深く思考の海へ沈んでいくだけ。




わかっているのは、埋めようのない違和が、お互いの間に凄然と存在しているということ。
それはただひたすらに、弱くて脆い、この恋への恐れゆえに。
欲して、手に入れ、そして失うことを恐れ。
彼女を抱きしめる度に溢れてこぼれ落ちる気持ちを言葉にし、向けたことはない。






       愛していると言っても、彼女は恐らく信じない。






細い腕がしがむようにして背中に回される時、何者からも傷つけられぬように、決して傷つけぬように、腕の中に抱き込んだ。
それは無言の誓いでもあった。
自分に、唯一できること。
ゆるりと鎌首をもたげる正体のない不安に、景麒は自らの影に潜むものに命を与える。
御意、と重々しい返答とともに、使令は影から影へと渡る。
麒麟が女王の傍近く侍ることは、この国では禁忌でしかなかった。
二人を縛る矛盾は、禍々しい楔のように。
それは片時も心から去らず、かたく心を縛っていた       










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07.12.01