あかく咲く声 [1] 一人の奚が、死んだ。 自尽だった。 小刀で喉を切り裂き、小さな房室の床一面に血の海を生み出して、彼女は自らの命の中に身を沈めて死んでいた。 奚はまだ少女と呼んでも差し支えない、若い命を自ら散らした。 人が死ぬ理由はさまざまある。 天命以外に、自ら命を立つその理由も。 死んだ娘は奚だった。 いかに王宮の中でのこと、それが王の耳に届くことはない。 その命は儚く、かろいものであるがゆえに。 身分と呼ばれるものがある。 こちらには血脈と呼ぶ、蛇のような繋がりは存在しない。 地位は生まれではなく、多くは自らが後年築くものだった。 それでもすべての人間が栄光を手にするでもなく、それぞれの役を得て、世界は巡っていく。 望む、望まないに限らず 陽子がその話を耳にしたのは、事件が忘れ去られようとした頃。 懇意にしている、二人の友人からだった。 こちらでは、身分を越えて親しくなることは稀有な自体だという。 王宮の中にいると、それがよくわかった。 狂いのない枠の中に据えられた、箱庭のような世界だった。 越えられない境界というものを無意識に感じては、いつも後味の悪い思いをする。 人の間にそんな垣があることを、時にうとましく思った。 良くも悪くも、それは常に真っ先に弁疏の盾になる。 規定というのは有事の際、素早く対処する為の指標となる。だがそこに、血が通っていないのでは意味がない。 それは主に、不文律などと呼ばれた。 幸いに陽子の有する権は、それを貫く矛となりえた。 上手く貫けるかどうかは、常にこちらの裁量次第だったが。 「そんな……」 それきり陽子は眉を歪ませて、続く言葉を失った。 当然のことながら、死んだ奚の名に聞き憶えはなかった。 王と奚とでは、立場も身分も違いすぎた。 背負う責任も、立っている世界も何もかも、交わる点がなかった。 だが亡くなった奚の風貌を聞き、陽子は己がその娘を知っていたことに気付いた。 知っているというには、少し違うかもしれない。 王宮の中で年若い娘がまだ少ないこと、その娘がつつましくも髪に挿した質素な簪を、仲間の奚がからかいに誉めそやしているのを遠くに見聞きした憶えがあっただけの、たったそれだけのことだった。 それでも羨むような仲間の奚の眼差しに薔薇色に頬を染めてうつむく様子から、恋人から送られたものなのだと微笑ましく思ったことを、陽子はよく憶えていた。 そんな少女が何故と、疑問を抱かずにいるのは難しかった。 「どうしてこんなことに? 知っているなら教えて」 発される言葉と同じ、強い意思を宿した目が即座に鈴と祥瓊向けられた。 こんな時の陽子の意志がいかに頑迷なものであるか、二人はよく知っていた。 綺麗な嘘で濁しても、自身が納得するまで彼女は引き下がらないことも。 その前に、三人は友人だった。 友人に、小手先の嘘は通用しない。 小さく、細く、祥瓊は息を吐き出した。 胸を圧迫する、重い気持ちを再認識するように。 「……無理強いを、されて……」 「それはどういう……?」 眉をひそめた陽子に、鈴が耐え切れない光景を見るように、きつく目をつぶった。 「そう、そうね……誇りを穢されたのだと言ったら、わかる?」 鈴の告白に、陽子は息を止めた。 一瞬で、握った拳が血の気を失くし、雪のように白くなる。 「犯人はわからないの、仲間の奚がそういうことがあったのだと聞いただけで、一人にさせてやろうと房室を出ていたしばらくの間に自害を……」 歯切れ悪く言い、祥瓊はそこに熱いものがあるように喉を押さえた。 その指の間にしたたり落ちる血の幻影を見て、陽子は思わず目を逸らした。 鈴も目を逸らし、わななく唇を強く噛んだ。 「遺体は」 問いが、陽子の喉から歯切れ悪くこぼれた。 「清められて、家族に……」 それだけ聞き、陽子は握った拳を額に押し付けた。 胸の中は冷たいような熱いような奇妙な感覚に煮えくり返っていた。 冷静さを取り戻そうと、動揺する己を強い意志で叱責する。 「それは、どのくらい信頼できる話なんだ?」 「悲しいけれど、すべて真実よ。陽子、私はその子を知っていたの。明るくて優しい、どこにでもいるような、普通の女の子だったのよ……」 応えた鈴の目から、とめどなく涙が溢れて落ちた。 祥瓊が痛々しい顔をして、鈴の肩を抱きよせてさすった。 「陽子、ごめんなさい、本当は、はな……話すつもりなんて、なか……っ……でも、それじゃあんまりに、あ……あの子が可哀相で……っ」 「……宮を穢したと言って、上役の者が遺体を打ち捨てようとしたのよ。幸い心ある方がいて、人らしくしてあげることができたの」 涙でつまらせた鈴の言葉を、同じように震えながらも祥瓊が引き継いだ。 陽子はただ、絶句した。 王宮とは、そういう場所だった。 曲げることのできない規律に、常に阻まれる。理の中に生きる者は、理を乱されることを何より嫌う。それが正しいか否かは、問題にならない。 何も考えず、ただ規則に身を委ねるて生きることは存外に容易い。 自身に何の責任も降りかからぬから。 それでも陽子はそのいくつかの不可解な戒めを、困難の末にないものとしていた。 私情を抑え、陽子は毅然として顔をあげた。 「事件自体はどうなってるんだ、まさか何も追求されていないっていうことはないだろう? 人が一人死んだのに」 自分でも理解しかけていながら、陽子は吐き捨てるように言った。 八つ当たりだと、充分すぎるほどわかっていた。 「ごめんなさい。でも、こういうことは初めてではないみたい……自害までしたのは、珍しいというだけで……」 歯切れ悪い祥瓊の応えに、怖気を感じて陽子は自らの躰を抱きしめた。 何故と口にしかけ、小さく嗤った。 被害者はみな、先の娘と似たような境遇であるのだろう、と。 胸の奥で、行き場のない怒りが蠢いた。 「……許さない、こんなこと」 「陽子」 「陽子、まだ何も確かなことはないの」 くつりと嗤って、陽子はすぐに笑みを殺した。そうして彼女が孕む怒気に、二人は思わず息を飲んだ。 冷徹な微笑みは、二人の知らない、陽子の王としての一面だった。 「この私が許さないと言ったんだ。絶対に、このまま捨て置くものか」 言い切った陽子は、厳しい顔のまま二人と視線を結んだ。 「心配しないで。こんなことが許されてはいけないんだよ、絶対に。すべてを改めなければいけないんだ」 「……そうね、こんなことはもう、聞くのも嫌だわ」 涙に震える声に、陽子はそっと眼差しを伏せた。 鈴の言う通り、耳を塞いでしまいたくなる話だった。 けれど事実から、目を背けるわけには行かない。 冷気が足元から立ち上って、心臓をつかまれるような怖気がする。 こんなふうに感じるのは、長く生きたせいだけではない。 けれど昔の自分なら、ここまで不快に感じることはなかっただろうと陽子は思った。 「こんなこと、調べればすぐにわかるだろう……辛い思いをさせてごめんね、教えてくれてありがとう、二人とも」 意識してやわらかく微笑うと、やっと二人の顔から緊張が消えた。 苦しみから逃れる術に死を選んだ娘を、陽子は愚かだと思いながら、責めることなどできなかった。 むしろ、ひどく哀れでしかなかった。 不甲斐ない王だからと自らを責めても、それは欺瞞でしかない。 同じことが二度と起こらぬようにすること、それが為すべきことだった。 自分には、その力と権限があった。 目を落とした足元の影に、見通せぬ深淵がどこまでも続いているような気がした。 闇はどこでも、よく見さえすればすぐ傍にある。 けれど目を背けさえしなければ、見通すことは、難しくなかった。 その深ささえ、恐れなければ。 陽子は昏い憤りを消すことが出来ないまま、二人の友人に再び微笑みかけた。 二人は何か言いかけて飲み込むと、首を横に振って少しだけ無理に微笑った。 その微笑みの意味に、陽子は胸が冷たく疼くのを感じずにはいられなかった。 Novels [2] 07.12.01 |