夜の鼓動に触れる [3]










強い風の音が、耳を穿つ。
かすかな潮の匂いを感じて眼下に目を落とせば、雲海に映る月の姿が飛び込んできた。
そこへ向かって、自分は後ろから突き落とされたのではないかと錯覚した。
けれどいまだ強引な腕に抱き込まれたまま、班渠の背の上にいた。
唐突に、陽子は巧の山中で力尽きようとしていた時のことを思い出した。
雨の中倒れ、死を予感して目を閉じた時に去来したのと同じ気持ちが今、胸を染め上げていた。
すべてが遠くへと押しやられて、深く虚脱する。
















それは、ひとつの約束だった。そして彼と一番初めに交わした、契約でもあった。
帰りたいと望めば、必ず帰してくれると。
もう後戻りは出来ないのだとわかっていながら、その約束は、一縷の光、そのものだった。
育った世界を、否定されないための。
生きてきた時間が偽りではなかったと、信じるための。




呆然とする陽子の耳に、風の唸りを割り、ひどく静かな声音が忍び込んだ。
「慶の内で、お行きになりたい場所はありますか?」
強い腕の中で、その声が、陽子を現実に引き戻した。
「……慶の……なか……?」
呟きながら、湧き上がってきた想いに胸を塞がれ、息苦しくなる。






       この、世界の中……。






かぼそい息が喉を振動させて声となり、唇から洩れ落ちた。
不自然にかすれた声は、涙が滲んでいるかのような、痛切な響きを伴なっていた。
気持ちを保つのに深く呼吸すると、少しだけ、冷静になる。
それでも出口のない想いに、止めようもなく肩がふるえた。
陽子は見えないことがわかっていながら、それでも顔を隠すように、俯いた。
「……帰りたいかとは、聞かないの……?」
独白のような細い囁きが、届くかはわからなかった。けれど肩を抱く指が、瞬時にこわばったのがわかった。
「帰してくれるとは言わないのか、景麒……!!」
叫びは、悲鳴のように鋭く虚空を裂いた。
















強い響きを孕んだのは、深い憤りのためだった。
心の中にあった、ずっとぶつけたかった気持ちとない交ぜになり、咳きあげる感情を止められなかった。もう、止めようとも思わなかった。




この宿命を選んだのは自分だった。
けれどこの責を負うのが、他でもない自分でなくてはならないのだとは、どうしても思えなかった。
それを言ったのは、景麒だった。
突然『世界』を奪っておきながら、望んでそうしたのではないと、陽子を否定した。
自分が価値のある人間だと、一度として思ったことなどない。
父母の目に優等生を装い、級友や教師の目に、平凡な人柄を装い、生きていた。
本当の自分とは何かと問われたら、応える言葉はない。
それでも帰れるのなら、生まれ育った懐かしい世界へと帰りたい。けれどそれは決して言えないことだった。
心はもはや、ここにある。
だからあちらへ帰りたいのかと訊ねなかったことに、思いもかけない安堵と、それ以上の腹立たしさを感じずにはいられなかった。




虚脱した躰に、力が入らない。腕を解かれればこの身はたやすく下へと落ちるだろう。
言えばいい。ただ一言、帰してくれと。
約束を違えず、景麒はその言葉に従うだろう。
水面に映る月影に、無意識に手を伸ばす。
一人でも、世界を越えられるのだろうかと。
その手をそっと、躊躇いを含んだ大きな手が、留めた。

















天の理は、人の理の中に深く広く、根を伸ばす。
まつろわぬ神はやがてその手の中に摘み取られ、天は人に、滅びよと言う。
美しく整えられた、箱庭の住人に。
やがて時が来れば麒麟は新たな王を選び、世界に平穏が訪れる。
何もなかったかのように、再び穏やかな時が刻まれていく。
その美しい法則を、誰も変えることは出来ない。
それなのに挿げ替えることの出来る王を、望まぬと言った王を、あの瞬間に繋ぎとめたのは他ならない麒麟自身だった。




もういいのだと思った。失うものなど何もない。
たとえ自分が消えたとしても、託された国が混沌に沈むことはない。 麒麟が、残るのだから。
時せずして、新たな王が誕生するだろう。
もし延麒が使令を残していなければ、それは見事成就した筈だった。
今度こそ、誰からも望まれる、男王が立てばいいと思った。
そうすれば景麒とて、もはや誰からも何も言われることはないだろう。そうならばいい。
そう思い、陽子は知る。あの瞬間に、自分が半身の身を案じていたことを。
けれど当然のことだろうとも思った。
こちらに来て、誰よりも傍にいて、信頼を置いた人なのだから。
辛いことのないようにと願うのは、不自然なことではない。
けれど自分が最期の時に、そんなことを願った事実に軽い衝撃を感じた。
そして同じように相手も自分を案じてくれていたことに、驚いた。
あの時ぶつかった目が、それを教えてくれた。
この世に自分を繋ぎとめるものなど、何もないと思っていた。
けれど、そうではなかったのだと。










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06.09.09