夜の鼓動に触れる [2] 空を見上げ、陽子はゆっくりと一度、瞬きをした。 熱を持たない月光が降り注ぐ夜は、いくらか肌寒くある。睫毛の先にも、その冷たさが宿っているような気がした。 見上げる中天で淡い光を落とす錐体状の月は、檸檬によく似ていた。 そう思い、すぐにこちらには檸檬などないのだろうと思う。 色の濃い簡素な襦裙に身を包み、陽子は人気の絶えた宮城を夜陰に紛れるようにして、ひとり歩いていた。 散歩というには異様なほど用心深く、気配を殺して。 痛手の深い慶は、男女の比をおいても、まだ人が少ない。 警邏の兵も人気の途絶えた、こんな奥深くにまでやっては来ない。 野放図に伸びた草の感触を楽しみながら、陽子はゆっくりと歩いた。 秋の夜では、草の香よりも露の香の方が、深く薫る。鼻腔を掠める水の匂いにやがて来る新たな季節の存在を感じながら、陽子は先へ行く。 流れる雲に遮られ、時折月が翳る。それに合わせて、自然と歩が遅くなった。 灯火を持たない夜のこと、すべては雲と、風次第だった。 そんなことを悠長に繰り返しながら、陽子は静寂の中に響く音に耳を澄ました。 遠く近く潮騒の音を聞き、一定の律動を伴って繰り返される高く澄んだ虫の声を感じて、渡っていく風の気配を知る。 どれも明るい昼の中では存在を殺されるような些細なものが、大気を揺らして闇の中に命を持っていた。 照らす月は高い。 夜明けにはまだ充分すぎる間があり、世界はいまだ闇の中にあった。 ほどなく辿り着いたのは、泰麒の処遇を延王と話した折に、逃げ込んだ場所だった。 何もない忘れ去られた空間はいつも少しだけ、鬱屈した陽子の心を解放した。 ふと何かを感じて、陽子は足元に落としていた顔を前へとあげた。 はじめに目に入ったのは、ぼんやりとした、人らしき存在の輪郭。 驚いて、わずかに身構える。月は雲に翳り、その存在をはっきりと見通すことが出来なかった。 足を止め、陽子はじっと薄い雲が過ぎ行くのを待った。 雲が晴れ、眩しい月光が、視線の先の人物をあらわにする。 陽子は目を細め、小さく声を洩らした。 「……景麒……」 幻想を見ているのではないかと、真っ先に思った。だが何度見直しても、紛れもない半身の姿が、そこにあった。 月光に縁取られた景麒の姿は、淡く清冽としていた。 髪は光に色を奪われ銀のように、白い肌も、闇の中で際立って存在を明確にする。 目を離せずに、陽子はそんな自分につい苦笑を洩らした。傍というには少し距離を取って、陽子は努めて冷静に、景麒の前に立った。 「すまない、多分気付かれているのだろうとは思っていたけれど……」 目交いの景麒はこちらを、夜のように冷めた双眸に映していた。 そこにどんな感情があるのか、陽子には読めない。 常のように苛立ちや戸惑い、まして愁いもなく、かと言って心の去った者のような希薄な気配もない。 彼が纏うその空気は、冷めたもののようにも見えたが、全ての感情を押し殺しているようにも見えた。どちらにしろ、陽子には何一つ確かな判別がつかない。 この予想外の出来事に、さほど雄弁ではない陽子はそれきり言葉を失くした。 仕方なく、相手の言葉を待つのに、無言のまま眼差しを交わした。 こうしてあらためて見ると、彼が端正な顔立ちをしているのがよくわかった。 妙なる造形に惹かれるのは、人の性だろう。 月を見上げ、手にしてみたいと思うように、何気なく花を摘み取るように、迷いは後からやってくる。 その時に、自分の想いを知る。知らず動かされた気持ちに、浅ましさを憶えて。 周囲が抱く懸念に、いつも戸惑いしか憶えなかった。 先々代の慶王が、先代の慶王が何をし、その結果何が起こったのか、知っている。 同じ女だというその事が、目を逸らすことを許さない。 けれど陽子には、だから何なのだと、疑問を問う以外の言葉がない。 その問いに、意味がないのだとわかっていながら。 もどかしい思いが、思考を絡め取る。ふと思う言葉さえ、上手く伝えることも出来はしないのに。 この瞬間でさえ、彼が何を思うのか、その片鱗さえわからぬ有様だと言うのに。 この身も、胎果として生まれついたことの責任も、取りようもなく。 慰めにか、遠甫はあの事件を忘れるも忘れぬのも陽子の自由だと言った。 欲を抱いて生きる者は、物を正しく見ない。自分の都合のよいものしか見ようとしない。 死んだ者たちが見ていたものはくだらない幻であったと、遠甫は何の感情も感じさせない声で告げた。 陽子が悪くないのだとは、ついぞ一言も触れなかった。 そこには長く善政を敷いた王に仕えた者の、真理があった。 遠甫は正しい。事実、その言葉に救われた。 だから迷いを払拭できないのは、自分自身の弱さなのだと陽子は思った。 「……戻るよ。心配をかけて、すまなかった」 沈黙に耐えかね、陽子は意を決すると謝罪の言葉を口にした。 「眠れないの、ですか」 感情の読めない声が、硬く澄んだまま、こぼれた。 諫める響きを持たないことに違和を憶えながら、陽子は頷いた。 「夜明けが、あまりに遠すぎる。冗祐も驃騎もいるし、だから……」 眠れずに臥牀の中にいることが息苦しいのだと上手く言えず、素直な気持ちを呟く。 その傍から莫迦なことを言ったと後悔に目を伏せ、唇を噛む。 事件はまだ記憶に新しく、それをないことにした所でも供も連れずに真夜中一人歩くなど、常識の範疇から外れている。正気の沙汰ではない、と眉を顰める人々の様子が手に取るように思い浮かんだ。 それでも、陽子はそうせずにはいられなかった。 この王宮の中で温かく接してくれる人を得ながらも孤独を感じ、人の目を恐ろしく思う。 責めて欲しいわけでも、慰めの言葉が欲しいわけでもない。 それでもこの空虚な気持ちの意味がはっきりとわかれば、これほど苦しくはないのにと思う。 まただ、と陽子は自らの足元に目を落とす。 自分のことなのに、わからないことばかりだった。 不甲斐なさに、奥歯をきつく噛む。込み上げる弱音を、決して吐き出さないために。 「こんなこと、もうしないって約束する……戻るよ、心配をかけて悪かった」 拳を握り、陽子は顔をあげた。 景麒は相変わらず静かにこちらを見ている。凪の海のように、穏やかに。 虚をつかれ、おかしいと即座に思う。 このところ景麒の様子が以前と違い、前にもまして、言葉が少なくなっていた。 どこか距離を含む接し方は変わらない。けれどその距離の取り方が、以前と違うような気がした。 向けられる視線に気付いて用向きを訊ねると、何かを飲み込むように言葉を濁し、押し黙る。 何でもないのだと、そんな筈はないのに、更に問うと景麒は傷ましいものを見る色を浮かべ、最後には堪え切れないように目を逸らした。 そんな景麒に、陽子は胸が詰まり、更に問うことが出来なかった。 「すまない。私はおかしいんだって、わかってる。迷惑ばかりかけて、ごめん……」 意識して、唇の端を引き上げる。微笑んでいるように見えただろうかと、陽子は景麒を見つめる。 彼の表情は、それでも揺らがない。 この薄闇の中では、細かな表情まではっきりとわからないのかもしれない。そう思い至って、陽子は少し歩を進め、景麒の傍へと近付いた。 月光の中に立つ景麒の姿は生身の人というよりも、宗教画の中に見る精霊のように感じられた。 どこか触れがたい崇高さを纏い、手を伸ばすことに躊躇いを抱かせるような、冴えた冷たさがあった。 血の温かさに、ひどく遠い気配がある。穢れない、天使の如く。 今更ながらこの人は『人間』ではないのだと思う。 そういうふうに、生まれついているのだと。 二人の間にある距離は、わずかだった。けれどその距離を境に、立っている世界がまるで違うもののような気がした。 「謝罪など、なさらないでください」 先程よりも一層冷静な声がこぼれた。まるで最初から、言葉を用意してあったかのように。 陽子は反論を言えず、口ごもる。 「わざわざ、迎えに来てくれたんだろう……?」 陽子は唇に、不自然な笑顔を貼り付けた。景麒はそれに、首を振る。 息を吸うように小さく開いた唇が、短く、だがはっきりと否定を告げた。 「私はここで、主上を、お待ち申し上げておりました」 「待っていた……?」 思いがけない言い様に、陽子は軽く瞠目する。 何の感情の動きも見せないまま、景麒は陽子へと手を差し伸べた。 陽子は驚いて、反射的に後ずさる。見慣れた筈の景麒を、なぜか怖いと思った。 押し戻すように胸の前にあげた腕を掴まれ、声をあげる間もなく景麒へと倒れ込む。 もう一方の手で腰を抱き寄せられ、抵抗も出来ない強い力に、ひどく動揺した。 何が起きているのか、まったくわからなかった。 「ご無礼を」 低く押し殺した声が耳に触れるのと同時に足先が空に浮き、巻き上がる風を肌に感じた。 視線をめぐらせ、陽子はそこでやっと景麒に抱き寄せられたまま、班渠の背にあるのだと知った。 「景麒……!」 身を捩り、束縛から逃れようと陽子は景麒の名を叫んだ。 抱擁と呼ぶにはあまりに強引な腕が、緩むことはない。 横向きに抱かれているため、首をめぐらせても、景麒と上手く視線が噛み合わない。 荷物を抱くようなやり方に、憤りよりも恐怖が先立った。 不安定な状態におかれていることでどこまでの抵抗が許されるのか陽子が思いあぐねていると、わずかに拘束の力が緩んだ。 「お前は……! 訳を話せ、どこへ連れて行こうというんだ!」 その隙を逃さず、陽子は風のうなりを聞きながら、感情のまま怒鳴り声をあげた。 「宮城の外へ」 歯切れのよい声に、陽子は怒りを忘れ、絶句した。 想像もしなかった言葉に、聞き間違いをしたのではないかと思った。 だがそれは、続けられた言葉によって完全に裏切られた。 陽子はすっと、息を吸い込む。 「……なに……?」 今、何を言ったのか、と。陽子は知らず、呟いていた。 細く呼吸を整える不自然な間のあと、再び耳に忍び込んだその声に、陽子は全身を貫かれる思いがした。 「……あなたの望む、場所へと……」 Novels [1] [3] 06.09.02 |