夜の鼓動に触れる [1] 後悔をしているかと問われたら、正直、何と応えたらいいのかわからない。 抵抗くらいしろと、責めるよりも哀願するように言葉が吐き出されるほんの一瞬前、こちらを見据えた景麒の目が、唯一後悔を憶えさせた。 時にひどく冷淡な眸の中に強いものが浮き上がったのを認めた時、その感情の激しさを、本気で怖いと思った。 それは死を予感し、向けられた剣の切っ先を見つめた時にさえ、ついぞ湧かなかった感情だった。 今まで景麒が努めて見せようとしなかった内面を、こちらが見ぬふりをしようとしていた本心を、前触れも覚悟もなく知って、狼狽した。 あの時彼を突き動かしていた感情を何と呼ぶのか、わからない。 知る限りの言葉をすべて探しても、正確に表せる言葉は一つも見つからなかった。 手を離せば、全てが終わるのだと思った。 傍にあるのは義務なのだと、そう思っていたのに。 容になる前に流され生れ落ち、そうして育った世界と切り離された日、彼と交わした会話をいまだ鮮明に思い出せる。 だから、わからなかった。 本当に彼を、心から信じてもよいのだろうかと。 息苦しさを憶えて目をあければ、重い闇が降りてくる。 浅い微睡みを断ち切って、陽子は溜息を吐いた。 躰は休息を訴えても、精神がそれを受け入れない。そんな日々を、長く続けていた。 過剰に昂ぶった精神は躰に深い眠りを与えず、浅い眠りに微睡めば望まぬ悪夢にうなされては目覚め、疲労に眠ればまた悪夢を見る。 その繰り返しに、陽子は飽いていた。だが、どうすることも出来ない。 それでも倒れずに済んでいるのは、己が身が仙であるからに他ならなかった。 皮肉なことだと少しおかしく思いながら、すでに日常に、傍近い者たちには気付かれる程に支障をきたしていた。 受け応えはどこか緩慢になり、気付くとぼんやりと窓の外を眺める時間が増えていた。 原因はわかりきっていた。だから誰も、そんな陽子を責めなかった。 景麒でさえ何か言いかけて、やめる。それは苦言ではなかった。 惑うような表情から、何か慰めを言おうとしているのだと気付いたのは、そんなことがもう幾度か繰り返されたからだった。 あの出来事を境に、何かが決定的に変わったことはない。 時間はゆるやかに人々の心に平静をもたらし、表向きは何事もなかったかのように平穏な日が流れていた。だがそれは、残念ながら陽子には当てはまらなかった。 変わったことはない。けれどあの時を境に、確かな不信が生じたのだ。 恐ろしいのは、天ではない。理から外れさえしなければ、天は何一つ関知しない。 その無慈悲さに疑いを抱きながらも、妙に納得した部分もあった。 だから気付いてしまった。本当に恐ろしいのは、人の心なのだと。 これまで、それを意識しなかったことはなかった。それでももしこの役割を終えるとしたらそれは、はっきりと天の意に背いた時なのだろうと思っていた。 天の理と人の理は虚空を抱き合い、まるで螺旋のように、長く長く伸び上がる不自然な蔓のようだ。 追いかけるように、絡まりあうように見えて、真実交わることがない。 だからいつか滅びる。その矛盾ゆえに。 そのいつかを思いがけない形で受け取り損なったことに思い至って、気持ちが黒く染まる。 白い紙に落ちた墨の一滴のように、じわりと大きく広がり、陽子の内側を侵食した。 詮無いことだと自らを律しようとする感情を、覚めた目で見ている自分がいる。 どちらも真実、自分の心だった。 だから相反するどちらの想いも、否定は出来なかった。 どんなふうに思考をめぐらせても、納得のいく応えは得られない。 陽子は目を開け、仰向けになった。 溜息を一つ吐くと、臥牀の上でもう一度、憂鬱な息を吐き出した。 浅い眠りに微睡む夜を送っているのは、陽子ばかりではなかった。 とうに灯の絶えた牀榻の中で、溜息がこぼれる。 気付かぬわけが、なかった。 傍近くに侍り、王気を感ずる麒麟が、王の不調を見逃すなどありえない。 あなたは悪くないのだと言った所で、陽子が真実それを受け入れないのはわかりきっていた。 けれど他にどんな言葉があるのか、景麒は虚ろな目で遠くを見、ぼんやりと佇む主を見る度に戸惑うしかなかった。 あなたの咎ではないと言えば、陽子は余計に自分を責めるだろう。 日に日に病んでいくような陽子を見るのはもはや限界に近い。 いつまで気付かぬふりをすべきなのか、息苦しさに咽喉を掻き毟りたくなるような葛藤を憶え、闇に慣れた目を開ける。すべての物の輪郭が、仄暗い闇の中に滲んで見える気がした。 向こうで育った環境からか、陽子は傍に人がいることを嫌う。 正確には、親しくない者、気の置けない者ではない者がいることが、苦痛に感じられるようだった。 見張られているようで落ち着かないと、いつか独白していたことがある。 その主の気性もあり、信の置ける者が少ないこともあって、正寝には人が少ない。 一人を好むことも多く、景麒が雲隠れした陽子を探し当てると、彼女は小さく息を吐いて眼差しを逸らし、いつも謝罪を口にした。 その言葉に傷ついていたのは、一体どちらだっただろう。 まるで逆だと、歯痒く思う。 最初の主は、一人にされることを厭った。心細いと、帰りたいと肩をふるわせ、声にならない声で泣いた。 その心の内を、ひとつも隠すこともなく。 寂しいと、何度も何度も口にした。どうか家に、母の元に帰してくれと。 その人も、今はもういない。 過去の記憶に指の間から砂が落ちていくような頼り無さを感じて、意識が冴える。 事件から日を置かず、蓬莱から帰還したばかりの、病んだ身の泰麒も故国へと去って行った。 別れの言葉ひとつ、交わすこともなく。 国の御柱たる者はいつか、次の未来の為に去る日が来る。 それはある時は己が意志であり、逃れ難い定めでもあった。 わかるから、引き止める言葉がない。もしかしたらそれは、その人との永遠の別れへと繋がっているかもしれないのだとしても。 その重責は、誰とも分け合えない。 命を等しくする人以外には。 一度、きつく目を閉じる。 けれどすぐに諦めて、景麒は身を起こすと臥牀から下りた。 Novels [2] 06.08.26 |