夜の鼓動に触れる [4] 「……どこかと思える程、私はまだ、慶を知らない……」 長い長い沈黙のあと、陽子はぽつりと呟いた。 景麒はずっと、何も言わなかった。 緊張に恐ろしいほど気を張り詰めていた。 触れただけで切れてしまいそうな、細い弦のように。 「だから」 呟いて、一度続きを飲み込む。張り詰めた弦を、そっと爪弾くために。 「何か……いや、誰でも知っているような、昔話を聞きたいな。悲しくない話がいい。どんな話もきっと、私は知らないから」 肩を抱く景麒の手に、自らのそれを重ねる。 驚いたようにふるえた手を、優しく叩いた。 「お前の昔話でもいいよ。蓬山にいた頃の話とか……私の知らない話を」 共に過ごしたのは二年ほど。お互いについてまだ、わからないことの方が多い。 それでも、何か、と望んでそれを苦もなく表わせるほど器用でないことは、もうよく知っていた。 「……私の話など、面白くはないでしょう……」 消え入るような、まだどこか、困惑から抜けきらない声がした。 「そんなことないよ、きっと……どちらか選んで。行きたい所など、ないから」 嘘ではないと続ける代わりに、強く手を握って、離す。 確かな意思を、そこに込めて。 言えないことがある。誰よりも、傍にいる人には。 傷つけないように、傷つかないように。その恐れから、真実に目を向けられないことがあるのだとしても。 世界は、幸福だけで創られていない。 だから言葉にはせず、ただ願うだけ。どうかささやかな平穏が、あなたの身にあるようにと。 波乱の只中に身を置き、そんな簡単な思いが誰の中にもあるのだと見失わずにいることがどれほど難しいのか、少しも知らなかった。 不安はまだ、拭い去ることは出来ない。 それでも相手を信じ、たとえ裏切られたとしてもそれはその人の責ではない。 信じられないことが、弱さだった。望まない現実を受け入れられないことが。 裏切りを、失うことを怖れたら、決して前には進めない。 長い時を生きる人は、そのさなかに多くを得、そして失い、それでもすべてを見つめて生きてきたのだろう。 受け入れられなくても、拒絶することはない。ただ違うのだと認める眼差しが、陽子にはなかった。 目に映るものだけが、真実だと思っていたから。 望まれぬ王であるなら、消えた方がいい。 その方が多くの人の利にもなる。誰のためにも、それが最善の方法だと信じた。 友人二人はきっと、この心の奥底を知らない。 それでも二人の青白い顔を目にした時、揺り動くものがあった。 憂えた微笑とともに、鈴は涙に声を濁らせた。同じように寄り添う祥瓊の顔色は、蝋よりも白く、今にも透き通ってしまいそうだった。 何気ない言葉は、頬を叩かれるよりも口汚く誰かに蔑まれるよりもずっと深く、陽子の心に突き刺さった。 喪失の痛みをその一瞬で、まざまざと思い起こした。 蘭玉を、無辜の民を救えなかった後悔を忘れてなどいなかったのに、その痛みを、なぜ忘れたのだろう。 鈴が自分に巡り合う旅の中で、大事な人をひどくむごい形で亡くしたことを、知っていたのに。 祥瓊がそうした大きなうねりの中で、なす術もなく両親を失ったことを、憶えていたのに。 とてつもなく愚かで、なんて自分勝手で。 血の気が失せるほど、陽子は拳を握り締めた。 忘れることが、怖かった。そんな自分を許せなかった。 だから、自分を追いつめた。それが、罰だと。 けれどそれもまた、誤った選択肢でしかなかった。 訥々と、昔話が語られた。 神々の足跡を感じさせるもの、遠い国から届けられた逸話。 静かに降るような声が、不安ばかりの胸に沁みた。 時折返す相槌に、景麒は迷いを含む、曖昧な返事をした。 それはさほど長い時間ではなかったが、こんな風に話をしたのは初めてではないだろうかと陽子は思った。 政務とは全く関係のない話をするのが、どこか不思議で新鮮だった。 相変わらずその腕に抱えられたまま、機を逃し、今更離せというのも不自然な気がして陽子は気付かぬふりを決め込んでいた。 人に触れることにも触れられることにも、陽子は慣れていない。 それでもすでに虚脱から抜け出していたが、躰に、必要以上の力が入ることはなかった。 その胸に頭をもたせかけたまま見知らぬ話に耳を傾けて、深い声に目蓋が重くなるのを感じた。 自分が安心しているのだと気付くまでに随分とかかって、唇に自然と笑みが浮かんだ。 陽子は時々景麒の話に質問を交えながら、幼子のように耳を傾けた。 やがて漆黒の夜の色が変じ、星々の姿が薄れ始めてきたのを認める。 夜明けが、近い。 陽子はそっと、班渠の毛並みを撫でた。 「班渠、戻ってくれ」 短く返答があり、班渠は空を滑るように駆ける。 風を重く感じて身を引くと、景麒は守るように陽子を抱き直した。 ほどなくして、ほとんど衝撃も感じさせず班渠は忘れられた場所へと降り立った。 肩を抱いていた手が前に差し出され、陽子は景麒の助けを借りて班渠の背から降りる。 太陽はまだ海の向こうにあったが、それでももう、闇夜はどこにもない。 いつしか月は沈み、姿を消していた。 夜と朝の狭間にあることを、空の色が示している。 時とともに漸次その色合いを変え、蒼黒から藍、濃紫から菫へ次第に赤を含み、空は陽の色に近付いていく。 次第に輪郭を見せ始める陽の眩しさに、目がくらんだ。 雲海から吹き寄せる風を不意に冷たいと感じて、陽子はそれを不思議に感じた。 けれどその冷涼さは心地よく、新しい朝の空気を胸深く吸い込んだ。 「ここへはね、夜明けを見に来ていたんだ」 景麒の気配が動いたのを感じながら、陽子は顔をあげた。 黎明の空で、たなびく雲が陽の色を吸い、薔薇色に染まっている。 「眠れない夜が苦しくて、光を見たくて最初は外に出たんだけど、その内、思いがけず朝日を見てね。とても綺麗だったから……」 目を閉じると、目蓋が陽に透けて赤く見える。あたたかな血潮の色だった。 ゆっくりと、陽子は目を開ける。 「光が本当に綺麗で、夜が明けるのを見ると安心できたから、ここへ来ていたのはそれだけなんだよ」 風に流れた自身の髪が、視界の端に入った。 それもまた、鮮やかな赤い色をしていた。 髪が風に掬われてその動きを追うと、自然に隣に立つ景麒と視線が合う。 同じ光の中にある景麒の印象は、とてもやわらかいものだった。 大きく広げられた鳥の、真白い翼のように。 光に彩られた輪郭の淡さに、小さく唇が開く。 感じたのは、近寄りがたい冷たさではなかった。まるで夜明けを目にした時と同じような気持ちが、ことりと胸に生まれた。 急に鼻の奥が痛くなって、陽子は苦くなりながらも、こぼれるように笑みをこぼした。 目交いの人に、誘われて。 光が沁みて、とても眩しかった。 波乱の国に立った。 昼なお暗い深い森を、手探りで歩くのに、それはどこか似ていた。 迷いながら、傷つきながら、それでも目指す場所へと行く。 気付かずともいつも、彼はいた。 言葉もなく、影のように。 鏡に映る向こう側のように。 わからないほど傍に、景麒はいてくれた。 今も。恐らくこれから先も、ずっと。 共鳴するのは、悲しい感情ばかりだった。 けれど今は、違う。 胸を満たす気持ちは、差し始めた陽のように、温かい熱を伴なっている。 「そろそろ帰らないと……案内を頼んでもいいか?」 暖かな光の中で、陽子は微笑う。 紫の目が細められ、心得たように、彼はそっと頷いた。 Novels [3] 夜の鼓動に触れる、完結です。お付き合いありがとうございました。 少し不穏な空気の流れるお話を……と書き始めた話でした。 けれど悲しい結末は、あまり好きではないので。悲しくても痛くても、どこかにささやかな喜びを抱けるような物語が好きです。 タイトルは西谷修著『夜の鼓動にふれる』から。戦争論議義です。 『昼』を一見平穏に見える日常と仮定した場合、その裏側に混在している本能的な欲望ともでも呼ぶべきもののメタファーが『夜』です。 哲学的観点から論議は進んでいきますが、衒学性はないので、それほど難しくはありません。興味がある人は、読んでみると面白いかと思います。 古代から、湾岸戦争までの論議です。 06.09.16 |