紫 瑛 [3]










「景麒、浩瀚に戻るのが少し遅くなると伝えてくれ。祥瓊に会いたいんだ」
「祥瓊に? なぜです」
こちらに向き直った景麒が問う。陽子はばつが悪く、なんとなく頭に手をやった。
「なぜって……逃げるのはやめたんだよ。ちょっとあけてもらってくるから」
「ですから、それは私がと」
「……本当に?」
戸惑いを隠せずに呟くと、景麒は心外だと言わんばかりに憮然とした。
「わかった、悪かった。じゃあ頼む、気が変わらないうちに」
余計な文句を聞かされぬうちにと、陽子は両肩にかかる髪を払い、耳をあらわにした。
払った髪から首筋に風を感じで、急に少し不安な気持ちになった。
取り出した針を確認する景麒の姿に、なぜか切っ先を向けられたような気がした。
避けてきたことが現実として眼前にあることに、やはり少し、気持ちがすくんだのだ。
「よろしいか」
こくりと頷くと、景麒は傍に歩み寄った。戴冠の時ですら、こんなに緊張したかわからない。
こわばった陽子に気付いているのかいないのか、迷いのない所作で、景麒は陽子の頤に手をかけ、横に背ける。慣れない触れられ方に思わずびくりとし、目をつぶる。
「目を閉じずとも、問題はありませんが」
「うるさい」
そう応えるのが精一杯で、目を開けることはできなかった。
指が頤から離れて、耳に触れる。すでに躰はこわばっているので、びくりとはしないで済んだ。
目を閉じているので、気配に敏感になる。
傍近くで覗き込まれているためか長い髪が流れていく気配がして、その一房が、陽子の肩に落ちる感触がした。やわらかな髪は陽子の輪郭をなぞって流れ落ちていき、不思議な感覚にふと目をあけた瞬間、耳に一点の熱を感じた。 熱いと感じたのは一瞬で、冷たいような感触が引き戻っていくとじんとした痛みを感じた。
「反対を」
あっけなさに茫然としていたので、耳元で囁かれ、声が出ないくらい驚く。
景麒はかまわずに頤を捉え、顔を逆に背けさせる。
反論の機をそがれ、むっと唇を尖らせたところで、瞬の熱を感じた。そしてまた熱から小さな痛みに転じる。
「針をよこせ。消毒も自分でするから、ほら」
上手く言えない動揺を誤魔化したい気持ちで、陽子は奪うようにしてそれらを受け取った。
液を含ませた布を耳にあてると、何もつかなかった。思ったより痛みもなく、あっけなかったことに肩の力が抜けた。
こんなことで足踏みしていたのかと思うと苦笑したい気分だったが、景麒の手前、無表情を装う。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫みたいだ」
小さく笑って見せると、景麒の纏う空気がやわらかいものになる。ひどく心配されていたのだとわかると、くすぐったい気持ちがして、笑った。
ふと気付くと、景麒はいつの間にか手の内に小さく畳まれた絹布を載せていた。
先日、祥瓊がしていたあの翠緑の耳墜だろうかと思っていると、解かれた中から出てきたものは、まったく違うものだった。
陽子が敬遠しがちな華美さはかけらもない。むしろ女官たちの装いと比べても、そっけないほど。
真珠ほどの大きさの球体の石が、金の金具に据えられているだけの小さな耳墜だった。
飾り気のない、けれどその石の色は、陽子に懐かしい花を思い出させた。
「ラベンダー色だね、すごく綺麗な色だ。しかし、こんな耳墜なんてあったのか。みんなこんなのばかりだったらいいのに」
「もともとあったわけではありません。作らせました」
その言葉に衝撃を憶え、驚きと茫然がない交ぜになったような表情を向けると、わずかに怯んだ景麒は一度唇を閉じた。
「台座だけです。石は、私の持ち物です」
確かに景麒の言葉通り、金具が真新しい金属特有の輝きを反射している。
驚きがだんだんと麻痺してくると、陽子は逆にひどく冷静になった。
「これはなんていう石?」
「翡翠です。緑以外にもいくつか色があるのです」
陽子の疑問を先回りし、景麒は応えた。
こういう時ばかりよどみない発言を内心面白く思いながら、次の質問を口にする。
「これは小さくて色も綺麗で私は好きだけど、元は大きなものだったのか?」
「いえ……小石ほどしかありませんでした。蓬山を下りる時に、気まぐれに持ってきたものを思い出して……」
ぽつりと語られたのは、意外な応えだった。
小石、と聞いて陽子は考えた。
自分が今まで目にしてきた装飾品から考えても、細工をするには小さいし、かといって分割して耳墜の主石に据えるには足らない大きさなのだろう、普通ならば。
気まぐれ、という景麒にはおよそ似つかわしくない言葉と、それを陽子のためにあつらえたという現実。
小さな翡翠の流転の先がここだというのが、陽子にはとても気に入った。
ふと、こんな印象が何かに似ていると思ったが、すぐには思い出せない。
「私が、しても良い?」
一瞬、何を言われているのか、景麒にはわからないようだった。
手を差し出されて、やっと意味するところに気付く。
「はい。お手伝い……いたしますか?」
「そうしてもらえるなら、ありがたいけど」
のばした手を引っ込めて、陽子は苦笑した。
向こうでイヤリングさえあまりしたことのない自分では、上手くできる自信など皆無だった。
景麒から絹布ごと手渡されて、大人しく荷物持ちを決め込む。
今度は、自ら顔を傾けた。
衣擦れの音を感じ、次いでじわりとした痛みを憶えると、触れた指が離れていく。
同じことを繰り返して、景麒は離れた。
ゆるやかな空気の流れを感じて、陽子は目を開ける。痛みを感じた瞬間に、また目をつぶっていたのだ。
本当は痛みより、慣れない距離に感じた戸惑いを、押し込めるためだったけれど。




そっと、両耳に触れた。冷たくすべらかな石の感触を楽しんで、手を下ろす。
思いの他感慨深くあることに、自然と微笑が浮かんだ。
一言でこの気持ちを言ってしまうなら、嬉しい、に他ならない。
じわりとする痛みさえ、なぜか誇らしい気がした。
「私は先に戻るから、お前は少し休んでからおいで。ちゃんと言っておくから心配ないよ。もっとも共犯か、お前たちは」
「問題などありません、大丈夫です」
「いいから少し、休むんだ」
有無を言わさず腕を取り、陽子は最初景麒が座っていた椅子へと導いて、とんと胸を押した。
景麒は簡単にぐらついて、椅子に落ちる。
特に顔色が悪いわけではない。それでも気付いたのは、とても近くに景麒を感じていたからだった。
景麒の髪が自らの肩に落ちた時、彼の気配が揺らぐのを感じた。
流れた血はなく、本人の言うように、躰に障るものではなかったのだろう。
けれど祥瓊たちにはなんでもないこの行為は、麒麟にとって相当の努力が必要だったのだろう。
陽子は恐れていたし、事実、そうだった。
きまりが悪いのか顔をしかめる景麒に、陽子はふと思い出して彼の手を取った。
上向けた手のひらに、ころりと一粒の飴玉を置く。
「薄荷飴だよ。それを食べ終わる頃、戻ってきたらいい。それまではだめだ」
「……わかりました」
いかにも不服だという様子で頷く景麒に、陽子はつま先をさばき、背を向けて堂扉に向かう。
その瞬間に、陽子はこれだったのかと理解する。
祥瓊がくれた変わり玉は味が変わることはないけれど、次々と変化し、違う色を見せてくれるさまを自分では確認することが難しい。
言われなければ、食べている当人にはただの薄荷飴に過ぎない。
けれど教えてくれる人が傍にいたなら、その人は相手の意外な一面に触れるように、些細なきっかけさえあれば、気付くかもしれない。




「ひとつ思い出したんだけど」
堂扉を開けながら、陽子は上体をひねり、景麒を振り返った。
「あちらではね、女は耳墜をするようになると運命が変わるって言われているんだよ」
本当かどうか知らないけど、と続けた言葉は声にはしない。
代わりに唇の端を吊り上げて、陽子は景麒の反応を見ないまま、堂室を後にした。
















風に広がった袖口から薫る薄荷が、凛と涼しげだった。










Novels  [2]  拾遺










『瑛』は『美しい珠』を意味する言葉です。貴人の、特に王の身を玉に喩えるのはよく知られたのことですので、面白いかなと思いました。
指輪より邪魔にならないものはないか……と考えて書いた話でした。
私事ですが、指輪はよく失くすので。


追記(2018.11)それと昔読んだ指輪の歴史の本に、中国はあまり指輪の歴史がない、現代人の目から見ると、少し変わった(実用的?)デザインが多いと書いてあったのも耳墜を主題に据える要因になりました。


それでは、拾遺へどうぞ。










2006.02