紫 瑛  拾遺










ふんわりと優しい黄色を宿した睡蓮を睨みながら、祥瓊は池のほとりにたたずんでいた。
「どうしたの、そんなふくれっ面で」
睡蓮の色をそのまま声にしたらというやわらかさで、鈴が訊ねた。
「浩瀚さまが言うには、今頃かしら。台輔は大丈夫かしらね?」
「鈴は優しいわね。たぶん大丈夫よ、二人とも自分で言い出したんだから」
相変わらず少し不機嫌な様子を崩さぬまま、祥瓊は言った。
「陽子に耳墜をさせたがってたのは祥瓊じゃないの。嬉しくないの?」
「そりゃ、嬉しいけど……」
呟く声には、いつもの元気がない。
「いろいろ複雑そうね、というより、何か気に入らないことがあるみたいね」
図星をさされて、祥瓊は苦く微笑った。
鈴の言葉は声の優しさのせいか、角というものに乏しい。
彼女が持つ生来の質で、核心にざくりと入ることが多いが、それでもなぜか話してしまう不思議さがあった。
「……最初にあけてあげようかって言ったのは、私だったでしょ。でも陽子は嫌がって、台輔を指名した。それって、本当はあけたくないための言い逃れだったはずだと思うの。でも、台輔はご承諾なさった……」
「うん、そうだったわね」
相槌を打ち、鈴は水面に目を落とした。
水の中で身を捻る鯉の鱗が、銀の光をきらきらと反射する。 その眩しさに、鈴は思わず目を細めた。
「私って、そんなに信用ないのかしら」
祥瓊は、溜息とともにそう吐き出した。
「……はあ? なんで、どうして?」
思いもかけない告白に、鈴は祥瓊の言葉を今一度、自分の中で咀嚼する。
そして、祥瓊の横顔を見た。
注意深く不機嫌さの奥に目をこらすと、迷子の子どものような、悲しい気配があった。
信用がないとはどちらのことを言っているのかと思い、たぶん両方なのだろうと思った。
「さみしいのね」
「さ、さみしくなんかないわよ! ただ私はっ」
「ごめん、なんていうか、そんなことないわよって言いたかったんだけど……あのね、祥瓊」
反射的に後ずさった祥瓊に、引きとめようとするように手をのばし、鈴はまじめな顔つきをする。
「陽子が嫌だって言うのは、祥瓊が許してくれるのを知ってるから、甘えてるのよね。今までだってずっとそうだったでしょ? 少なくとも私には、本気で嫌がっているようには見えなかったわ。きっとそれは何か気持ちの問題で、祥瓊はそれまでちゃんと、待ってあげるつもりだったでしょ?」
真摯な言葉を向けられて、祥瓊は子供のように素直に頷いた。
それにほっとして、鈴は言葉を続けた。
「台輔は、祥瓊を信用なさってないわけじゃないわ。陽子に触れてほしくないと思ったわけでもないわよ。台輔はたぶん、陽子がわがままを言ってくれたのが、嬉しかったのね」
「わがまま?」
意外だと言わんばかりの表情になる祥瓊に、鈴はやんわりとした笑みを浮かべる。
「少しでも嫌だと思っていることを、信頼のない人にお願いしたりしないわ。たとえ冗談だとしても、あれはそのまま陽子の本心だったと私は思うの。陽子がああいうふうに条件を出すのって、珍しいし」
「言われてみれば、確かに……」
祥瓊は握った拳を口元にあて、自分の足元に目を落とした。
相手が景麒だったから、気付かなかったのだ。
これが鈴や自分相手なら、容易く気付いただろうに。




陽子と景麒の間には、まだ、お互いに埋めきれない距離がある。
生まれも育ちも違い、共通するものが少ない。ただ、何に対してもまっすぐで誠実なところはよく似ている。
他者に頼ることを、苦手とするところも。
そんな二人だから、言われるまで予想もしていなかったことに気付いてただ驚く。
しかも事が事なのに、大丈夫だろうかと心配の気持ちが強く、祥瓊は先程までの面白くない気持ちが綺麗になくなっているのに気付いて、そっと顔をあげた。
「本当に、しようのない人たちだわ」
「まったくね」
視線を結んで微笑みあうと、祥瓊は空を仰ぎ、深呼吸をした。
「あとで陽子に会うのが楽しみだわ。どんな耳墜をしてるのかしら」
「気付かないかもしれないわよ。こうして、してることを知っていないとあんまり飾り気がなくて」
鈴の発言に、祥瓊はふと視線を向ける。鈴はそれに応え、なんでもないように言った。
「真珠くらいの大きさの、薄紫色をした翡翠の耳墜だっていうから。台輔が、陽子のためにあつらえさせたのですって。とても気が利いてるって思わない? 陽子らしくて」
「……詳しいのね、鈴。それって浩瀚さまからなの?」
「いいえ、浩瀚さまはご存知ないでしょうね。本当に内々のことだもの。請け負った職人ですら、依頼主が台輔だというのは知らないそうだし」
さらりと告げられて、祥瓊はぽかんと口をあけた。
「じゃ、なんで鈴が知ってるのよ」
「ふふ、それは秘密にしておくわ」
まさに、にこりという表現がぴったりの笑みを浮かべる鈴は、とても少女には見えなかった。
まだまだ知らない面も多いのだと知って、祥瓊は力なく微笑み返す。
「ねえ、鈴もあけない? せっかくだから」
「もう祥瓊ったら。せっかくの意味がわからないわよ。第一、私はあなたたちと違って、耳墜をみたててくれる人なんていないもの」
「あらあら、そんなこと言っていいの? 大丈夫。鈴が言えないなら、私が話してあげるわよ。ええ、遠慮なんてしないで、私と鈴の仲じゃないの!」
「祥瓊っ!」
おっとりとすましていた鈴が、瞬時に顔を朱に染めて叫んだ。
少し潤んだ目で余裕なく祥瓊を睨みつける鈴は、今は少女にしか見えない。
祥瓊は話の主導が手の中にあることに心地よく微笑んで、少し意地悪な顔を作る。
さてどうしたものかと唇に指を載せると、遠くの回廊を、赤い髪の娘が渡って行くのが見えた。
陽子、と呟くと、鈴は祥瓊の視線を追って振り向いた。
迷いない足取りで歩く友人の姿に、自然と足が動いた。
「追いかける?」
「そうね、話を聞きたいわ」
祥瓊が言うと、鈴は頷いた。先に駆け出した祥瓊が、声を張り上げる。
「陽子!」
呼びかけに気付いて、陽子は長い髪を翻し、驚いた様子でこちらを振り向いた。
かすかに頬が上気しているように見えたのは、気のせいではないだろうと二人は思った。










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2006.02