紫 瑛 [2]










人は本当に驚いた時、言葉を失う。
そして驚きがやっと平静に変わり出た言葉に、相手は眉根をよせ、心外だと言わんばかりに憮然とした。
















珍しく、政務の中に空き時間が生まれた。
午後を少し過ぎた頃のことで、予想外の時間に少し落ち着かないながらも浩瀚に休息をすすめられ、訪れた堂室に先にいた者があった。
こちらに気付くと、その人は椅子から立ち上がった。
まるで、自分が来ることを知っていたかのように。




「景麒もお茶か?」
問いながら歩み寄ると、景麒はいいえ、とだけ応えた。
「お忘れですか?」
何がと言おうとして、やめる。
相変わらず彼の言葉は不親切だと思いながらも、少し考えればたぶんわかることなのだろうと思ったので。それでも、思いあることはなかった。
「すまない、さっぱり心当たりがない」
「三日前、お約束なさったことです」
言われて、記憶をたどった。三日前といえば、雁に行っていた祥瓊が帰ってきた日だった。
約束、と思い出そうとする。
首をひねりかけ、陽子は息をするのを忘れた。思わず見開いた目で、茫然と景麒を見返す。
そう、景麒だから憶えているのだろう。口を開くも、言葉が出てこなかった。
「あ……」
ただ喉がふるえただけの声が、それでも安堵となって息をすることを思い出す。
浅く息を吸うと、陽子はのろのろと視線に力を込めた。
「……なんて、執念深い……」
ぽつりと呟かれた言葉に、景麒は眉をひそめ、陽子には見慣れた顔をした。
一方の陽子は怯むこともなく、後ろ手で堂扉を閉めた。
「こんな時ばかり、律儀に守ってくれなくてもいいのに」
「約束は約束です。こちらに」
導き手のように優雅に手を差し出されて、陽子はそれに従った。
祥瓊なら見逃してくれることを、景麒は許してくれない。
殊にそれが心性によるものだと、この麒麟はあきれるほど執拗に食い下がる。
ひとつの翳さえ、留め置くのを厭うように。
景麒はそうした澱みに敏感だった。それを感じさせた憶えなどないのに、いつもなぜか気付かれてしまう。
「私が嫌がっているのを知っていて、強行したがる理由がわからないな」
「けれど、迷っておいででしょう」
おどけた言葉に、ひどく静かな声が降ってくる。
手をのばせば届く距離にあったので、差し出された手に自らの手を預けると先程まで景麒が座っていた椅子に座らせられた。
「針で穴をあけられるなんてぞっとする、とても耐えられない」
「切っ先を向ける相手に、真っ向から向かっていくあなたがですか? 針など比べるまでもなく、些細なものでございましょう」
景麒の応えは、にべもない。
そんな言い訳など、とうに見透かされているのだ。




確かに、陽子は迷っていた。
このまま黙っていればこれ以上何も聞かれることもなく、耳墜をするようになるのだろう。
それはそれでいいのかもしれない。
いつあけるのだともう問われることもなく、女官たちは喜ぶだろう。
けれど、胸が波立った。
二人は今、別々のものを見ている。景麒の言葉は強いものだが、黙り込む陽子を促す気配はない。
陽子もそれがわかっていて、あえて無視していた。
「……おやめになりますか」
やがてあまりに長い沈黙に耐えかねたのか、いつもと同じ冷静な声音で問いかけられた。
「今更それを言うのか? あけたいならあけたらいい、抵抗はしない」
なげやりな態度に、目を合わせずとも景麒が苛立つのがわかった。
けれどそれでも景麒は言葉にも行動にも、先へ移ろうとする様子がない。
小さく、息を吐く気配だけが伝わってきた。
「……あなたが否定したくとも、こればかりはどうしようもない。私は、否定する必要もないことと思っています」
がたり、と大きく椅子が鳴った。それくらい驚いて、気付くと陽子は立ち上がっていた。
「あなたが女王であることは、あなたの責ではない。だから、女性であることに歯止めをかける必要など、どこにもない。そんな権利など誰も持ちません。たとえ誰が、何を言おうとも」
「やめ……っ、もういい!!」
力なくさえぎって、陽子は唇を噛んだ。
突然冷たい水をかけられたような衝撃に襲われて、その寒さに耐えるようにただぎゅっと、拳を握りしめた。
「私の、自由だ」
押し殺した声は自分が思うよりも低く、こわばった印象は否めなかった。
「心に制限をかけることを、自由と呼ぶ者はおりません。ですからどうか、ご自身を追いつめるのはおやめください」
「そんなつもりはないよ。理由なんて特にない、ただ少し嫌なだけだ」
「ではなぜ、見ていらしたのですか」
問う声は感情が抑制されていて、こちらの感情を殺ぐことも荒立てることもしない。
何よりも、間近で向けられる紫の眸に束縛されて逃げることはできなかったし、景麒はそれを赦さなかった。
「時折じっと、女官たちや祥瓊の姿を寂しそうな目でご覧になっている。決まって、いつもより装いの華やかな時に。そしてご自身がそうある時は、いっそう冷めた目をしていらっしゃる。鏡を見ることを嫌がると、鈴が申しておりました」
淡々とした温度が保たれる声は、余計な感情を感じさせない。 今は、それがありがたかった。
そうでなければどうなるのか、陽子には自信が持てなかった。
「私は、そんなに強くないんだ。口さがない罵りなんて、少なければそれにこしたことはないだろう? 女でなければよかったなんて思ってはいないよ、でも……」
人は、それを責める。 慶は女王に恵まれない。加えて、長く善政を敷いた男王の存在がある。
それだけで充分だった。 己は年若く、この世界の『外』に育った。
憂慮される女という性、読み書きもままならず、まるで赤子のようなこの世界への無力さ。
出来すぎているくらい、人の不安をさそうに足る。
知らず、唇が笑みを刻んでいた。
この状況に、陽子ができることなどたかが知れていた。 女性であることはどうあっても変えられないのだから、助長させぬよう気を付ける以外に、方法はなかった。
誰もが自然にどちらかを備えて生れ落ちるというのに、それを糾弾される。
それが負ったものの重さなのだと、陽子には諦観するしか道がなかった。
「私は、嫌です」
冷たい声が、落ちてきた。あまりにはっきりとした口調に、陽子は笑みを失って景麒を睨んだ。
そうして射抜くように強い、真直ぐな目とぶつかる。
「これ以上あなたが自分を殺すのを見るのは、嫌です」
陽子は、言葉が出なかった。
眼前の人も、言われない言葉を向けられる苦痛を良く知っている。そうして彼の身に落とされる言葉の重さは、陽子の比ではなかった。
一瞬もそらされることのない眸が、強い意思を陽子に伝える。
それがじわりと沁みてくると喉が圧迫されるような心地がして、握ったままの拳に更に力が入り、真っ白になる。
「だって……どうして、どうしたら受け入れられる……? みんな勝手に、無責任に私たちを責め立てる……! 自らの意思の及ばない所で、変えられるはずもないことを罪だと言うんだ、それを……!」
言ったそばから後悔した。けれど相手が景麒でなければ、吐き出すことはできなかった。
叫ぶうちに喉の奥に小石がたくさん詰まったようにそれ以上何も言うことができなくなり、陽子は無理やり視線を断ち切った。
吐き出すことも飲み込むこともできない小石は、胸を息苦しくした。
こわばった拳を開いて、胸元にやる。そうするとわずかに、苦しさが和らぐような気がした。
「罪だと、そうお思いですか?」
「……なにを」
「主上ご自身が、それを罪とお思いかとお訊ねしている」
口調こそ丁寧だが、景麒の言葉は質問でなく、命令だった。
うつむいて目を閉じたまま、反芻する。人は、罪だという。
けれど自分は果たしてそうであるのかと、景麒は糾す。




喉の奥が、熱かった。胸に置いた手を、ふたたびぎゅっと握りしめる。




「罪でなどあるものか……! 天があり、私が罪人だというなら、天など存在しないということだろう……っ!」




怒りに満ちた目をあげ、毅然として告げる。
自分を否定した、すべての者を前にする気持ちで。歯を噛み締めて、天を仰ぎ見る気持ちで。




景麒は陽子の言葉を受け取り、厳かな眼差しを一度伏せ、そうして静かにあげた。
「天があることは、誰もが知ること。けれど彼らは何も知らない。何の責任を負うこともなく、自らを小さな枠の内に捕らえて、この重さも意味も永遠に知ることがない。現実に目を背け、枠の中から出ることができない哀れな虜囚です。知らないから言うのです。口にした言葉の、愚かしささえわからぬままに。そういう者の言葉を、主上は信じるのですか。正しいと、お思いですか」
躰の芯を、硬いもので貫かれたような衝撃が走った。
それは頬をはられた時の衝撃に似ていた。景麒の言葉はまさに正しい。
そして辛辣だった。




陽子に向けられる嘲りの言葉は反論の余地を持たぬような正論として口々に囁かれ、陽子の心をひどく傷つけた。間違っていることがわかっていても、それに揺らがないものを陽子は知らなかった。
反論できるだけの言葉を、陽子は持てなかった。
必死に戦っていたつもりで、その実、自分を殺すより他に方法がなかった。




「彼らには、何も変えることはできない。けれど、あなたは変えることができる。それが天意です。あなたは、だから、あなたでしかない」
そう言い切った、天が手ずから創りし神獣の青年は、陽子には神々しく眩しいばかりだった。
















神は地に麒麟を遣わし、天意の器に据えた。そして地上に麒麟を随える生き神をおく。
けれど、声なき声を聞くはただ麒麟のみ。
王を選ぶも慈愛に満ちるも本能だ。けれどそれでも人の姿をもつ彼らは、人の心を持つ。
人の痛みを、生きるうちにその身に識る。
陽子は確かに今、それを受け取った。
喉につまった小石は氷であったかのように溶けてなくなり、やっと深く息を吸い込むと、躰中に穏やかな感情が満ちてくる。
目を落とし、こわばりの溶けた自らの両手を見つめた。
この手に託されたものは、あまりに重い。
けれど支えるのは決して自分ひとりではないのだと、誰もこんなふうして言葉にしてくれたことはなかった。
こごえていた胸に、火が灯ったような気がした。
顔をあげると、陽子は知らず淡い微笑を唇に載せ、告げていた。






「ありがとう」






この気持ちが、決して薄らぐことがないように。
向けられた眼差しの真摯さを忘れぬように、感謝を口にした。
景麒は驚いたように目を瞠り、戸惑いのままに目をそらせた。
陽子はその横顔にもう一度、心の中で感謝する。
耳墜にこだわったのは、口実なのだろう。
女性らしさを強く感じさせるものであることには、違いないけれど。
とっくに腹をくくったつもりで、結局は覚悟が足りなかったということだ。
ならばもう迷うのはやめようと、陽子はひとつの決断をした。










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2006.02