紫 瑛 [1]










その日祥瓊は旅支度もとかぬまま、風より早い足で金波宮を駆けていた。
















「主上!!」
勢いよく開かれた堂扉に、陽子は驚いて振り返った。
「何ごとだ、煩いぞ、景……麒……じゃない、祥瓊じゃないか! どうしたの? 何かあったの、まさか」
「ええ、大ありですとも。主上に申し上げたいことがありまして、私、こうして雁から帰国した足でここに参りましたのよ」
刺々しい口調に、陽子は思わず身震いした。
よく見れば人一倍身支度に気を使う祥瓊が着替えもせず、髪だって走ったせいか乱れ気味であったし、一体何が起こったのかと陽子は恐怖を感じずにはいられなかった。




そもそも祥瓊が雁に行っていたのは、国の、秘密裏な使いの為だった。
雁への使者を務めたあと、数日の休暇を得ていた彼女は雁でのんびりとその休暇を消化していた筈だった。それがどうしてこんな事態を招いたのか、陽子には想像もつかなかった。




「聞くのが怖いんだけど、何があったか話してくれ。なんだってそんなに怒ってるんだ」
「理由なんて、至極簡単……あなたが私に、嘘をついていたからよ!」
嘘をついていたとは穏やかではない。陽子は身に憶えのないことににわかに慌てた。
「冗談じゃない、嘘なんてついてないぞ! 今回のことは最初に全部話したじゃないか」
「そこじゃないわ、私が言ってるのはもっと前のことよ! 耳に穴を開けるのは犯罪者の風習だなんて、よくもまことしやかな嘘をついたものねぇ?」
激昂に染まった表情が、一瞬で毒のある妖艶な笑みにすり替わる。
それと同時に、陽子は躰中の血が音を立てて一気に足元に落ちていくのを感じた。
「なん……なんで……どう、どうしてそれを祥瓊が?」
調弦の狂った楽器のようにひどく滑舌の悪いそれを、祥瓊は鼻で嗤った。
「わざわざ雁で休日を願い出たのはね、雁で何かあなたに似合うものを見立ててあげようと思ったからよ。宮にあるものは豪奢なものが多いから、ふつうの娘たちが見につけるような、ちょっと良いものを雁でなら見つけられると思って……そうしたら、延王が腕のいい海客の細工師を紹介してくださったの」
海客という響きに、陽子はさっとと身をこわばらせた。
「年を聞いたら、あなたとそうかわらなかったわ、その人。変わった細工の耳墜をしていたから、聞いてみたのよ。そうして耳墜をするのは、こちらの風習に馴染んだからですかって。なんのことかって聞かれたから説明したのよ、そうしたら……」
言葉を切った祥瓊が、くっと唇の端を吊りあげた。
どこか自虐的な微笑は退廃的で美しかった。けれど今は暢気に見惚れている状況ではない。
「そんなの聞いたことがないって言われたの! 確かに穴を開けることに抵抗を持っている人はいるだろうけれど、かなり古い考えだって……厳しい家庭で育った人なのかしらって言われたのよ。厳しい家庭だったっていうのは知っているわよ、けどね、これってずいぶんあんまりなんじゃないの?」
この問いかけるような叱責は、祥瓊の常套手段だった。
これは質問どころか、詰問ですらない。拷問とまったく同じだった。
応えの真偽にかかわらず、問いかけた者の意に添う応えでなければ、いつまでも終わらないからだった。
時折景麒や浩瀚も使う手だが、祥瓊はいつでも、一切の容赦がなかった。
こうなるともう、決して逆らわずに謝罪を口にする他、道はなかった。
「ごめん、騙したつもりじゃなかったんだよ。ただ昔はあけたくなくてとっさにそういう嘘をついてしまって、なぜかそれが通ってしまったんで、それでそのままに……」
「へえ、そうだったの」
低く抑えた声があまりによく徹るので、伏せた顔を跳ね上げないようにするのに苦労した。
「そうなんだ、自分でも忘れていたんだよ、本当に。ご、誤解がとけてよかったよ」
「誤解」
一音を切り取って、祥瓊が声にする。また、耳に痛いほどはっきりと徹る声だった。
見えない視線にたまりかね、小さく息を吐くと陽子は覚悟を決め、顔をあげた。
祥瓊は感情の読めない顔をして、陽子をただ見返していた。
一通りの感情が流れていったあと、その残滓を自分の内だけで消化している時に、彼女はこんな顔をする。
怒りはだいぶ静まったようで、整った顔に少し困ったような表情が浮かんできていた。




祥瓊が怒る理由は、もっともだった。
逆の立場だったら激昂こそしないにすれ、多少裏切られたような気持ちにはなるだろう。
友人なのだから、嫌なら嫌だと一言、言えばいいだけのことだから。
「祥瓊、ごめんね。自分の口から、もっと早く言うべきだったね」
「いえ……謝らなきゃいけないのは私の方だわ。頭に血がのぼって、つい怒鳴り込んだりして……ごめんなさい、びっくりしたでしょう?」
「ちょっとね。景麒かと思った」
「いやだ、陽子ったら」
おどけて肩をすくめた陽子に、祥瓊は声をあげて笑った。
悪いと思いつつもこらえきれない、そんな様子がありありと見て取れて、陽子も笑った。
「これ、お土産よ」
そういって祥瓊は懐から差し出した小袋を、そっと陽子の手に載せた。
開けてもいいかと律儀に訊ねる陽子に、もちろんと応える。
かさりという紙の音を立て、陽子は包みを開いた途端、相好を崩した。
「わあ、薄荷飴だ。ありがとう祥瓊」
「変わり玉よ。食べてるうちに色がどんどん変わっていくの。あーあ、結局こうなっちゃうのよね」
早速飴を口に入れた陽子に、祥瓊は苦笑を洩らす。






       女王であることを置いても、あなたは女性なんだから、もっと自分を飾る楽しみを知るべきだわ。






祥瓊はよくそう言うが、行動に訴えることは少なかった。
さりげなくその楽しみを教えようと、心を砕いてくれていることを陽子は知っていた。
最初はまったく勝手がわからなかったし、女の身であることを軽んじられることが多かったので、意識的にそういったものを遠ざけていた。
そうして真正面から女として、真っ向からそれを否定する者の前に立つのは骨の折れることで、なんとなく、女性としてのそういうことの一切が戦支度とでもいうのだろうか、そんな印象になってしまった。
装うことは嫌いではない。
けれど女として前に進むための、戦うための装備なのだ。今はまだ。
誰にも言ったことはなかった。
口にすれば、祥瓊や鈴は自分を哀れに思うだろう。
詮無いことだと笑っても、それは陽子の感情でしかないから言わずにいた。
「祥瓊もひとつどう?」
「いただくわ、ありがとう」
目が合うと、今さらながら何だか気恥ずかしくて、それを誤魔化すようにお互いはにかんだ。
その祥瓊の耳元で、涙のような形をした翠緑の石が揺れたのに陽子は目を奪われる。
祥瓊はすぐにそれに気付いて、前髪を掻きあげて耳墜をみせた。
「翡翠よ。例の細工師のものなの。ついね、買っちゃった」
「綺麗だね、とてもよく似合ってる」
「ありがとう、陽子がしてみてもかまわないわよ」
「えっ……いや、だって、無理だよ」
美貌への賛美に慣れている祥瓊はさらりとそんなことを告げ、無意識に自らの耳に触れた陽子に実に愛らしく微笑んで見せた。
こんな表情で見つめられたら、恋する男は簡単に手の内に落ちるだろう。
残念ながら陽子は同性の友人であったので、その愛らしさに惑わされることもなく、大きくはっきりと首を横に振った。 
「冗談が好きだなあ、それはあつらえたように祥瓊に似合ってるよ。私には大人っぽすぎるって」
「そんなの、してみるまではわからないわよ」
「いやわかる、わかりきってるってば」
「……あのう、そろそろいいかしら?」
そろりと割り込んできた声に、二人はそろって中途半端に開いた堂扉を振り向いた。
「鈴、いつからそこに?」
「そうねえ、耳墜がどうとかってところあたりからかしら」
陽子の問いに、鈴は悪びれる様子もなく応えて堂室に入ってきた。
ちらりと背後を振り返る視線を追うと、鈴の後ろから景麒と浩瀚の二人が現われた。
「なんだか巻き込まれると大変そうだから待ってたんだけど……」
そういう鈴に苦笑して、祥瓊は鈴の後ろの二人に向き直り、ゆったりと礼をとった。
「祥瓊、ご苦労だった」
「いいえ浩瀚さま、とても楽しいお役目でございました」
嫣然と笑む祥瓊に、浩瀚は知性を湛えた切れ長の目を細め、莞爾とした。
含みのある会話に、誰も口を挟まなかった。




陽子はひとり、ひっそりと胸を撫で下ろしていた。
鈴がいいところで話を切ってくれたおかげで、面倒な押し問答をしないですみそうだと、ほっとしかけたのだが。
「先程の話は……」
ぽつりと呟いたのは、景麒だった。 陽子は驚いてすぐに景麒を睨みつけた。
このまま黙ってさえいれば終わってしまう話だったのに、それを蒸し返した下僕の神経が信じられなかった。
しかし景麒はその視線に気付くことはなく、気付いたのは祥瓊の方だった。
この好機を見逃す場もなく、改まった様子で祥瓊は空咳をした。
「主上がこの耳墜をお褒め下さったので、もしよろしければご自身でお試しになりませんかとおすすめしたのですけれど……お似合いになると思いませんか?」
その言葉はもちろん、景麒と浩瀚に向けられたものだ。
鈴は心情としては古い考え方だったので陽子の味方をしてやりたかったが、おそらく正しいのは祥瓊の方なので、口を噤んだ。
「祥瓊、すごく大事な前提があるぞ、私は……」
「ええ、存じております。ですから、これを機会にいかがかと。『昔は』って仰ったでしょう?」
「言った、言ったけど、今は無理だろう。ほら、二人が仕事を……」
「すぐ済みますもの、それくらいお待ちくださるでしょう、お二方とも。それとも私ではご不満かしら?」
狡い言い方だと、陽子は唸った。
ここにいる全員が、それがもはや悪しき風習ではないことを知ってしまっている。
とっさに新たな言い訳も思いつかず、かといって無下に断れば祥瓊に非があるようになってしまう。
それというのもすべては景麒のせいだと陽子はきつく睨んでやろうして、唐突に思いついた。
「景麒……」
「はい?」
名を呼ばれ返事をした景麒に、陽子は唇の端を吊りあげた。
「景麒があけてくれるなら、してもいい」
「陽子、それは……!」
余裕だった祥瓊の表情が一変した。麒麟は、血を厭う生き物だ。
何よりも、こんなやくたいもないようなことで一国に代わる者などいない者の手をわずらわせるなど、一介のの女史には無理な相談だった。
耳などたいした血が出るわけではないが、それでもどうしてそれを願うことができるだろうか。
「主上は、私にせよと仰いますか」
冷めた表情をして、景麒は目交いの主に訊ねた。
「でもお前には無理だろう、だから……」
「せよと仰るなら、いたしますが」
一瞬、誰もが我が耳を疑った。
今一体、この麒麟は何を言ったのだろうかと。
「台輔!?」
「景麒、お前正気か!?」
「随分な仰りようだ。主上がご自分で仰ったのではありませんか」
眉をひそめ不満げに文句を言う景麒に、陽子は驚きのあまり、声が出てこなかった。
「た、確かに言ったけど……!」
それは、景麒ならできないことだと思ったから口にしたのだ。
そしてそう条件付けをしておけば、もう誰もこの件をしばらくは口の端にも載せることはないだろうとの目論見だった。
「……ええと、そういうことなら祥瓊、私は何を用意すればいいのかしら?」
「鈴までもか……景麒、考え直しても構わないんだぞ。やはり血はよくないだろう、お前には」
「主上はなぜ、そんなにお嫌なのですか?」
刹那、びりっと空気が張りつめた。
事を推し進めようとした祥瓊も、傍観者でいた浩瀚も鈴も、息を飲み込んだ。
沈黙が上からも下からも、躰を圧迫するように重く圧し掛かってくる。
言葉を飾ることや包むことに無縁の人であることは旧知の事実だが、なぜ今ここで、と思わずにはいられなかった。
「嫌だなんて言ってない! 人が心配して言っているのに!」
「心配も何も、私は大丈夫だと申し上げた」
無自覚のうちに追い詰めていく景麒に、陽子は怒りから、肩をふるわせた。
事態を見て取り、あわてた鈴が緩衝材になるべく素早く話に割り込んだ。
「ねえ祥瓊、今日は無理じゃないかしら。ほら、お喋りしてて、けっこう時間がたってしまったし……」
「そ……そう、そうね。鈴の言う通りだわ。陽子、今日は無理そうだからまた日をあらためましょうね?」
二人に両肩をつかまれて、陽子はよろめいた。
間合いを崩されて、陽子は後ろを振り向いた。
「ちょっと二人とも……」
「いいから」
「いいから」
なかば引きずられるようにして陽子は書卓へと戻され、友人から女史に切り替えた祥瓊にやりかけの仕事を続けるよう促されていた。
いかにも不承不承といった体で、それでも切り替えを行って陽子は職務へと戻った。










久しく味わったことのない不気味な緊張から開放されて、浩瀚はひとりほっと吐息をついた。
そう短くない時を生きてきているが、この王も麒麟も、時折突拍子もなく、まったく終着の様子のわからない言い争いを始める。
大概は他愛のない些細なことが多いが、それでも先の読めない展開のせいか、ひやりとさせられることが多かった。
「浩瀚」
名を呼ばれて、浩瀚は隣の景麒に視線を送った。
「いつなら、時間が取れるだろうか」
自らの内に沸きあがった感情を、面に出さぬようにするので精一杯だった。
努めて冷静を装い、これはどういうことだろうと思う。
「……明々後日になら、まとまった時間を作れるかと」
「ではそのように。主上には、何もお伝えせぬように」
王と麒麟の本心がいったい何であるのか、浩瀚にはやはり読むことができなかった。










Novels  [2]










2006.02