桜 雪 [3]










花が散る気配が、した。




溶けることなく降り積もり、はかない生の残滓を、桜はそこに残す。
いずれは消える、泡沫の証に。
















闇夜に浮かぶ花に目を移しながら、景麒は諦めに、浅く息を吐いた。
これ以上、逃れることは叶わないのだと覚悟をする。
いつかはこんな時がくることを、わかっていた。それでもと、目を背けた。




「嫌いでは、ありません。ただ……いつか主上が仰ったことが、ずっと耳から離れないのです」
「なに……?」
眸の中に不可思議な色を溶け込ませ、陽子はかすかな声をふるわせた。
透明な海に浸る目は、灯火の光を黄金のように反射している。
その目に、景麒はまるで吸い寄せられるように視線を引かれた。
一瞬、言葉を失う。
「……魅入られると、仰いました……この花に」
あえて花の名を飲み込み、景麒は告白した。
外に目を向ければ、暗間はすぐそこにあった。
闇が迫ってくるような気がして、訳もなく気持ちがざわめいた。
「そんなのただ迷信だ。景麒らしくもない、なぜそんな戯言を……本気で信じているわけではないだろう?」
「わかりません。けれど近付いてはならぬものだと、その時に思いました」
あの微笑が、あの声が、忘れることを許さなかった。
これは近付いてはならぬものなのだと、感情を越えた所に刻まれたのだとしか言いようがなかった。




この身は、人よりも危険に敏い。
何かを越えた所で警鐘が鳴るのだ、近付いてはならないのだと。
黙って景麒を見つめていた陽子が、やがて小さく首を振った。
「私の言葉が呪縛となっているなら、私の言葉を信じているんだね……なら、その戒めを解いてやろう……」
現実を知らしめるように、力強い声が朗々と放たれた。
まどろみを映していた双眸がはっきりと開かれ、切っ先のような鋭さを帯びて景麒を見据えた。
瞬時に、逃れることなど出来なくなる。目を逸らそうとする、現実との対比から。
暗間を怖れると同時に、いつしかそこに惹かれていく感情が生まれていたことを見透かされた気がして、落ち着かなかった。
「……景麒、あれは嘘だ。お前があまりいい顔をしなかったから、皮肉を言ってみたかっただけ。何もないんだよ、咲いてただ散るだけだ。お願いだから、そんな顔をしないでくれ……」
陽子は苦いものを飲み込むように眉を寄せ、また小さく首を振る。
景麒は自分がどんな表情を浮かべているのかわからなかったが、彼女にそんな顔をさせているのは他ならぬ自分なのだと理解して、胸をつかれた。
支えに彼女の腕を掴んだ指からただ、ゆるやかに力が抜けていった。




陽子はようやく自由を許された腕を持ち上げると、ごく自然に、その腕の中に景麒を抱いた。やわらかな抱擁に戸惑い、景麒は長く躊躇ったあと、陽子の肩に額を当て、細く息を吐いた。
「申し訳、ありません……」
「その言葉はもう、聞き飽きたよ……馴染みないものを恐れるのは、当然のことだ。私はずっと、それがわからなかった……わかってもらおうとすればよかったのに、諦めたんだな。何もない、何もないんだ、だから大丈夫……」
呪文のように繰り返される彼女の声が触れた躰から共鳴のように裡に響き、それが心地よかった。
どのくらいそうしていたのか、どちらともなく手を離し、顔を上げると、自然と視線が絡んだ。
凪いだ表情の中に寂しい微笑を浮かべて、陽子はわずかに持ち上げた手を、窓の外へと向ける。
その手は花枝へと伸ばされて、触れた傍から花が散りこちらへと流れ込んで来る。
「遠くないうちに散り落ちる花です、そのように……」
頬に触れた花びらの感触に、景麒は思わず言葉を切った。
自らの指先を見るともなく見ていた陽子は、言葉を途切れさせた景麒を振り向いた。
無防備な緑の双眸が、不安を隠そうともせずにこちらを映している。
「お願いだから、そんな顔をしないで……」
懇願の細い囁きを伴なって、花を散らした指先が、景麒へと伸ばされる。
角に触れるのだとわかったが、不思議と無意識に避けようとする筈の躰は動かなかった。
夜気に冷やされてなお熱い指先がたどたどしく触れるのを感じながら、景麒は息を飲み、目を閉じた。
陽の名残りを残し、わずかに温いようでいて肌寒い風が、外から流れてくる。
指先がゆっくりと離れ、その隙間を埋めるように、やわらかな花びらが触れた。
額から鼻梁をたどって、花は唇へと落ちていく。
かすめるように触れた花びらは、わずかに果実の味がした。
静かに開きかけた目は、唐突に闇に蔽われた。
熱いほどの熱を持った手が、両目を蔽った。視界を奪われて、景麒は緊張に身を竦める。
「景麒」
静かな主の声に、わずかの力に押さえつけられた手の下で、目を開けようと試みる。
「……もし今、許す、と言ったら?」
抑揚なく徹る声に、景麒は衝動的に陽子の手首を掴み、視界を蔽う手を引き剥がした。
「景麒、お前は何を望む?」
陽子は何事もなかったように、小さく微笑んでいた。










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06.05.13