桜 雪 [4]










花は、降り止まない。
その淡さの中に身を置いて、陽子はもう一方の手を差し伸べる。
上向けた手のひらに、薄紅の花が落ちた。
















思考が、掻き乱された。
なぜこんなふうにそんな言葉を聞かなければならないのか、なぜ彼女は今、そんなことを問うのか。何も考えたくないと即座に思った。
問われるまでもない、望みなど、最初から一つしかない。
それがひどく腹立たしかった。
花を受け止めた手を掴み、景麒は力任せに陽子の両腕を引いた。力ない躰は簡単に窓から離されて、この手の内にたやすく収まる。
花片とは違う、確かな存在を伴なって。
「窓から離れていただきます」
睨むようにして、景麒は腕の中の陽子に告げた。
「怒ってる……」
「ええ、あなたは私の言うことを、何一つ聞き入れてくださらない」
景麒はそのまま陽子を腕に抱き上げてしまうと、堂室を横切って彼女の身を榻の上にそっと、横たえた。
その間陽子は大人しく、抗いの一つもなく従っていた。
もう酩酊から醒めることはないのだと、それではっきりとわかる。
けれどこのわだかまりない距離が、景麒には僥倖に思えた。
腕を離すのが、ひどく惜しかった。
「……私は寝ないよ。お前は人の話をちゃんと聞いていたのか?」
「聞いていればこそです。そうでなければ、堂室までお連れ申し上げている」
傍らに跪き、景麒は榻に横たわる陽子と視線を等しくした。
陽子は虚勢を張るのに忙しない瞬きを繰り返す。そうしてついに零れ落ちていった涙に、景麒は思わず目を奪われた。
眦から伝っていった涙の跡を親指でたどると、陽子は、小さく微笑った。
「冷たい手だ……」
独白とともに浮かんだ無雑な笑みに、景麒は動揺とともに我に返る。
自分の行動に驚愕し、その手で彼女の両目を塞いだ。
驚きにか唇が喘ぐように開いて、塞いだ手に、陽子の手がかかった。
一体己は何をしているのかと混乱は大きくなるが、冷静に返った分、手を離すことが出来なかった。
「……花の傍にありたいなら、暫くここで休まれたらよろしいでしょう。私もここにおりますから」
「本当に……? 嫌ではない? できるなら、そうしたいけれど……」
塞いだ手のひらの下で、瞬きをしたのか睫毛がふるえる感覚があった。
小さな感触に罪悪を憶えて、景麒はそっと、手の蔽いを外した。
その下から、嫌ならそう言ってもいいのだと、窺うような優しい眼差しと出逢う。
その目の中に映る己を認め、景麒はかすかに笑みをこぼした。
当人は、その事実に気付かずに。
「嫌ではありません、ずっと、美しい花だと思っていました。そのことを、あの樹が花を咲かせた最初の年に申し上げればよかったと、今は思います」
「そうか……そう言ってもらえて、とても嬉しい。うまく言えないけど、ずっと、とても、悲しかったから……」
陽子は澄み切った目で景麒を見て、本当に嬉しそうに微笑んだ。
その時ふるえたのは何だったのか、無垢な表情に、芯から揺さぶられた。
唐突に思い知らされる、離れることなど出来はしないのだと、少しでも。
「花が散るまででいいから……」
呟きが飲み込まれ、陽子は濁った声を封じ込めるように唇を結ぶ。
「お約束いたします。ここにおりますから、どうかご安心を」
礼を告げる消え入るような声は、それだけが確かな音であるかのように、景麒の耳に響いた。
わずかに傾けた首は窓へと向けられて、目は散っていく桜へと戻っていた。




雪が降り注ぐように、音はない。ただ花が散る気配だけが確かに感じられた。
















静寂が、ある。
陽子はまどろみながらも、まだ桜を見ていた。景麒はそのすぐ傍にいた。
とても、静かだった。
凪の海を見ているようだと思いかけて、景麒は否定する。
まるで水の中にいるようだと。 深い深い、泉の底にいるような気がした。
逃げようと、否定しようと、変えられないものがあることをようやく認めた。
それだけで、さざめきは消え失せた。弱い心を守ろうとした、虚しい嵐は去った。
失えないものの全てが、今ここに、すぐ傍にあった。
血の温もりを持って、呼吸をして、ここに存在している、その歓喜を。
麒麟の性を越えたものが、己の中にあるのだと。
かつて決して理解の出来なかったものが、心を満たしている。
彼の人を奪って行ったものが、自らの裡にもあった。
魅入られるといった彼女の言葉は、そのまま呪縛となった。
実を結ばずに、潔く散りゆく花。ここにある、暗間。その闇は己の中にもあった。
気を抜けば呑まれることを、本能が悟っていただけのこと。
行き場のない想いに、拳を強く、握りしめた。






       この想いが、いったい何の意味を持つというのか。






それでも、なかったことには出来ない。
散り行く花を見つめて、唇に苦い笑みが浮かぶ。






       この花は、とても儚い。そして、とても、美しい。






ずっとそれを、認めたくなかった。
こんなふうに、何も残さずに散りたいとなど思えなかった。この恋情をないものにしようとは、もう思えなかった。
どんな犠牲を払おうとも、あなただけは、失えないのだと。
そんな気持ちを、いつの間にか解している。
誰に教えられた訳でもなく、狂気じみた感情があることを、もはや認める他ない。




傍の気配が動くのを感じて、景麒は陽子に視線をやる。
陽子は榻に身を横たえたまま手をあげ、景麒の髪に触れた。
「花が、いつの間にかついてたみたいだ。髪の色が淡いから、わからなかった」
そっと摘んだ花びらは指先から零れていき、陽子はその指先で景麒の頬に触れる。
「飲みすぎたからかな、何だかあまりよく見えないんだ……」
盲の者が目交いの人の存在を確かめるように、指先が顔の輪郭をたどって、ゆっくりと下りていった。
その指先も、かすかに果実の香りがした。
小さく声をあげかけて、景麒は奥歯を噛んだ。
たまらずに、顔に触れる手を感情のまま、掴まえる。
「月のない、夜ですから……」
「応えになってない……」
「何も、ご心配なさることはないのだと申し上げました。たとえ、花がすべて散ろうとも……」
「景麒、よく見えない……」
掴まれた手をほどこうとするように景麒の手の中で陽子の指にわずかの力がこもりやがてその抵抗が無駄なものだと知ると、彼女は一切の力をそこから失わせた。
さ迷いもせず見上げてくる陽子の表情の中に、幼い不安を見出すのは難しいことではなかった。
飲み込む言葉の中に、揺らぐ眸の奥に、いつも小さな翳が揺らいでいた。
どう言葉を濁そうと、ここは、彼女にとって異界でしかない。
それでも彼女は負ったものを受け入れて、懸命に努めていた。
時折語られる、後悔はしていないという言葉に、嘘がないことも知っていた。
嘘ではないが、心情の全てではないことも。
血縁というものを持たない麒麟にとって王は、もっとも己に近く、信に値する存在だった。
かりそめであっても家族を失った王にとって麒麟は、最も己に近い存在だった。
お互いを大切だと思うその感情は、いつしかかつての時と同じものになっていた。
立場を全くの、逆にして。
分を越えた望みの先には、崩壊があった。
あの嵐が自分にもあるのだと知って、そのことに景麒は戦慄とした。そして理解する。
何も知らなかったのだ、恋など。
もし知っていたなら、最後の最後であの人は半身を残しはしなかっただろう。
心を捧げてくれぬ者を道連れにした所で、何にもならない。
それが自分が愛おしいと思う者なら、尚のこと。
そうして麒麟は、夢の形見に残された。
何も、知らないまま      
















景麒は身をかがめ、覗き込むように陽子に近付いた。やっと安心したようにもう片方の手をあげて陽子は景麒の長い髪を、耳の後ろに掬い上げた。
「顔が見えないから」
ぎこちなく微笑む陽子に、ふいに気持ちがきしりと鳴るのを感じた。
こうしていても、彼女は遙か遠い。
景麒は捉えていた陽子の手を、理性にすがるようにしてようやく解放した。
「主上」
低い呼び声に、陽子は少し遅れて景麒を見上げる。
「あなたは、何をお望みになりますか?」
「……私……?」
思わぬ言葉に、緑の双眸がこぼれるかと思うほど瞠られた。
その驚きを認めて、景麒は頤を引いて頷いた。




過ぎ去った時の中。
彼の人も己も、愛されることしか知らなかった。
誰かを守ること、いたわることを、真実知らなかった。
だからいつもいつも、願うことしか出来なかった       




「主上、あなたの望みは?」
景麒は、訊ねた。
陽子は思いも寄らぬ問いに困惑していたが、やがて淡い微笑を浮かべると首を横に振った。
どこか寂しげな表情は、何かを諦める時の色を含んでいた。
そしてそれは、景麒のよく知る、陽子の表情の一つでもあった。
「仰ってください」
ちり、と灼くような焦燥が胸に迫った。
「何もないよ、何も……。望んで叶わないのが怖いから、何も欲しいと思いたくないんだ。笑っていいよ、景麒。でも、もう何も失いたくない。だから、いいんだ……」
呟きは弱々しく、喉の奥に消えていった。
景麒は今更ながら一つの事実に行き当たって、目を伏せた。






言葉は、すべてを伝えないのだと      






それ以上のことを拒絶するように、陽子はふっと目を閉じた。
自制の箍を緩めてさえ、景麒の与えた戒めが陽子を縛っているのを景麒は知る。
景麒はこちらの意思を断たれたことに、口をつぐんだ。
それならそれでいいと、景麒は静かに、陽子を抱き起こす。
首の下に腕を差し入れ、もう片方の手を浮き上がった躰の下へと回して、何も言わずに陽子を抱きしめた。
先程陽子がそうしたように、泣き濡れる家族を慰めるように、陽子を抱いた。
感じた哀れみと、愛しさのままに。
まるで世界に、たった二人きりでいるような気がした。
榻から陽子の躰が音もなく滑り落ちて、景麒の膝の上に収まる。
景麒の背に回った腕に力がこもり、景麒は陽子の背を、ゆっくりと撫でた。
ゆるやかに抱かれた腕の中で陽子はそっと顔を上げ、間近く景麒を見つめた。
蜜色の光を映した目が揺れて、唇が、小さな囁きを刻んだ。
「……私も、忘れるから……」
消え入るような囁きは、そのまま景麒の唇に触れた。
一瞬より長いほんの少しの間、やわらかな唇が重ねられて離れた。花びらがすべり落ちていくように、景麒の唇に、果実の名残りを移して。
抱く腕に力を込めそうになる気持ちを押し殺し、肩に頬を寄せた陽子の頭を、優しく手のひらの中に収めた。
血が、煮えたぎる気がした。
約束を、違えることになると思った。忘れなければと、けれど忘れられないだろう、とても。
彼女がたとえ、寂しさから触れたのだとしても。
















閉じていた陽子の目が、静かに開かれる。
陽子は景麒の肩越しに、桜へと視線を向けた。
その目は花の奥へと、暗間へと注がれていた。
見えぬものを見ようとするように、ただじっと揺るがない眼差しが向けられる。
花が散り、やがてあらわになり消え失せていく深い暗間へと。
陽子の目に透明な雫が湧き上がり、空知らぬ雨が流れたことを、景麒は知らない。
その雨に、溶けた心さえも。






言葉には、伝えられない想いなど       
















背に回った腕から、力が抜けていく。
不思議に感じて腕を緩めると、陽子の躰が静かに崩れ落ちる。
そっと背中に手を添え、顔を覗き込むと、陽子はいつしか眠りに落ちていた。
涙に濡れた睫毛に気付き、同時に潤んだ双眸を思い出す。
彼女の酩酊は、深い。
この夜のことを憶えているか忘れてしまうのか、判別はつかない。
けれど、約束は守られるだろう。
忘れると、彼女は言った。だから、何もなかったことになる。
灯火の光が、渇き切らない涙を雨の雫のように輝かせていた。
無防備に眠る陽子の顔を長く見つめ、それから景麒はゆっくりと目を閉じた。
そこには、暗闇がある。けれどその闇をもう、恐ろしいものだとは感じなかった。










Novels  [3]










一度書きたかった、桜を題材にしたお話でした。
冒頭の歌の読み手は、土佐日記で知られる紀貫之でした。
最後の方で使った『空知らぬ雨』は時折使われる涙の比喩です。
あまり知らないですが、桜の歌では、親鸞上人の
明日ありと 思う心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
が好きです。
大丈夫だと油断していると、思いもかけないことで失ってしまう事態も起りえるのだ、という意味の歌です。










06.05.20