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桜 雪 [2]










思い出すにも忘れ去るにも、まだ決して遠くはない記憶が浮き上がる。
















それは、ほんの些細な変化の筈だった。
拙い気遣いに驚きながらも微笑んだ人の顔を、どれほど幸福だと感じたかわからない。
だが遅すぎたのかもしれない。
心の均衡を崩した人には、差し伸べられた優しさは皮肉にも、妄執のよすがにしかならなかった。




彼女は泰麒のような、幼子ではなかったから。
そして王である前に、一人の女性だった。




まるで麻薬のように恋に溺れ、疲れきって醜く堕ちて行くのを、景麒はどうすることも出来なかった。
一体あの時、どんな術があったというのだろう。
お互い欲したものはあまりに違いすぎて、無闇に傷つけあい、後には痛みしか残らなかった。
崩壊が止めようもないものだと知った時、髪一筋さえ残さずに、彼の人は逝った。
あれほど弱く、一人で立つことを拒んだ人は最期にたった一人で消えて行った。




だから傍らにあるだけでよいのだと、自らに言い聞かせた。
新たな主は真直ぐな人であるが、決して強い人ではないことは知っていた。
それと同時に、優しい人であることも。
けれど先王が残した翳はまだ、そこかしこに色濃く残っていた。




自ら望んだこととはいえ、距離を持つことを後悔するのに、そう時間はかからなかった。
言葉を飲み込むのは、景麒も同じ。そしてそのために、距離を取ることも。
この身は彼女を玉座へと繋ぐ、枷鎖でしかなかったから       
















「もし……私がお訪ねしなければ、ずっとこちらにいらっしゃる気でしたか?」
「そうだな、もう桜も終わりだから、それを眺めるのも悪くないだろう。景麒に、お願いがあるのだけど」
わずかに向けられた視線に、ただそれだけの仕草に景麒は気圧される。
「あそこの卓に二つだけ満ちている杯があるんだけど、どちらかが水でどちらかが酒なんだ。もうお酒は一滴も飲みたくないけど、正しく選べる自信がない。だから……」
「承知いたしました」
彼女の言葉を切るように短く応え、景麒は示された卓へと向かった。
飲み比べでもしたのか、酒宴の人数よりはるかに多い杯の数に軽い驚きを憶えながら、満たされた杯を探す。それはすぐに見つかって、景麒はその両方を手に取った。
「……何をしてるんだ?」
二つの杯を同時に揺すった景麒を不思議そうに見つめ、陽子は訊ねた。
「酒の方が重く揺れますので。私には香りで判別がつきますが、念のために」
そう言って重く揺れた杯を戻し、水を満たした杯を、陽子へと手渡した。
もう一滴も飲みたくないと言った陽子の言葉を気遣っての行動に、彼女は気付く。
陽子は自然と唇をほころばせ、礼を言って杯を受け取ると水を飲み干した。
「本当に……飲みすぎた」
苦笑交じりにこぼれた科白に、景麒は今更ながらこれがとても珍しい事態であるのだと思い至った。
それらしき痕跡もないのに、果実の甘い香りがしているのも不思議だった。
それをこちらの表情から読み取って、陽子は空になった杯を腰掛けている桟に置いた。
「勧められると、断りにくくて。でも、果汁でかなり薄めて飲んでたから、それほどは……と言っても、お前は信じないかな?」
「いいえ。ご心配申し上げていたほどではと、お見受け致しております」
「そうか? 自分ではよくわからないから……そうならいいけれど」
不安に揺れる表情をする陽子に、景麒はわずかに唇を緩めてみせる。
安心したように微笑んだのに、やはりいつもと違うと感じた。
こんなふうに不安や安堵を簡単に口にするのを、どのくらいぶりに見ただろうと景麒は思った。
「すごく楽しかった。みんなと他愛のない話をして、桜を見て……」
それを呈するように広げられた手が、桟に置かれた杯に触れた。ほんの軽い衝撃にすぎなかったが、安定を失った杯はそのまま窓の外へと放り出される。
動きを目で追っていた陽子の口が開かれ、そのまま彼女の躰は窓の外へと傾いだ。
ひやりとするものを感じながら、景麒は咄嗟に彼女をこちらへと引き寄せた。
「杯が……」
「何をなさるつもりですか、お怪我をなさいます」
自然と厳しくなる口調に、陽子は引き寄せられた腕の中で身を竦めた。
「花が、あんなに降り積もっているから……」
落ちても大丈夫だろうと陽子は言う。
景麒はためらいのないその言葉に、寒気を憶えた。
闇に飲まれようとした躰は、確かな存在をもって景麒の腕の中に収まっている。
思いのほか酔いは深いのだと知って、己の認識の甘さに舌打ちしそうになる。
陽子はこの状態に抵抗する様子もなく、疑問も感じていないようだった。
それを証明するように、この腕に大人しく身を預けている。
その警戒のなさが逆に、景麒には恐ろしかった。




己の不甲斐なさに一人泣く時でさえ、折った膝を抱え込み、嗚咽さえ飲み込んで外界を拒絶する。
彼女にそうさせるのは負ったものの重さ以上に自分のせいなのだと思いながら、ただ心千切られるような想いをまるでないもののように振舞う以外、出来なかった。
お互いの胸中は何一つ、あきらかにされない。
けれど彼女のものも自分のものも、痛みだけはいつでもはっきりと感じられた。




正しさは、世界の全てではない。
虚偽と曖昧と、そんなものが時に慰めになることなど王に出逢う前は知らなかった。
正しさと間違いの間には歴然とした違いがあるのだと、信じて疑わなかった。
対立にははっきりと善悪がないこともあるのだと、それはまるで人の心と同じなのだと、長い時間をかけ、景麒は遠い日に知った。




その迷いが自分の中にも、確かに存在しているのだということも       




腕の中の陽子から、一瞬力が抜け落ちる。
けれど小さく身じろぎし、すぐにそれは消える。
束の間、彼女は眠りに落ちたようだった。そんなことは、常なら絶対にあり得ない。
「堂室までお送りいたします。窓からお立ちになってください」
離した傍から外へと傾いでいきそうな様子に、景麒は両の上膊に支えの手を残したまま、けれどそれでも距離を持つように意識して陽子へと語りかけた。
陽子は物憂げに瞬きを繰り返して、景麒へと緑の双眸を向けた。
間近く見ればその潤んだ目は、如実に酩酊を表わしていた。
もう一度瞬きをすれば涙が滴り落ちていくのではないかと感じられて、景麒は落ち着かない気分になる。
「花を見ると言っただろう。明日にはきっと大方終わってしまうだろうから」
「ではせめて、ここから離れてください」
「なぜ?」
鋭い問い返しに、景麒は一瞬、言葉を失った。
「……危険、ですから……」
かろうじて、そう言葉を吐くのが精一杯だった。
「何がだ」
硬い声のまま、陽子はくつりと嗤った。
どこか自嘲的な笑みに目を逸らしそうになるが、そんな気持ちを律する。
向き合う景麒をよく見ようとするように、陽子は冷たさが滲んだ目を細めた。
「私は、知っているよ。お前はこの花が苦手だろう。いや、嫌いなんだろう? この花が咲く間、決してここに近寄ろうとしないものな、そこにいる私にも……一体何が気に入らない? これが私の故国で愛される花だからなのか? 何とか言ったらどうだ」
問う声は少し低く、けれど感情の温度の殺がれたものだった。
陽子らしくないその言い様に、景麒はすぐに気付く。彼女の意図させるものに。
その痛烈な皮肉に、重い沈黙が流れた。
応えようのない言葉は、いつでもそうやって沈黙に換算されるのが景麒の常だった。陽子はそれを、険しさを増した目で見ていた。










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06.05.06