桜 雪 [1] 桜散る 木の下風は 寒からで 空に知られぬ 雪ぞ降りける…… 月のない夜気の中に、音もなく、ただ気配だけがある。 一つの花が盛りを終え、終焉を迎えようとしていた。 それはこちらでは、どこか希薄な印象の否めない花だった。 徒花であること、色の淡いこと、そしてその花の散り際の物悲しさが、人々から存在を縁遠くさせていた。 だがその花は、蓬莱ではもっとも好まれる花だという。 春を告げ、潔く散るその姿を愛する人は多いのだと、不思議そうに主は言った。 とても綺麗なのに、とおかしそうに微笑って。 そう言って、彼女は隣国の麒麟と王から贈られた花の苗木を、大切そうに手ずから植えた。 庭師に任せればよいとそう提案したが、彼女は頑として頷かなかった。 こういう時の主がいかに頑なであるか、それ以上何も言わず、景麒は傍で見守るにとどめた。 彼女はそれを、私室の傍でなく、一つの客堂の傍に植えた。 意外に思っていると、それをこちらの表情から汲み取って、彼女は不自然なほどほがらかに言った。 好きな花だけど、あまり傍に置くには、適さない花だと思うんだ。 何故かと問うと、最初から、まるで飲み込むようにくつりと笑った。 その微笑みを目の当たりにした刹那、総毛立った。 今にして思えば、その感覚は多分、本能的な恐れに近かったのだと思う。 思いがけず未知の領域に踏み込んでしまったかのような、危うい感覚にどこか似ていた。 翳りを含んだ物憂い微笑はただ一瞬だけで消え、後には景麒の知らない、遠い眼差しがあった。 あれから幾度の年月が巡って、膝丈程だった樹は呪の助けもあってわずかの年月で見上げるほどに高く育ち、隆盛を過ぎた花はそれでも重たげに細い枝を枝垂らせていた。 夜の中に白を含む花弁が輪郭を淡いものにして浮かび上がり、些細な風の流れにその身を散らせている。 それはまるで、霏々と降る雪のように見えた。 差し伸べた手のひらに落ちる花は、冷たくはない。 かすかに紅を含んだ白さは、その奥に広がる暗間を、より一層、深いもののように感じさせた。 何か得体の知れないものが、そこに息を潜めているような気がした。 その暗間に目を向ける度、いつか、主の呟いた言葉が思い起こされた。 魅入られてしまうと言ったその言葉が、自然と景麒を花から遠ざけさせた。 花が咲き、そして散っていく最中、いつでもその声は呪文となって景麒の中に警告のように響いていた。 かすかな畏怖を伴ない、ただ花の終わりを待つ春を、幾度も繰り返している。 この花を、不吉だとは、思わない。 けれど美しいと認めたくない感情が、胸の奥に凝っていた。 その理由など、知る由もなく。 花が、闇の中を陸離として流れていく。 低く静かな旋律のように、夜気の中へ解けて落ち、降り積もっていく。 見上げた建物の一室の窓は、ずっと開かれている。 そしてそこには先程から一人、凭れかかるようにして身じろぎ一つしない人がいた。 景麒は吐息を吐くと、風を感じさせない身のこなしで爪先をさばいた。 そっと堂扉を押し開くと、ゆるやかな風とともに花が流れてきた。 予想の範疇のことに景麒は驚きもせず、静かな所作で堂室へと足を踏み入れる。 目を落とせば花びらは思った以上に降り積もり、床一面を薄紅に染め上げていた。 「……やっと来たな。もう、来ないんじゃないかと思っていた」 とろりとした重みを含ませた声が、笑みを絡めて向けられた。 開け放した窓の桟に腰掛け、陽子は目を細め、景麒を見ていた。 隠す気もなく溜息を吐き、景麒は散り乱れた花骸を踏んで陽子へと歩み寄る。 かろい花びらは景麒の歩みに合わせ、舞い上がってはまた、床へと落ちて行く。 そうして近付いてみれば、わずかな酒の香りと果実の甘い香りが、羅のように柔らかく彼女に纏いついていた。 「どれほど聞こし召された?」 眉をひそめる景麒に、陽子はやんわりと笑みを唇に浮かせる。 それは彼女にしては珍しい、ひどく甘やかな微笑だった。 「私にしては、かなり。とは言っても、祥瓊や鈴に比べたら、涙みたいなものだよ。あの二人は酔ってもね、いくら飲んでも絶対につぶれないんだ。尊敬に値するよ」 女性が自分一人だったから、この宴席に、二人を無理を言って引き込んだんだけれどねと、悪戯に華やいだ声が、またも笑みで閉じられた。 「それで何故、主上はお一人でおられるのですか」 「それは……楽俊具合が悪くなってしまって、介抱にみんなついていってしまったから、二人も、六太くんたちも。それでもう花見はお開きなんだ。私のは足手まといだからって置いていかれた。それで一人お前を待ちつつ、花を愛でているというわけだ」 言って、陽子は窓の外へと手を伸ばした。 伸ばすまでもなくすぐ傍に、花をつけた枝があった。指先が触れると、こぼれるように花が散った。 「お前も最初からいたらよかったのに。とても楽しかったよ。賑やかな席を好まないのはわかっているけど……こんな時くらい、来たらいいのに」 いつになく、陽子は口が回った。元が寡黙だというわけではない。 けれど彼女は常に、最後の言葉を飲み込む癖があった。今の彼女は、その箍が緩んでいるようだった。 政務から外れても、自身が王であるという自覚が、陽子にはある。 その思いが常に彼女にある種の緊張を強いていた。それに彼女自身が気付いているかはわからない。 けれどいつでも、彼女は最後の言葉を自らの裡にしまい込む。 それはただ眼差しの中に現われて、眸の奥でわずかに揺らいでは掻き消えた。 私的な言葉をそうやって、陽子はいつもないものにした。 その覚悟を強いたのは、皮肉にも景麒だった。 お互いの間に距離を持つことを望んだのは、景麒が最初だった。 何よりも、新たな主のために。 距離を持ち、公の立場を崩さず、常に王と宰輔としての関係を望んだ。 ひとえに過去を、人に意識させることのないように。そのことで、彼女が苦しむことのないように。 しかしその想いが、確かな言葉にされることは一度もなかった。 陽子は躊躇いながらも、その要求を受け入れた。受け入れたという言葉は、正しくないかもしれない。彼女には、選ぶ自由など、どこにもなかった。 受け入れる以外に、方法がなかった。それが正しいか間違っているのか、陽子には判別するだけの事情も充分ではなかったにも係わらず。 玉座につく前、彼女は端的に先王の崩御の様子を聞いていた。 封印を失った水禺刀が、過去を見せたこともあったのかもしれない。 先王のことを景麒の口から語ったことも、逆に陽子から訊ねられたことも、ほとんどない。暗黙の了解のような居心地の悪いものが、お互いの間にはあった。 それは多分、彼女なりの優しさだった。傷には、触れないでおくべきなのだろうと。 何もかも、望んで得たものではない。 王として得たもの全てに、彼女は執着がなかった。 それでも努力を怠らず、淡々と与えられた役割を誠実に負った。 疲弊した国はゆるやかに平静を見せ始め、あるべき姿を取り戻し始めた。 なのにそれに純粋な喜びを見出せないことに、景麒は唐突に気付いた。 戦慄に指の先からすべての力が抜けていくのを感じながら、理解する。 自分はまた、間違ったのだと。 願ったものは大切な人の、幸福の筈だった。 ただ、それだけだったのに。 かつてのこと、分を越えた望みは時ならず『世界』を打ち砕いていった Novels [2] *花骸は、ハナガラと読みます。 06.04.29 |