彩虹恋恋 [4]










驚いたのは、突然だということよりも、そこにいない筈の者の声であったからだった。
そして避けたい話題の中に、必然的に登場する人であったから。
















「氾台輔、いったい何をなさっておいでか!」
陽子には聞き慣れた、低い怒声が広い堂室に木霊した。
雷鳴が走ったように、場の空気がふるえるのを肌に感じる。
「あなたね、それが久しぶりに会った私に、いちばん最初に言う言葉なの? 違うんじゃないのかしらねえ?」
氾麟は怒気を纏う景麒にまったく構わずに目を眇め、不満を口にした。
「景麒、やめないか! 私はただちょっとびっくりしだけだ、それは氾台輔のせいじゃないんだから!」
自らの焦りを誤魔化すように、陽子は厳しく景麒を嗜めた。
それを受け、氾麟は形のよい顎をつんとそらした。
「ほら御覧なさい。だいたいぴったりと使令のついてる陽子に、何かできるはずなんてないじゃないの。少しはその石頭、冷えたかしら?」
言葉こそ優しいが、そこには辛辣な響きが多分に含まれていた。
にこりと微笑む顔が見惚れるほど麗しいだけに、陽子は急に心配になる。
景麒の目から警戒の色は消えていたが、それでも傍目にもはっきりとわかるほど不満な様子を滲ませていた。
後に続いていた祥瓊と鈴は意識して、麒麟の両者から目を逸らしていた。
こんなことに巻き込まれては、とても身が持たないだろう。
氾麟は作られた微笑みを嘲るようなごく薄いものに変え、陽子の腕に自らのそれを絡めて、まるで恋人のように枝垂れかかった。
「あなたはいつも陽子と一緒にいるんですもの、今日一日くらい私が独占したっていいじゃないの、何か問題でもあるかしら?」
「主上は物ではありません。大体あなたは非公式にいらっしゃったとお伺いしておりますが……」
努めて感情を殺した声が淀みなく、お得意の慇懃無礼を紡ぎ出した。
陽子は慌てて景麒を睨んだが、氾麟は鼻で笑うと可愛らしく舌を尽き出した。
「決めるのは陽子でしょ、大きなお世話だわ。大体嫌なら、とっくにこの腕を払われているのではなくって?」
勝ち誇ってほくそ笑んだ氾麟に、景麒ははっきりと目を瞠ったあと、唇を引き結んだ。
途端に流れた険悪な空気に、まるで延王と氾王の諍いをこの目で見ているかのような錯覚がした。
景麒が溌溂とした氾麟を苦手としているのは知っている。けれど氾麟の言い様は、からかいの枠を越えているとは思えなかった。
陽子にしてみれば氾麟は同性のよく知った人で、警戒をする必要もないし、景麒にしても恩ある人との再会のはずだ。
それがなぜこんなことになるのか、訳がわからなかった。
ともかく理由が何であれ、氾麟は敬意を払われてしかるべきだとの結論に達する。
空いた手で顔を蔽い溜息を吐いていると、氾麟が陽子を見上げ、そっと耳打ちをした。
「景麒を叱っちゃだめよ、私がからかいすぎただけなんだから」
「でもあれはあんまり失礼……」
反論する口を、白い手に塞がれる。
「いいから! 絶対にだめったらだめなの! 景麒、つまらない冗談よ。そんな所にいないで、こっちへいらっしゃいな」
氾麟は何事もなかったように腕を解くと陽子から離れ、景麒に手招きをした。
訝る様子を解かない景麒に呆れつつ、陽子は景麒へ向かって、腕を差し出した。
「おいで。とても素敵なお土産を頂いたんだ、祥瓊、鈴もこちらに」
苦笑交じりに二人に目配せをすると、鈴が一切の荷物を引き受け、祥瓊が渋る景麒の背を押した。
抗議に振り向いた景麒の視線をまるでないもののように無視して、祥瓊は前に進むように少し強引に促す。それでやっとこちらへと来た景麒を確認すると、氾麟は唐突に傍にいる陽子の背を、力を込めて押した。
不意のことに虚をつかれた陽子はよろめいて、そのまま目の前の景麒へと転ぶようにしてぶつかりそうになる。
寸でのところで景麒に支えられ、ぶつからずにはすんだ。
「大丈夫ですか?」
驚きと安堵の入り混じった表情で、景麒は無事を訊ねてくる。
「うん、平気だ。氾台輔、一体何を……」
振り向くと氾麟はにこりと笑って、いたずらよ、とうそぶいた。
きちんと応える気がないことを知って、陽子は素早く景麒に背を向けた。
またきっと、彼は渋い顔をしているのだろう。 氾麟の前でつまらない喧嘩をしたくなかったので、そうした。
「すごく綺麗ねえ、これは玻璃よね?」
「ほんと綺麗ねえ、さすがは範だわ」
おっとりとした歓声に、三人は声の主に視線を向けた。
視線の先で祥瓊と鈴が無邪気に、氾麟が携えてきた玻璃の杯を眺めていた。
嬉しそうに微笑する氾麟を認めると、陽子はそれを我が事のように感じ、彼女の名を呼んだ。
「鸞を受け取ってから、三人で氾台輔が一体何をお持ちくださるんだろう、ってとても楽しみにしていたんですよ」
陽子の言葉に振り返った氾麟は、また嬉しそうに微笑うと二人の傍に歩み寄って行った。
「……十……?」
背中に、霧雨のように静かな声が降りかかる。それはほとんど声にならない、小さな呟きだった。
こんなに傍にいなければきっと、気付かない程の。 陽子はそっと振り返り、景麒を仰ぎ見た。
「お前も気付いたか。何ていうか……ちょっと小憎らしいよね」
「そう、ですね……」
ゆっくりと瞬いた目を見て、陽子は先程の失言を思い出し、慌てて自らの眼差しを伏せた。
「帰って早々慌ただしいけど……事の仔細は二人から聞いた?」
「大方のことは。はじめは延台輔がいらしているのかと……」
歯切れ悪く応えるのに、陽子はうつむきがちなまま、小さく笑う。
麒麟は眷属の気配を察するのだ。そのことに、今更ながらそうなのだと思う。
「六太くんもきっと、一緒に来たかったんじゃないかな。でもあちらには氾王がいらっしゃるしね」
延王が相当に渋る様子が手に取るようにわかったのだろう、ふっと息を吐き出す気配を感じて、陽子は顔を上げる。
一目で呆れていることがはっきりとわかる表情に、まったくと思う。
「同情してあげないんだ?」
「なぜ? 当然のことでしょう」
不思議そうに返されて、陽子は唇がゆるむのを止めようとも思わなかった。
「そうか。可哀想に、六太くん」
「……何がおかしいのですか」
くすりと笑う陽子に、景麒は不機嫌をあらわに紫の目を向ける。
「私はさ、一人で氾台輔のお相手をしていたんだよ。それでも、そう言う?」
暗に不在を責められ、景麒はうっすらと唇を開いたがそこから言葉は出てこない。ただ、陽子の皮肉をとても理不尽なものだと思っているのは容易に察せられた。
そうしてようやく陽子は自分の中で日常が戻ってきた気がして、自然と笑みが唇からこぼれて落ちた。
「順番がおかしくなってしまったけど、お帰り。疲れてるとは思うけど、たまにのことだからね」
その言葉を受け取り、静かに頷いた景麒の表情は思わず引き寄せられるほどに凪いでいた。




不可思議な感情を湛える目は、先程の氾麟に重なった。
物言わぬ、獣の目だ。
一己の命を認めるだけの眼差しは、かける言葉のすべてを奪う。
視線の先に自分とは違う生があるのだと、存在を浮き彫りにされるような清澄な目に、どう応えていいのかいつも応えを見つけられない。
唯一確かなのは、恐れる必要はないのだということだけだった。




なぜこんな目で、彼らはこちらを見るのだろう。
ひたむきに無心に、眼差しを注ぐのだろうか。
まるで見えぬものをその目に映しているかのように、澄んだ眸を、向けるのだろうか。




「……景……」
「ねえ陽子、聞きたいことがあるんだけれど」
弾んだ氾麟の声に、陽子は問いかけた声を飲み込み、振り返った。
視線の先で氾麟は紫の杯を手にして、いたずらな微笑みを浮かべていた。
反射的に身を引いた陽子は、景麒にぶつかる。
支えとなるよう肩に触れた手に、過剰に驚いて身を竦めた。
そんな陽子の様子に氾麟は満足げに頷くと、細い指先を自らの耳に向けた。
「それって、誰かにもらったんでしょう? 誰からもらったのかしら、さっきのお友達?」
思わぬ質問に、陽子は息を止めた。
背中の景麒の気配が動き、耳元に視線を落とそうとしているのに気付くと、素早く両耳を手のひらの中に隠した。
「ちが……っ、その質問にはお応えしかねます、内緒です」
「否定するなんてあやしいわね。そういうことなら…」
杯を顔の傍でくるくると回しながら、氾麟は祥瓊と鈴、そして景麒に順番に視線を送った。
陽子は氾麟の思惑通りにすっかり動揺し、頬に血をのぼらせると鋭く叫んだ。
「やめ……! もし言ったら、絶対に家出するから!!」
思わぬ科白に、氾麟は唖然として口を開けた。
一拍置いて、氾台輔、と輪唱のような声がした。
「氾台輔、一介の女史の身で、失礼を承知で申し上げます。お願いですから、どうか不問にしてくださいませんか」
「私からもお願いします、陽子はやると言ったらやるんです、ですからどうかもう……」
泣き出しそうな鈴の表情を見やって、氾麟は形のよい眉をひそめた。
「まあ、なんたることなの! ああもういいわ、今日はやめておくわ、今日はね」
叫んだ科白そのままの氾麟は目蓋を覆い、大仰な仕草でよろめいてみせた。
わざとらしい芝居だったが、それが妙にさまになるので白けるような空気は不思議とない。
鈴と祥瓊に感謝しつつ、その合間に陽子は、乱された思考を刹那の速さで立て直した。
いつまでも好き放題、攻められるままではいられない。
そんな矜持が、今の陽子にはあった。
静かに素早く、心を静めるのに気息が整えられる。
緑の双眸は雪解けの水の冷気を宿し、唇だけに薄く笑みが浮かび上がった。
それが、陽子の戦闘開始の合図だった。










Novels  [3]  [5]










06.04.09