彩虹恋恋 [5]










瞬きのような間に冷然とした構えを見せた陽子をもし小娘だと侮るものがあったらなら、それはよほど豪胆か具鈍か、どちらかに違いなかった。
酷薄にさえ感じられる眼差しは、氾麟が虚をつかれるには充分すぎる程の変化だった。
妖魔を折伏する、麒麟を捉えるには。
















笑みを浮かべた唇が、静寂の中でひどくゆっくりと動いた。
まるで愛を紡ぐかのように、やわらかく空気を含んで。




「氾台輔……お忘れかもしれませんが、私は鸞を自由に使える身です。氾王には是非とも、丁重にお礼を申し上げなければなりませんよね?」
やんわりと問われ、氾麟はかすかに身をふるわせた。
瞬時になんでもないような素振りをしたが、陽子が本心を知るには、それは充分だった。
「お礼なんていらないって、言ったでしょう?」
かすかに上擦った声が、不機嫌にそう言った。陽子は少女の面影を残さぬ顔でゆるく首を振り、氾麟の意見を否定する。
「まさか。そんなわけにはいきませんよ。せめて文なり鸞なりでお礼くらいは申し上げなければ、私の気がすみません。こうして大切な氾台輔を御使者にしたててまで、お気遣いくださったんですから……それでなくても私は、氾王には大きな恩のある身ですから、失礼はできないでしょう?」
思いのほか饒舌に語った陽子は、氾麟がはじめて見る大人びた微笑を話の終止符に据えた。
絶句した氾麟は浅く息を吸うと、小さく何かを呟いて、苦い笑みをこぼした。
「……小狡い技を、憶えたのね」
「うちの官吏たちにはひねくれ者が多くて、自然と鍛えられました」
重ねて笑うと氾麟は小さく息を吐いて、手招きをした。
不思議に思いながらも、陽子は一歩を踏み出す。
肩にある景麒の手がそっと離れるのを感じながら、氾麟の傍へと向かった。
「こういうの、フェアっていうのかしら?」
「よく憶えてらっしゃいますね。おあいこって言うより、痛み分けって気がしますけれど」
「しようがないわ、お互い気がゆるんでたんですもの。でもいいわ、あの色をした杯を見るたびに、私たちお互いに思い出すのよ。これは、二人だけの秘密よね?」
「ええ、秘密ですね」
少しだけ睨み合い、どちらともこらえられなくて声を立てて笑った。
胸の前にあげた両手の指を、お互い組み合わせて。
真白い指と褐色の指が、やわらかく結ばれる。ひそやかな、同盟の証に。
「でもいつか聞き出してみせるわよ」
「氾台輔が楽しいような話なんてないですよ、これには。私にはとても大事なものですけど」
そう言って淡く微笑む陽子に、氾麟はまったく納得していないと言いたげに唇を尖らせて、指を離す。
顔をあげ、陽子の後ろを見やった氾麟は直後に頬を膨らませた。
「ちょっと、またそんな顔して……ねえ景麒、聞きたいことがあるんだけど」
「何か?」
その硬い声に、陽子はまったくと思いながら振り返る。
後ろからのびてきた腕が喉元で組まれて、陽子は小さな力に引き寄せられ、予期せずに膝を曲げた。
氾麟が後ろから抱きついているのだと、遅れて気付く。
不覚を取られて苦笑すると、短く静止の声がして、肩口辺りで軽やかな氾麟の声がした。
「月虹を見たって聞いたわ。とっても綺麗だったでしょう? ねえ景麒、あなたは昼の虹と夜の虹と、どちらが好きかしら? どちらの方が、好ましいと感じた?」
「何を……」
「知りたいのよ、応えて頂戴」
訝る景麒に、氾麟の声は徹って、逆らえぬ強さが撓められていた。
近くにその声を聞いた陽子は、思わず彼女の腕の中で身を竦めた。
まるで牙を立てられた、獲物のように。
莫迦なことを思いながら、細く息を吸うと景麒に視線を移した。
景麒は射抜くように鋭い眼差しを、敵意を向けられ者に向けるようにしてこちらを見ていた。
逸らされず向けられる目は陽子を通り越し、氾麟を捉えている。
「ねえ、応えて」
氾麟は問う。声には、すがるような哀切が滲んでいる。
驚いて回された腕に触れると、一瞬だけ、そこに力が込められた。
「景麒」
陽子の呼び声に景麒は氾麟から視線を移し、物言いだけに唇を閉じた後、溜息を吐き出した。
氾麟にならどこまでも抵抗するが、主には、こんな懇願をされたら逆らえない。
勅命であるか否か、そんな命令の種など、意味を持たない。
そこに強い願いが込められているのなら、逆らえるはずなどなかった。
一拍の間があって、景麒は観念したように目を閉じた。
「……どちらも。比べるものではないかと」
「どちらも……」
確かめるように氾麟は口の中で呟くと、陽子の身を解放した。
滑り下りていく腕を感じながら、陽子は氾麟を振り返った。
彼女は眼差しを伏せ、握った拳を口元に当てて、わずかに微笑んでいた。
とても、嬉しそうに。
「よかった」
一言、そう呟いた。
その声には、歓喜が溶けている。
たとえるならそこに、淡い薄紅の色が見えるような気がした。
春に咲く花に注ぐ、やわらかな日差しを思わせ。
誰かの幸せを願う、そんな祈りにも似た表情が氾麟の微笑みの中にあった。
「一体何だと……」
「内緒。案外欲張りなのね、それがわかって嬉しいだけ」
こぼれるような微笑は、どうにも喰えない。だがその笑顔がこうもさまになるのは彼女をおいて他にはないという気がした。
話にならないと、呆れた景麒は陽子に視線を移す。
陽子はそれを受け止め、自分にもわからないと、困った風に微笑って首を横に振った。
長い髪が空に泳いで、隠されていた耳元があらわになる。
それを見やって、景麒は小さく目を瞠った。
陽子はその理由を探し、ゆるく首を振ると頬に髪が触れるように、耳元を隠した。
















背中に、手が触れた。それと同時に、陽子は大きく前へ跳んだ。
差し出された景麒の手を借りて、上肢をひねり、氾麟を振り返る。
「同じ手に、二度もかかりませんよ」
「あら小憎らしい。ねえ陽子、あなたは月虹とただの虹と、どちらが好き?」
形のよい頤に指を添わせ、氾麟はふたたび問う。
その氾麟に陽子は意識して、人を喰った笑みを返す。
「どちらも。氾台輔、あなたは?」
質問に、氾麟は麗しいかんばせをほころばせる。
「もちろん決まってるわ。愚問ね、陽子」
不適な微笑みは、本当に氾麟そのものだった。景麒から手を離しながら、陽子は氾麟の存在を稀有なものに思う。
類なく美しいことを差し引いても、無邪気でいても、沈んでいても、どんな瞬間でさえ、氾麟らしいとしか思えない。
そうしてふと気付く。それは眼前の、自分の半身にも当て嵌まった。
表情の変化に乏しく、言葉数も少ない。
一見何を考えているのかわからないが、慣れてしまえば、そのわずかな変化の中から感情の起伏を見出すことが出来る。
たまに示される不器用な気遣いを何か不思議なもののように感じても、あとで思い返してみれば、本当に景麒らしい、としか思えない。
向けられる、紫の眸を本当に綺麗だと感じる。
あながちあの言葉も間違っていないのかもしれないと思いながら、やはりあの大仰な言葉には、ためらいに口ごもるには充分なものがある。
けれど、と思う。驚くほど純粋で、それでもしなやかさを失わない、彼らはなんて誇り高い生き物なのだろうかと。
そっと背中から、不機嫌な声がした。
「……主上」
「聞いていただろう、私たちだけの内緒話だよ」
途端に憮然とする景麒に笑みを消さぬまま背を向けて、氾麟に向き直る。
こちらに向けられる彼女の双眸も、深い紫を宿している。
けれどそこには輝石にはない、温もりがある。
「さて……すっかり準備が整ったようですから、氾台輔、どうぞお席へ。先日献上された、新茶なんです。吟味されてお気に召したら、是非氾王にも差し上げたいと思うのですが」
「ありがとう、いただくわ」
丁寧に祥瓊が引いた椅子に、氾麟は腰を落とした。
歩き出そうとした陽子の背中に、小さく溜息の気配がした。
わざと歩調を落とし、隣に並び、すれ違う景麒の手の甲を指先で小さく、一度だけ叩く。
視線を落とした景麒を見ないまま、陽子は素早く告げる。






       いつか、ね。時が経ったら、教えてあげるよ。






もう一度こつりと叩いて、陽子は先を行く。
せめてその目を、動揺もなく見返せる日が来るまでは、言えない。
離れていく手を、温かな手が掴まえた。
小さな甘い痺れが、指先を襲う。






       約束、決してお忘れくださいますな。






低く抑えた囁きを陽子の肩に載せるようにして、景麒は行き過ぎる。
その一瞬に離れ行く手が、陽子の指先をそっとなぞって行った。
小さな秘密が、結ばれる。
約束という、名をとって。




そのいつか、それをどんな瞬間に、どんな気持ちで告げるのか、想像もつかない。
陽子はうつむきながら先程と同じように氾麟の隣に着いた。
氾麟は何か言いたげに陽子を見て、開きかけた唇を閉じるとただ、主上が恋しいわと苦笑した。






       三百年も、一緒にいてですか?






陽子の疑問に、氾麟はとても意外そうに目を瞠った。






       好きな人と一緒にいる時間に、短いなんてことは絶対にないのよ。
たとえその時間が幸福に満ちているものでなくても、関係はないの。その人が私のために存在することが、私には幸福そのものでしかないんだから。






そう言い切って、氾麟は澄んだ紫の双眸を細めた。
深い純愛を、彼女はそこに印す。
陽子は景麒の触れた手を、もう片方の手で包み込んだ。
















あなたに見合う自分でいることを、そこにひそやかに誓約する。
何の証でもない、ただそれが、自分の変わることのない誇りであるようにと願って。
またいつか、ともに月虹を見上げることがあるようにと。










Novels  [4]  










全五章、無事完結いたしました。
タイトルの彩虹は、美しい虹のことです。
恋恋は書いていた初期にかけていたアルバムの中の『You don't know what love is』という曲(Govanni Mirabassi/Andrzej Jagodzinskik『Govanni Mirabassi&Andrzej Jagodzinskik Trio』より)と、もうひとつ聴いていたアルバムの中に(Stella Mirus『Air』)『SILENT LOVE』というお気に入りの曲があって、その両方から取りました。恋恋。
余談ですが、月虹を恋人同士で見て、男性がプロポーズをすると叶うという言い伝えがあるとか。セッティングとしては申し分ないし、そもそもそんな仲なら大丈夫だよって、後押しの魔法のような。


氾麟は書いていて、とても楽しかったです。
deep and pure love は英国の宝石言葉から。あちらは紫の目をした方がいらっしゃいますよね、意味深ですね、なんだか。素敵ですけれど。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました。


追記(2018.11)虹が国によって七色だったり六色だったり五色や二色だというのは知っていたのですが、中国や古代日本は五色だったと今回調べて知りました。陰陽五行説と結びついているらしい。
なので丁度五話だから背景色に一色ずつ配してみましたが、見易さを考慮して虹の色調とは違います……苦渋の決断。まあモニターによってもだいぶ違いますけれど(身も蓋もない)。
色名は一話目から朱色、黄蘗色、淡青、新橋色、ラベンダーです。










06.04.15