彩虹恋恋 [3]










「ええ、珍しいわ。景麒は、見たことがなかったのね」
何でもないように、氾麟は言い捨てた。 陽子はその発言に、驚くより戦慄としてふるえあがった。
氾麟は陽子の反応に、彼女にしては珍しく、憮然とした。見惚れられることは珍しくないが、まるで妖魔にでも出会ったように慄かれたことなど、今まで一度もなかったことだった。
不満に氾麟は、わざとらしく唇を尖らせて見せた。
「こんなの初歩的な推理よ、あなたとてもわかりやすいもの」
「わか……でも、どうして、ですか?」
喘ぐような息をしながら、それでも陽子はこわごわと訊ねた。
見知らぬ人を衝立の影から盗み見ようとする子供のような様子に、氾麟は忙しなく目を瞬く。
「陽子……その、本当に、本気なの?」
「もちろん本気です」
「大げさねえ、あなたと親しい人なら誰でもわかることなのよ? 聞いてて悲しくないの?」
「すごく情けないとは思いますけど、わからないままは嫌だから」
苦笑交じりに、それでも陽子が氾麟を見る目はまっすぐだった。
顔をあげ、氾麟は肘をついたまま両手の指を組んだ。
彼女はもはや、見た目の年をとうに追い越している。
それでも彼女が年若い女性であることに相違はないが、この純真さを好ましく感じる以外ない自分がいることを、氾麟はとても面白く感じていた。
それぞれ負った国が、近くはないことを残念に思うくらいに。
「しようがないわねえ、これはおばあさんの慈愛よ。いい陽子、まず第一に、あなたは私を警戒している。そして第二に、それゆえに後ろ暗いことを上手に隠そうとしました。そして第三に、見事にそれを失敗しているの。そこまではおわかり?」
美しく立てた人差し指を、氾麟は陽子へと向ける。
陽子は勢いよく首を横に振り、力いっぱい否定した。
氾麟はその指をくるくると回すと、芝居がかった表情を崩さぬまま、謎ときを進行する。
「最初の質問で、自分で月虹が珍しいものなんだと言っているでしょう、そしてこちらでも、と言った。だから夜半に、こちらの人と月虹を見たということね。その人も、月虹を見るのが初めてだったのね。それがたとえば祥瓊や鈴だったなら、あなたは名前を言ったんじゃないかしら? 月虹は夜にしか見られないもの。その時に傍にいる人なんてよほど親しい人に限られる、そしてそれが誰であるのか隠そうとしたのだとすれば……応えは明白」
敵意がないことを示そうかとでもするように、氾麟は真っ白な手を陽子へと見せる。
何気ない仕草が優美で、陽子は緊張を解かれ、謎の解明にほっと胸を撫でおろした。
「そうか、そういうことなのか……ありがとうございます。なるほどなあ……為になりました」
深く頷く陽子が本当に感心しているようなので、氾麟はからかいに軽く肩をそびやかした。
「どういたしまして。陽子ってやっぱり変わっているわね。慶は毎日がとても楽しそう」
「氾台輔……それ、少しも嬉しくありません……」
眉根を寄せ、苦々しく呟いた陽子に思いがけなくここにいない者を見て、氾麟は思わず吹き出した。
陽子が訝しげに見返すのに、込み上がるものを必死に噛み殺そうとするが、ほとんど無駄な行為だった。
「今の顔、景麒にそっくりだったわ……!」
「えっ……私、そんなに失礼な顔してましたか? うわあ、どうしよう、ごめんなさい、そんなつもりはないんです、その、どう言ったらいいのか……!」
にわかに慌てふためく陽子に、氾麟はとうとう耐えられなくなって卓子の上に折り曲げた上肢を載せて笑い出した。
こんなふうに笑ったのは、どのくらいぶりだろうと思いながら。
「しつ……失礼ですって! だめ、苦しい…私死んじゃうかもしれな……っ」
溜息とともに髪を掻きあげる陽子の様子に、氾麟は悪いと思いつつも込み上げる笑いを殺すことができなかった。
たっぷりと気の済むまで笑って顔をあげると、陽子はもはや脱力しきったふうで、先のお返しのように軽く肩をすくめて見せた。
「ごめんなさい、悪いとは思ったんだけど我慢できなくて……ああ、こんな愉快なことって本当に久しぶり!」
「それはよかった……と言っていいのかわかりませんが……似てました?」
「言わない方がいいかもしれないけど、とってもよく似てたわ。でもねえ、そうなのねえ……」
頬に手をついて、氾麟は小さく笑みをこぼした。
どこか寂しげにも見えたそれは、彼女を外見よりもずっと大人びて見せた。
そのことに、今更ながらこの人は少女でなどないのだと思い出す。
「景麒は、月虹をじっと見ていた?」
問われて頷くと、氾麟は遊ばせている手を、そっと卓子の上に置いた。
白い小指と薬指が玻璃の赤い影の中に入って、まるで宝石のようにその指を彩っていた。
氾麟は目を閉じて、小さく吐息をつく。何かを思い出そうとしているらしく、動きを止めていた。
ややあって、彼女は目を開ける。
けれど眼差しを伏せたまま、静かに口火を切った。
「私はね、陽子……王を得て最初に月虹を見た時に、もし王気が目に見えるものだとしたら、きっとこんなふうではないかしらと思ったことがあるの……」
蝋燭の火に照らされる語り部のように、彼女の声には、幽玄な響きが溶けていた。
囁くような独白がこぼれ落ち、氾麟の双眸は静謐な光を湛えて、こちらに向けられた。
まっすぐであっても射抜くような強さはなく、けれど見つめ返すにはあまりに澄んだ目を、陽子はよく知っていた。
逸らすことができず、見えぬ力に捉われるような、その眼差しを。
だから少しも、畏怖は感じなかった。
「私にはわかりませんが……あんなに淡い印象なのですか?」
意外に思って陽子は訊ねたが、氾王には、それも馴染むような気がした。
華美な服装を好む人だが、細やかで優しい質の人であることを知っている。
美意識の高さゆえに妥協ができないだけで、人の気遣いを省みない人ではない。
確かに延王とはそりが合わないようだが、認め合ってこその反目だった。
他人がどう思おうと、信頼できる人との関係は、それぞれに見合ったものでしかない。
氾麟は頷くでも否定するでもなく、曖昧に首を振って話を続けた。
「王気はいつも、同じではないの。お疲れになっている時や、憂いていらっしゃる時はわずかに揺らぐのがわかる、絶対に言わないけれど。そんな時に思うの、これは月虹と似ているのではないかしらって。そんな時には闇に溶けてしまいそうな藍のようにどこか冷たく感じて、喜ばしいことがあった時には黄色のように温かく感じられて……些細な変化だから、昼の虹のようにはっきりと強いものじゃない。でもどんなものでも、私には美しい光なの。だから月虹を思ったわ。王気をどう感じるかは、人それぞれだと思う。あなたと主上は全然似ていないのに、同じだったら何だか変だもの。実際には、景麒が何を思っていのたのかなんてわからないけれど……ごめんなさいね、年寄りは話が長くて」
小さく微笑む顔には、どこか寂しさが漂っている。
陽子は黙って、小さく首を振った。
「気付いても知らないふりをすることは、お辛くはないですか?」
心配だからこそ近付けない時が存在することを、踏み込めない領域があることを、陽子は知っていた。
お互いの相手と、彼女との立場は、まるで逆であったけれど。
いやいやをするように、氾麟はゆるく、首を横に振った。
「……いいえ、辛いのは私ではないわ。子供みたいだけれど、そんな時に傍にいさせてもらえないことが、私にはいちばん辛いの」
陽子の質問に、氾麟は毅然として応えた。
淡々とした言葉に、陽子は眼差しを伏せる以外、出来ることはなかった。
けれどと、顔をあげ、氾麟の目を覗き込んだ。
今、決して目を、逸らしてはいけないのだと。
















大切だから伝えられない言葉があって、大切だから傷つけたくなくて。
その気持ちこそが目に見えたなら、どんなにいいだろう。
月虹のように、淡く透き徹る光のように常に目に見えたとしたらきっと、かける言葉を間違えることだけはしない。
絶対に、相手を傷つける言葉を吐かずに済むだろう。
けれどそれは空しいことだという気もした。自分が傷つかないための、処世術のようでもある。
「なあに? 私の顔に、何かついてる?」
自分に向けられる陽子の視線に、氾麟は苦く微笑んだ。
「いいえ、何も。私はただの人ですから、表情や声や仕草、そんなものから想像して、汲み取るしかできないので……失敗も多いけれど、しない後悔よりはしてからする後悔の方がいいんだって昔、教えてくれた人がいたんです。だから間違ってるなって思っても、伝えたいことはきちんと言った方がいいのかなって……すみません、何を言っているんだろう、若輩者の戯言です、忘れてください」
口の中に苦さを感じながら、陽子は今度こそ本当の失言をしてしまったと、膝の上に置いた手を握った。
この言葉のどこが慰めだと言うのか、これでは説教ではないかとすぐに後悔の念にかられた。
目交いの氾麟は不思議なものを見るように、どこかぼんやりとした様子でこちらを見返している。
紫の目に浮かぶ感情は、陽子には読めない。
物言わぬ獣のように静かであり、感情と言うものを排斥した眼差しは、こちらのことを一己の存在して認めているのだという意思しか伝えない。
少しの間そうして向けられた視線が、ふいにふっと和らいで細められた。
「そうね……人って、そういうものよね。私はきっと、上手に生きることに慣れてしまっているから……素敵なお友達がいるのね、すごくうらやましいわ」
「いいえ、私は……」
それだけ言うので精一杯だった。
氾麟は、花のようにやわらかく微笑んでいる。
微笑む氾麟の姿は、純粋に美しかった。
「やっぱり会えてよかったわ。こんな勇気をもらえるなんて、思ってなかったもの」
「勇気?」
「そうよ。言わなくてもわかってもらえるんじゃないかっていうのは、やっぱり甘えよね。ちゃんとわかってもらいたいことは伝えなきゃいけないんだって、言葉にして、背中を押してもらったから」
「そんなこと……だとしたら感謝するのは私ではありません。私は何も……」
「陽子は縁というものを信じない? どこかで受けた恩は、どこかへ巡るようになっているのよ」
氾麟は黙り込んだ陽子に、首をほんの少し傾けて見せる。
それでいいのだと。
どう繕おうと、この人の前では自分は子供でしかないのだと、陽子は理解した。
ほんの一片さえ、敵うはずなどない。
苦笑したい気持ちで、彼女のくれた言葉を小さな星のように胸に納める。
いつか誰かに、渡せるようにと願いを込めて。
「がっかりした? 長く生きているからって、もっと容易く物事が運んでいるのだと思っていたでしょう?」
いたずらな氾麟に、陽子は素直に頷いた。
「信頼はあるわ。でも、だから意地を張りたいの。主上に見合う自分でいたいから、時々自分の弱さを見せたくなくて、相手の気持ちにも気付かないふりをしてしまうの。莫迦みたいね」
「そうですね……でも、とてもよくわかります。向こうが強がると、余計駄目ですね、意固地になってしまって。うちはお互い頑固だから、収拾がつかなくなる時もあって……祥瓊たちにはよく助けてもらっています」
「あの子はよくも悪くも自分を曲げないから、陽子は大変ね。心中は察してあまりあるわ」
思いがけずぎょっとすると、氾麟は不満そうに口を尖らせた。
「こう見えても、私の方がお姉さんなのよ」
「それ、は、わかっていますけど、ちょっとびっくりしてしまったので」
驚きを誤魔化したい気持ちで、耳にかかる髪をかきあげた。すると氾麟の目が大きく瞠られた。
彼女は素早く躰ごと陽子へと向き直って、その美しいかんばせを近づける。
逃げようにも逃げようのない状態に、陽子は椅子から落ちないように気を付けつつ、一定の距離を保つので精一杯だった。
「全然知らなかった、陽子が耳墜をするようになってたなんて! どうして教えてくれなかったの? そうと知ってたら……ああ、なんて残念っ……尚隆、六太の役立たず……!」
眉宇をくもらせ、氾麟はがっくりと首をうなだれた。
どうにもやることの突飛な氾麟の行動は、いつも予測ができない。
早鐘を打つ胸を押さえ、陽子はできるだけ感情を削いだ声で話すことに集中した。
「結構前のことなんですが、機会があったので、その時に」
話の筋を濁しつつ、嘘をつかずにそう告白する。
「まあそうなの? でもこんなに近くにいながら今まで気付かなかったなんて、一生の不覚だわ。小さくて飾り気のないこと、でもとてもあなたらしいわ。綺麗な翡翠ね」
何気ない言葉が嬉しく、陽子は知らず淡く微笑っていた。
気付くと目交いの氾麟が茫然としているので、陽子は彼女はまた、何を思い起こしたのだろうかと思った。
ややあって、氾麟はゆっくりと唇の端を引き上げて、どこかで見たことのある微笑みをそこに浮かべた。
本能的に、陽子は身を引きかける。
時々祥瓊が、こんな微笑を浮かべることがある。それは決まって、陽子を不必要に追いつめることが多かった。氾麟は今、その時の祥瓊とそっくりだった。
陽子はほとんど咄嗟に椅子から立ち上がった。
「二人が遅いので、催促してきます。氾台輔はどうぞこちらでお待ちを」
「お茶なら雁で頂いたから、気にしなくったっていいのよ。それにね……」
そっと立ち上がった氾麟に、陽子は慌てて彼女を椅子に押し戻そうと手をのばした。
その瞬間に外から人の声がして、陽子は驚いて悲鳴を上げた。
慌てて自分の口を塞ぐと、堂扉の向こうの気配がざわめいて、いささか乱暴に堂扉が開いた。
飛び込むように入室してきた人物に、陽子は蔽った手を離し息を吸い込んだ。










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06.04.01