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彩虹恋恋 [2]










どんな人間でも、気付かないわけがなかった。
一度でもそれを、体験したことがあるのならば尚更。
これは、そういうものだったから。
















「驚きました……」
ぽつりという陽子に、眼前の人から花のような笑みがこぼれた。
「事情が変わって、主上のお許しが出たの。心残りになるくらいなら、行っておいでと。あの時はこうしてお目にかかれないと思っていたから、結果として騙まし討ちのようになってしまったけれど……これはひとつの賭けでもあったのよ。でもあなたならきっと、私に会ってくれると信じていたわ」
明るい声とともに、その人はするりと何かを脱ぎ去るような仕草をした。
長い金の髪が、細い肩から零れて落ちる。そこにもまた、懐かしい笑顔があった。
「ごきげんよう、陽子。お元気でいらした?」
「はい、氾台輔もお変わりありませんか?」
型どおりの挨拶に、氾麟はその唇にやわらかな微笑みを湛えた。
遜色のない美貌が眩しいようで、陽子もつられて微笑を浮かべる。
「それにしても、あなたは相変わらずそっけない衣装を好むのね。祥瓊もいるっていうのに、なんてもったいないの」
「これが性にあっているんです。動きやすくていいんですよ」
「そんなところは尚隆を見習わなくたっていいのよ、陽子」
「いえ別に見習ったとか、そういうわけではなく……あの、遠路はるばるお疲れでしょう、どうぞ」
笑みを絶やさぬように神経を配り、椅子の背を引いて陽子は氾麟に席を勧めた。
氾麟は物言いたげな顔をしていたが、すぐに気を取り直したらしく、大人しく席についた。
それを確認して、陽子は彼女の隣についた。
「景麒はいないみたいね、どこへ行ったの?」
「瑛州に降りています、どうしておわかりに?」
「あのね……秘密だけれど実は私、麒麟なの。なんと眷属の気配がわかるのよ、すごいでしょう?」
言われれば明白な愚問におどけて返した氾麟に、陽子は自分の麒麟ではこうはいかないと即座に思い至って、自嘲に少しだけ唇をゆるめた。
「私もわかるといいのになあ、景麒の気配」
「あらどうして?」
あまりにも不思議そうに訊ねられ、陽子は喉元まで出かかった不平を飲み込んだ。
どうも無防備になりがちでいけないと、気を引き締める。
お目付け役の不在と思わぬ人との邂逅に気持ちが昂揚しているのだと、陽子は自分を冷静に見つめ直した。
小鳥のように小首を傾げる人に、返答に困ってしばし天を仰ぎ見る。
「そうだったら、フェアでいいなと思ったんです」
「フェア?」
先ほど反省したばかりなのにと、陽子は臍を噛む。ええと、と言い訳がましく呟いた。
「おあいこってことです、釣り合いが取れるかなって」
「……陽子は、面白いことを考えるのね。でももしそうだったら、私は嬉しいわ」
「そ……うですか?」
「ええ。景麒だってそう思うと思うけれど」
「絶対ないですよ、すごく嫌な顔をされそう。想像に容易いなあ」
「あら可哀想に」
どこかで聞いた科白だと思いつつ氾麟と視線を結ぶと、楽しそうに彼女は微笑んでいる。
必死で張ったはずの肩が早くも落ちているのを感じていると、堂扉の外に、耳に馴染んだ友人の声がした。
陽子の返答に堂室に足を踏み入れた二人は、面白いくらい瞠目したあと、堂扉に背中を張り付けた。
「お久しぶりなのに、ご挨拶ですこと」
声には冷たい響きがあるものの、氾麟の顔は完全に笑っている。
それを横目に見ながら、陽子は顔の前で手を合わせ、二人にそっと謝罪を口にした。
「こういうわけだから……悪いけど、いろいろ頼みたいんだ。頼りにしてるよ、二人とも」
「い……いらっしゃいませ、氾台輔」
驚愕から抜けやらぬままでありながら、そう言ったのは鈴だった。
「悪いけれど、よろしくね」
無邪気な氾麟に二人はようやく落ち着きを取り戻すと、礼を取るのに床に膝をつこうした。慶では廃された、最上の礼を。
氾麟はそれを見て、すっと手をのばした。
「今日の私は氾王の使者にすぎないの。ここは慶ですから、慶の法に私は従うわ」
それを聞き、二人は迷うことなく背筋をのばして立つと、深々と頭を下げ、堂室を下って行った。
「氾台輔……」
「お土産を見てちょうだい陽子、お喋りに夢中になってすっかり忘れていたわ」
華やかな笑顔でさえぎって、氾麟はそれ以上陽子に何も言わせなかった。
こんな瞬間に、自分はまだ思うほど大人ではないのだと知る。
言うべき言葉を選んで、言葉にはしなかったものをそっと胸にしまう裁量を、陽子は純粋にうらやましく思った。




氾麟は話の間、膝の上に載せていた朱塗りの箱をそっと卓子の上に置いた。
まろい角を抱く四角形の箱にかけられた飾り紐を解き、氾麟はいたずらな目で陽子と視線を結んだ。
陽子は彼女の了解を得て、その手元を覗きんだ。
箱の中には、淡い色をした薄紙に大切に包まれたものが数個、収められていた。
平たいそれの大きさは小ぶりな卵くらいだろうか、陽子にはそれがいったい何であるのか見当もつかなかった。
「開けてみて」
そっと手渡された物は、硬くて、確かな重みを伴っていた。
そろりと紙を剥がし、包まれていた物を目にして陽子は氾麟を見た。
「綺麗でしょう?」
「とっても」
応えた自分の唇が、笑みを刻んでいるのが鏡を見ずともわかった。
その反応に、氾麟はほっと胸を撫で下ろしたようだった。
意外な反応にぼんやりとしていると、氾麟は次々と包装を剥がして手際よくそれを卓子に並べた。
数はちょうど十。色とりどりの玻璃の杯が並んだ。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……と絵の具を散らしたかのように鮮やかな杯がそこにはあった。
一番手前にあった赤い杯を手にとって、陽子は玻璃の杯を光に透かしてみた。透き徹る杯の向こうが、赤く染まって見える。
それがとても綺麗で、しばらくの間そうして眺めていた。
「それが気に入ったの? この赤はね、とても難しい色なのよ」
「そうなんですか?」
卓子に杯を置き、陽子は訊ねた。
まるで新しい玩具を手に入れた子供のような様子を見やって、氾麟はわざとらしく小さな空咳をした。
それは先日の鸞で聞いたものと全く同じで、陽子はひとり、くすりとした。
氾麟はそれに気付かぬままに、陽子の問いに応える。
「赤の色付けは難しいの。ある金属によって、この色は生まれるのよ。それは一体、何だと思う?」
予想に反して逆に問いかけた氾麟は、応えに窮した陽子に、一房、自分の髪を絡めて見せた。
それを見て、陽子は思いがけなく、気付く。
「もしかして、金……なんですか?」
「そうよ、大正解。だからね、この赤は金赤とも呼ばれるのよ」
桜色の指先で、彼女は手近の紫の杯の縁を、ついとなぞる。
「前に尚隆に聞いたの、あなたはお酒があんまり好きじゃないって。だからこういうものなら、少しでも楽しめるかしらと思って、主上と選んだの」
そう言って、氾麟は手品師のように優雅に両手を広げた。並べられた杯は十。
なんでもないようなそれが、かつて一夏を過ごした人の優しさが、この身にすぎる祝福である気がした。
「それも綺麗ですね、氾台輔の目の色みたいで…まるで紫水晶みたいだ」
「ありがとう、ほめてもこれ以上は何も出ないわよ?」
「いいえ、お世辞じゃありません。金赤のお礼に……氾台輔、あちらで紫水晶が持つ象徴の言葉を、お教えしましょうか。紫水晶が内包する言葉は『深い純愛』と言われているんですよ」
にこりと微笑むと、氾麟の頬が見る間に桜色に染まり、はにかむような微笑が唇に浮かんだ。
「ほとんどの麒麟の、眸の色でもありますね」
そんな氾麟の様子をとても可愛らしく感じて、陽子は歌うように言った。
「陽子ったら……あなたの麒麟だって、そうでしょう?」
はにかんだまま苦笑する氾麟に、陽子は言葉を失い、ぴたりと口を閉じた。
「いやだ忘れていたの、陽子ったら……」
呆れたように溜息をつかれて、陽子は笑おうとして笑えなかった。
あまりに当たり前すぎて、思い至らなかったのだ。
そのことに気付いて、陽子は愕然とした。
視線をさ迷わせ、思わず卓子の杯を凝視した。
陽の光を透過して、玻璃の杯は下に敷かれた紙の上に、その個々の色を落としている。
それをまるで虹のようだと思い、陽子はふと先日のことを思い出した。
「全く……そう、でしたね。あの、氾台輔は、夜に空に架かる虹を見たことがありますか?」
ぎこちなさの否めない問いかけに、氾麟は陽子の様子をおかしそうに眺めながらも頷いた。
深い色をした眸にじっと見つめられ、自分の失言を思い出して陽子はまた落ち着きなく動揺した。
それがあまりにわかりやすかったためか、氾麟は喉の奥で笑いながらまた頷いた。
「月虹なら何度か見たことがあるわ。昼の虹と違ってとても淡いけれど、美しいものね。でもどうして虹じゃなくて月虹なの? どんなお話があるのかしら、すっかり語って聞かせてくれるわよね?」
身を乗り出した氾麟に、陽子は動揺の抜け切らない頭で、必死に話を整理する。
常日頃、友人たちに鈍いと言われてからかわれているが、目交いの人はその友人たちよりも長い時を重ねた人で、その彼女たちが手を焼く相手でもある。
努めて冷静を装いながら、過ぎるほどに慎重に陽子は言葉を探した。
氾麟は、そんな陽子の様子を見ている。
陽子は目を閉じて、深呼吸をした。
「実は先日はじめて月虹を見たんですが、こちらでもやはり珍しいものなのかな、と思ったので……」
静かな声に、氾麟は卓子の上に両肘をつき、手の上に自らの顎を載せた。
澄んだ目をこちらに注いだまま、彼女は陽子の言葉を吟味しているようだった。
緊張に肩を張る陽子に、氾麟は沈黙を破る合図に、ふっと息を吐き出した。










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06.03.25