彩虹恋恋 [1]











「……虹……?」
ぽつりと、陽子の口から独白が洩れた。
















夜半に、虹を見た。
満ちた月を背に、淡く色づいた光が橋のように空に架かっていた。
間違いではないかと思い目を瞬いたが、淡くあるが、それは確かに虹のようだった。
「月虹……」
ほとんど声にならない声が、耳慣れない言葉を紡いだ。
「ゲッコウ?」
「月の光で出来る虹のことです。月が満ちておりますから。けれど、私も見たのは初めてです」
長引いた仕事を終え、執務室から戻る道すがらに見上げた空に、景麒は目を細めて言った。
言われてみればと、陽子は気付く。
近道と息抜きをかねて庭院を突き抜けているのだが、二人の手に、特別灯りはない。
こちらにきて夜の闇の深さを知るのと同時に、月がいかに明るい存在であるのか知った。
満月ともなれば、今は眩しいとさえ感じる。
あちらでは星が明るいなどと、思ったこともなかった。
星が明るいことなど、昔は知らなかった。
宝石を無造作に散らしたように那由他の星があることを知ってはいたが、あちらの空の下では、見たことがなかったから。
星空を見上げることさえなかったように、陽子は思う。




いつの間にか歩を止めて、二人は月虹を見上げていた。
紗がかかったようにぼんやりと白いのは、光量が弱いためであるのだろう。
夜の中、空気は冴えて、すべてのものが鮮明に澄んで見える。あまりに目映い月光に、明るいと知った星さえもかすんでいた。
「寒くはありませんか?」
「平気だ。不思議だけど、綺麗だね」
そっと空に手をかざして、指の隙間から虹を生んだ月を垣間見る。こぼれてくる光は、思わず目蓋を閉じるような強いものではない。 望めばずっと瞬きさえしないで見つめていられる、優しい光だった。
応えがないことに隣を見ると、景麒はひたと月虹を見上げていた。
陽子が見つめていることにさえ、気付かずに。
珍しいこともあるものだと、陽子も再び月虹を見上げた。
















《陽子、変わりないか? あまりに煩いので負けた。しばらく辛抱してくれ》






腕に乗せた鸞が、隣国の王の困り果てた声を囀った。銀粒を与えながら、陽子は懐かしい声を聞く。
先ほど官が、雁からだと言って、陽子へと鸞を届けた。
珍しいことだと思いながら人払いをした堂室で、陽子は鸞の便りに耳を傾けていた。
延王の挨拶が終わり、しばらくの沈黙のあと、可愛らしい空咳がひとつした。






《陽子、お久しぶりね、私が誰かわかるかしら? 私たち今、雁にいるのよ。私も主上もとても元気です。あなたも景麒も、お健やかでいらっしゃるかしら。何か変わったことはある? ああ、じれったいわ》






華やかな少女の声に陽子は少なからず驚いたあと、笑みをこぼした。
鸞の向こうに、この声の持ち主があざやかに見えるようだった。
明るい金の髪をした、同じ年頃の姿を持つ、美しい範の麒麟の少女を。






《相変わらず主上と尚隆はとても仲良しなので、とっても妬けてよ。もちろん私と六太もよ。こうして鸞を差し上げたのはね、雁まで足を伸ばしたついでに、あなたに会いたいと思ったからよ。……驚いた? 気持ちは、嘘じゃないわ。もう少し時間があったなら是非そうしたかったのに》






存外悔しそうな声に、陽子は唇をほころばせる。






《全っ部尚隆のせいよ、恨んでね。そんなわけで、範からお土産を持ってきたのだけれど仕方なく、雁から人をやって送るので受け取ってね。ささやかなものよ、それでみんなで使えるものだから。何かは、届くまでのお楽しみよ。数日のうちに手元に届くと思います。お礼なんていらないわよ、何か楽しいお話が聞ければ私はその方がずっと嬉しいわ。……ちょっと尚隆、何よ、狭量なんだから。煩いわね、もう少しだから黙っていてちょうだい。ごめんなさいね、誰のせいだと思っているのかしらね。それじゃあね、陽子。名残惜しいけれど、さようなら。お元気でね》






軽やかに囀って、鸞はぴたりと嘴を閉じた。 籠を開けると、自らすすんで籠へと入る。
止り木に翼を落ち着け陽子を見ると、鸞は本来の高く澄んだ声で啼いた。
一人でくすくすと笑って、陽子は鳥籠を手に、楽しい気持ちで堂室を出た。
途中、祥瓊と鈴の二人に行き会う。 刻限を思えば、仕事を終え、房室に帰るところのようだった。
「陽子どうしたの、ご機嫌じゃない?」
「あらそれ……楽俊から?」
からかうように微笑した祥瓊に、陽子は即座に首を振った。 意外だと驚く祥瓊に満足して、陽子は唇の端を引き上げる。
「じゃあ台輔?」
今度は邪気なく鈴が訊ねた。それにも陽子は笑顔で首を振った。籠が布で蔽われているため、そのような推測が鈴から出た。
「景麒なら鸞じゃなくて使令の誰かが来るさ。だいたい瑛州ってすぐ傍じゃないか」
声を立てて笑うと、二人があきらかに気分を害した様子で陽子を睨んだ。
思わぬ迫力にひやりとして、陽子は足を擦って後ずさる。  降参はいつでも、早い方が得策というもの。陽子は早々に白旗を掲げた。
この類の争いで、陽子はまず二人に勝てたためしがなかった。
「氾台輔からだよ。今、雁にいらっしゃってるそうで……」
「なんだ、そうなの? お懐かしいわね」
頬に手を添え、しみじみ呟いた鈴に祥瓊は苦笑しながら額に手をやった。
今にも溜息をつきそうな様子に、陽子は口元を隠し、忍び笑う。
可愛い顔をして中身は延麒だと悲鳴を上げていた祥瓊のことを、よく憶えている。
ふっと目が合うと祥瓊がひどくゆったりと微笑んだので、陽子は慌てて見ないふりをした。
「雁から鸞が来たってことは、範のお二人がこちらにお寄りになるとか、そういうこと?」
「ええっ冗談……っ」
「来ようと思ってたけど来られなくなったから、範から持ってきたお土産を雁から送ってくださるんだってさ」
軽く肩をすくめると、祥瓊がほっとした様子で胸をなでおろした。
「突然だと大変なんだもの。心の準備とか、いろいろ必要なのよ」
「わかるわよ祥瓊、他国の貴人の方って緊張するわよね。お話しするのとか楽しいんだけれど」
花のように微笑う鈴に、陽子と祥瓊は顔を見合わせて少しだけ口角をあげる。
この愛すべき友人の、独特の気質に。
憎めないけれど、二人にはどこか掴みどころのない感覚だった。
「それでね……数日のうちに使者を立ててお届けくださるそうだから。その方が来たら鈴、引き止めておいてくれないか? 直接お礼くらい言いたいから」
「わかったわ、ちゃんとお待ちいただくように皆にも伝えておきます。何だか楽しみね」
「うん、とても。みんなで使える物だって仰ってたよ」
「みんなで使えるもの? 食べ物ではなさそうね」
「お菓子も捨てがたいよねえ」
大真面目に推理を始める陽子と鈴に、祥瓊は苦笑しながら話に加わった。
鸞を返したのち、陽子は久々に女三人で氾麟の土産のことや、他愛のないあれこれを語った。
夜半、窓の外に目をやると、中天に月がかかっているのが見えた。
先日の月虹が思い出されて、陽子は自然と月を見上げた。
じっと月を見つめているうちに、陽子はいつしか眠りに落ちていたらしかった。
そうして朝二人に優しく揺り起こされるまでよく眠っていたので、最初に耳に響いたのは小鳥の囀りではなく、二人の忍び笑う声だった。
















陽子はぼんやりと堂室の天井を、見るともなく眺めていた。
先刻、範の使者の来訪を聞いた。 鸞を受け取った、二日後のことだった。
待ちかねた人の来訪に陽子は落ち着かなく椅子に凭れていると、人の気配を感じて、こっそりと両足の爪先をそろえた。
女官が使者の来訪を述べ、ゆったりと堂扉が開かれる。
案内の者の後ろに俯きがちにあらわれた人を見て、陽子は立ち上がり、自ら使者に歩み寄った。
驚く女官に儀礼的な微笑みを向けると、陽子は人払いを申し付けながら鈴と祥瓊をよこすように命じた。
恭しく礼をとり女官が退室すると、氾麟の使者だという人物は礼もとらず、にこりと微笑んだ。
その笑顔は、切ないような懐かしさを帯びていた。










Novels  [2]










06.03.15