風と光があなたに恵むように [2]










いつの間にか立ち上がり、傍に立った景麒のためらうように伸ばされた手が、頬に触れた。
触れた手にいくつも、新たに涙が落ちる。
駄目だと思うのに、涙が降り出した雨のように、次々と彼の手を濡らした。
これほど自分の感情を制御できないことも久しく、涙がこぼれないように陽子は俯き伏せていた視線を上げた。
見上げた景麒が不思議なほど凪いだ目で見ていることに驚き、涙は急に止まった。
簡潔に言うのならばとても驚いて、その時初めて十年という区切りが過ぎるほどの月日が流れたことを否応なく自覚したからだ。
歳経ぬ身での十年が長いのか短いのか、よくわからない。
それでもお互いの人となりを知るのには十分な時間であり、陽子はそれを唐突に思い知らされた。




抑えきれない感情の発露として、涙が止められないことは初めの数年、珍しいことではなかった。
悲しい、寂しい、悔しい、情けない、いろんな感情が入り混じって、それを押し流すように涙がこぼれた。
泣くたびに自分の不甲斐なさを一層感じ、腫物を扱うように周囲に触れられて、それに辟易しながらそれでも泣くことをやめるのは難しかった。
特に、景麒の戸惑いの反応は誰よりも顕著だった。
困ったような、傷ついたような。
平素、感情の揺らぎをほとんど見せることのない彼の戸惑いの反応は、陽子に強い印象を与えた。
痛ましいものを見る目に思わず謝罪が口をついて出ると、彼は驚き、狼狽えて、これ以上堪えられないというように視線を断ち切られた。
自分よりもずっと彼が傷ついている気がして、罪悪感に胸が押し潰されそうでまた涙がこぼれた。
少しずつ過去を知るにつれ、触れてはいけない思い出に踏み込んでしまったのではないかと、その苦い思いは陽子の胸から長らく去らなかった。
けれどいま向けられる凪のような眼差しに、それがもはや過去であることをはっきりと理解した。
すなわち誰かの思い出と重なるには時が経ち、陽子自身が泣く意味をそのまま受け入れている、ということに。
あまりに急に泣き止んだ陽子に、景麒は不思議そうに首を傾げた。
「も、もう大丈夫。いろいろ煩わせてごめん。後は大人しくしてるから」
後ろ手に少し距離を取り、微笑を浮かべて陽子はとっさにそう誤魔化した。
内心は動揺と混乱でいっぱいだったが、それを悟られないように殊更明るく見せた。
景麒はあきらかに釈然としない顔をしていたが、素早く後ろに回った陽子に背を押され、書卓に戻される。
「随分とお忙しい……」
小さく零される皮肉に、内心謝罪しながら陽子は女官らしく振舞い、彼の為に椅子を引く。
「まあ、あちら風に言えば今泣いた烏がもう笑うって感じだろうな」
「それはどういう……」
声音は意味が分からないと、その心持を如実に語っていた。
「そうだな、突然の通り雨みたいな感じかな?」
我ながら苦しい比喩かとは感じたが、景麒は以外にもすんなりと受け入れた様子でゆっくりと目を瞬いた。
驟雨が過ぎ去った主の顔を見つめ、何かを返そうとするような素振りをみせたが賢明にも口を開くことはなく、大人しく席に着いた。
陽子は景麒の後ろに立ったまま途中になった書類を覗き込んで、筆を運ぶ指先を眺めていた。




静かな堂室の中に、いくつかの微かな音だけが漂って、泡のように浮き沈みしている。
紙が擦れて立つ乾いた響きや、迷いない運筆の運びが生み出す墨が滲むわずかな水音。
窓から伸びる日差しは少しだけ長くなり、床の上に矩形の陽だまりを作っている。
静寂に満ちた、静かすぎる午後だった。
筆先が紙から離れるのを確認して、そっと一歩を踏み出した陽子は伸ばした腕の中に背中から景麒を抱きすくめた。
「……危ない」
「避けようと思えば、避けられただろう?」
景麒の肩に顎先を乗せながら、小さく笑うが反論は返ってこなかった。
時折こんな悪戯を仕掛けるが、もはや動揺のかけらもなかった。
猫が開いた本に居座るのと同じようなことだと、どうやら思われているらしかった。
初めは驚いていたようだが、大人しくしていれば何もないということを理解すると、陽子が満足して腕を解くまで彼はそこへ囚われていた。
たびたび班渠や驃騎相手に同じことをするのを見知っていて、殊更の意図もないと理解すればあとは諦観するだけだった。
そもそも獣形の時には殊に纏いついていたこともあるせいか、意外なほど抵抗されなかったことに陽子は安堵していた。
「鈴、戻ってこないね。運よく会えたのかな。鈴は鋭いんだか鈍いんだか、本当にわからなくて、かなり手強いよね。まあ面白いからいいけど」
腕の中の景麒から返答はなく、わずかに身動ぎした振動が伝わってくるだけだった。
相槌くらい返してくれてもいいのにと、小さな不満に抱きしめる力を強くする。
一拍の間があって、景麒は手にしている筆をそっと置いた。
それに気を取られている内に、彼は首を巡らせて陽子を振り向いた。
鼻先が触れるほどの近さに陽子は一瞬だけ身構えて少しの距離を取り、瞬きをした。
間近く向けられる紫の双眸を覗き込む内に緊張はとけて、何故こんなことになっているのかと呑気に思い出し始めた。
見つめ返す目の中に映る光が揺れて、長い睫毛が伏せられる。
見慣れた仕草にふと微笑が吐息とともにこぼれて、伏せられた目がまた向けられる。
「何?」
「……何も」
「嘘言うな。そんなに気になるか? この変装。それとも鬘? この下の髪がばっさりないとかはないぞ。帰るまでそのままじゃなきゃ、駄目、絶対! って祥瓊に言われているから鬘はとれないけど」
何の気なしに告げた言葉に、驚いたように目が開かれた。
「あれ、違ったのか。後が大変だったから、同じことはもうしないよ。また一週間も無視されたら、別の意味で耐えられない気がする」
「それは……」
途端に濁った返答に、表情も過去を思い出すように、硬く曇る。
そんな顔をさせたいわけではないのに、時々何でもないような冗談が古い井戸の蓋を開けた時のように暗い深淵を覗かせる。
忘れていいのにといつも思い、彼の記憶の鮮明さに同時に驚かされる。
自分がとても罪深いように思え、陽子はひっそりと胸中で溜息をつく。
「冗談なんだから、真に受けるな。今はもう昔の話だ。いいな?」
努めて平静に、何でもないように唇に微笑を載せて目を合わせる。
わずかに見上げられる瞳の中に、この心を移し込むようにと。
向けられる眼差しに揺らぎがないことを確認して、もう一度微笑んで巻きつけた腕をそっと解いた。
温かい熱が消えていくのをどことなく寂しく思いながら、椅子に座る景麒と目線が合うようにすると、黒髪がさらりと肩を流れて落ちた。
「そういえば、麒麟の髪は染まらないんだっけ」
「そう言われております」
小さく頷いた景麒の髪を一房掬い、手の中からこぼれていくのを何度か繰り返した。
月光を紡いだように淡い金の髪に触れながら、古い記憶を解いていく。
「歴史上には、金の髪じゃない麒麟もいたんだよね?」
「泰麒も、その一人です」
「そうだね。供の台輔は赤味がかった金の髪だと聞いているけど」
飽きもせず、陽子は景麒の髪を手で梳いている。
「こんなに長い髪を染めるのは大変だけど、もし染められるとしたら、染めてみたい色はある? 私は鈴みたいに黒い髪に憧れたよ」
言いながら、鬘の一房を指に絡め広げて見せる。
「今まで、考えてみたことも、ありませんので……」
あきらかに困惑の色が浮かぶ声はたどたどしく、独白のように消え入る。
陽子が黒い髪に惹かれたのは、赤味がかった髪を両親や周りがあまりよく思っていないこともあってのことだった。
景麒にはそんな経験は皆無だろうし、必要もなかっただろう。
「そんなに深く考えなくていいんだよ。せっかくだから濃い色がいいと思うけど、赤だったらお揃いになるな。赤麒麟っていうのもいたそうだし」
深い意味もなく、そう陽子は口にして景麒の反応に言葉を失った。
景麒は、珍しく唖然として固まっていた。
しんとした堂室に、更に沈黙が蔽いかぶさる。
景麒のその反応の理由を探して、じわじわと陽子の顔に血が昇ってくる。
「私、鈴を探してくる!」
いいことを思いついたとばかりに顔の前で両手を叩き、宣言すると陽子は素早く身を翻した。
慌ただしく逃げ出そうとして、手首を掴まえられる。
反動で均衡を崩し揺り戻される躰に驚きながら、陽子は足を踏ん張るとそろりと手首を掴まえる人物を振り返る。
「彼女はその、じきに戻ってまいりましょう。闇雲に歩き回って万が一、主上だと気付かれたら騒ぎになります」
「そんなことは」
ない、とは言い切れないのが悲しい所だった。
ことに今は非常時のため、宮城で見知った官がいないとも限らない。
それでなくとも陽子は州城の地理に明るくない。こういう場所は得てして似た造りをしているが、まったくの同一ということはない。
危ぶまれる理由は多数あった。時期が時期だけに騒ぎを起こすのが望ましくないのはよくわかっていた。
「わかった、大人しくするからもう離して……」
観念し、どうにかそれだけやっと呟くと、景麒には珍しく慌てた様子で陽子の手を解放した。
「あの……」
「はい」
律儀に返された返事に、陽子は言葉につまった。
羞恥も相まって動揺から抜け出せず、彼をまっすぐに見返せなかった。
右手で左腕の上膊を握り、気持ちを立て直すのに集中する。
眼差しを伏せたまま、自分の履の先を見つめて、気持ちの吐き出しに小さく唸る。
「ただの冗談だから。だからもう、この話は終わり」
急ぎ足に言い切って顔をあげると、眩しいものをみるようにする景麒と視線が噛み合った。
途端に恥ずかしさがこみあげてきて、俯く。
「やっぱり鈴を……」
「大人しくお待ち下さい」
爪先に力を入れたのを目ざとく見つけられ、またも手を掴まれて捕えられる。
陽子は諦めの抵抗にまたも小さく呻くと肩を落とし、ゆるく握られた手をそのままにして椅子越しに背中をもたせ掛けた。
寄りかかったまま、振り返らない。それが精一杯の抵抗だった。
陽子が大人しくしているのがわかると景麒はそっとつかまえた手を離し、再び職務へと戻った。
いくらもしない内に沈黙に飽きた陽子は体を反転させると、景麒の肩に腕を回してまとわりつきながら鈴はいつ戻ってくるのかと、景麒には答えようのないことを問いかけて再び筆を止めさせた。










Novels  [1]  拾遺










風と光があなたに恵むようにでした。
タイトルは小沢健二の楽曲から。終わりない愛しさを与えと同じアルバムに収録されています。
お話はこのあと拾遺に続いて、鈴と夕暉の物語となります。
これは2005.08に発行した『あかいはね きんのはね』という同人誌に収録したお話に、原型が形骸化しているほどの加筆修正を加えたものです。元々[1]にあたる部分だけのお話だったのでそれ以降と拾遺は完全に書き下ろしになります。
書き直すにあたって10年前ということにまず驚き、更新停止期間が長かったとはいえ、10年経っても好きなままでいることにも驚き。
鈴と夕暉を書いたのは初めてで、機会があればまた書きたいです。
それでは、拾遺へどうぞ。










2015.09.30