風と光があなたに恵むように 拾遺










まばらに行きかう人のある回廊を、鈴はのんびりとした足取りで進んでいた。
目的はあったが、少し時間を置く必要があった為に殊更ゆったりと行動していた。
遠く、木立のざわめきが濤声のように回廊に余韻を響かせながら打ち寄せていた。
外に向けた目に飛び込む緑の濃淡が眩しく、美しい。
風が揺らす空気の温度に心地よい季節になったものだと、宮城とは趣の異なる庭木に眼差しを注ぐ。
小さな好奇心から外へ出てそこを歩いてみたいと思ったものの、よく知らぬ場所だということもあり気持ちとして憚られた。葛藤、というほどもないことだった。
こうしてほんの少しの何でもない時間を作っている間に、あの二人はくつろげているだろうかと鈴は堂室に残してきた人にぼんやりと思いをはせる。
行き交う人たちの足は、そう早くない。
事態はゆっくりと収束しているのだと、そこから読み取ることは容易だった。
自分の向かいからやってきた人がふと足を止めたのが気配で感じられ、鈴は俯きがちの視線をゆっりとあげた。
「鈴……?」
懐かしい人の声に呼ばれ、鈴は夢から覚めるようにして声の主を仰ぎ、驚きながらも破顔した。
目の前には信じられないものを見るように、茫然とした体の青年が立ち尽くしていた。
鈴は自然と浮足立って青年の傍へと歩み寄った。
「久しぶりね、夕暉。どうしてここに?」
「それは僕の科白だよ。鈴は陽……主上の遣いなの?」
「半分あたりで半分はずれね。実はって、いけない、あなたはお仕事中よね」
柔らかく問いかけられ、夕暉はようやく我に返ったらしく表情に力が戻っていた。
余程驚いたのかと、偶然の遭遇におかしい気持ちが湧き上がった。
「鈴は帰る所なの?」
「違うわ、訳があって少し時間を潰してるところなの。でも気にしないで仕事に戻って。大丈夫だから」
騒ぎは収束に向かっているとはいえ非常事態の只中にあって、彼は恐らく臨時の人手だろうと推測するのは難しくない。
負担になってはいけないとあっさりと会話を終わらせる鈴に、夕暉は一瞬言葉に詰まったものの、すぐさま口を開いた。
「少し、待っていてもらえる? すぐに戻ってくるから、絶対ここにいて。いいね?」
「えっと、はい?」
反論の余地なく畳み掛けられ、妙な迫力に拙く返事を返すと夕暉は素早くその場から去った。
後姿を見送りながら、鈴は不意に呼吸することを思い出し、ゆっくりと深呼吸をした。




宮城にあって、周囲の人はほとんどが仙籍に身を置いている。
鈴が慶に身を寄せた時より、それはずっと彼女にとって当たり前の環境だった。
それよりも前も似たようなものだった。
だからなのか、彼をとても眩しく感じる。
蘭桂と同じように、少年から青年へと成長していく様に、否応なく流れた年月というものを実感する。
彼は出会ったとき、鈴のことを便宜上、おねえさんと呼んだ。
少年と呼ぶしかない年頃だったから、自然なことだろう。
けれど今、隣に並んだ青年をおにいさんと呼ばなくてはいけないのは自分の方だった。
勿論おにいさんなんて呼ぶことはないが、不思議な物だと思う。
思いのほかぼんやりと物思いに耽っていたのか、夕暉が素早く戻ってきたのか、再び鈴の前に現われた夕暉は時間ができたからと言い、にこりと微笑んだ。
少年時代の面影の残る笑顔に、鈴もつられて口角があがった。
「外が気になるの?」
「庭院がちょっとね。緑がきれいだから」
「小さな四阿があるから、案内するよ。行こう」
断る理由もなく、思いがけない小さな僥倖に弾んだ足取りで夕暉の後について、回廊を抜け庭院へと続いて下りた。
木漏れ日を浴びて歩き、ゆるやかな曲線を描く池にかかる石橋を渡って、欄干から艶やかな斑模様をまとう色鯉をながめる。
水面を覗き込む二人を給餌の者と思ったのか、たくさんの鯉が水面近くに身をくねらせながらこちらを見上げ、時折水の上を高く跳ねて飛んだ。
水飛沫が白く光っては、絶え間なく忙しなく、いくつもの水紋を描き出す。
「陽子が見たら喜びそうね。なんだってこんなにごうつくばりなのかしら、餌をもらってないわけでもないでしょうに」
鈴の言い様に、夕暉は小さく吹き出した。
「何でも、こうやって騒ぎになった時にうっかりたくさん餌をやったら味をしめてしまって、以来こんな風らしいよ」
思ったよりも格段に明確な答えが返ってきたことが不思議で、鈴は夕暉を振り向いた。
彼女の表情から言わんとすることを汲み取って、夕暉はあっさりと謎解きをする。
「昨日知ったばかりなんだ。休憩時間に話題にのぼって。行こう、あんまり見てると水をかけられるかも」
覗き込むように鯉を眺めていた鈴はその言葉にぱっと飛びのいた。
お茶を淹れに行って、濡れ鼠になる理由はない。
名残惜しく遠目に見つめながら、促されて石橋を渡り切り、その先の四阿に入った。
影の差す四阿の中の空気はわずかに冷たく肌寒く感じたが、じきになれるだろうとぐるりと天を見回して視線を戻すと、苦笑する夕暉と目が合った。
知らない場所で物珍しさについ景色を見回してしまったが、あまりに無遠慮だっただろうかと首を傾げた。
それに気付いて夕暉は大丈夫、なんでもないと言った。
それでもやはり子供っぽい行動だったとこっそり反省して、鈴は目を伏せる。
「何だか、変な感じね。こんなところでこんな風に話せるなんて」
「そうだね。それで、鈴はどうして時間を潰す必要があるのかって、聞いても?」
「うん。あのね……」
鈴はできるだけ簡潔に、順序立てて事の次第を話し始めた。
聞いている夕暉の表情に段々と驚きの色が濃くなり、最後には言葉もないという様子で深刻さと戸惑いの入り混じった奇妙な表情が少しずつ薄らいでいくのを見守って、鈴は人騒がせよねと、明るく言い添えると説明を終えた。
「そう、なんだ」
夕暉はどうにかそれだけを呟いて、四阿の中に沈黙が落ちた。
庭院を渡る風が周囲の木立を揺らし、木々の緑が微かに香る。
顔にかかる自身の髪をそっと払って、鈴は至極まっとうな夕暉の反応を微笑ましく受け取った。




祥瓊や桓堆、浩瀚に遠甫ももはやこんなことくらいでは動じない。割りを食うことの多い彼の兄である虎嘯も、その一人と言えるだろう。
陽子の奔放さに驚かされることはあるものの、己もある意味この世界では異分子には変わりなかった。
だからあえて陽子が吐露しない、息苦しさのようなものが少しは理解できた。
彼女が担わねばならない重圧に伴う窮屈さや、宮城の、ある種の閉塞感には同情を寄せるものがある。
そして不器用ながらも公私をわきまえ寄り添う二人を、影ながら手助けできたらと鈴は当たり前のように願っていた。
「驚いたでしょう。でも不自由よね、立場があるって。時々自分の事でもないのに異様に腹が立つことがあるわ。莫迦みたいだけど」
「鈴は優しいね。本当のおねえさんみたいで、陽子は幸せだ」
自嘲気味に愚痴を吐き、同じ瞬間にそれをしくじったと思ったが、夕暉からかけられたのは思いもよらない慰めの言葉だった。
何気ない言葉だったが、そこに載せられた気持ちの暖かさを感じて鈴は無意識の内に吐息を洩らした。
そう言ってくれる人の優しさを、とても嬉しく感じた。
寒さを感じていた筈なのに、体の中からふうわりと明かりが灯ったような気がした。
「びっくりした。いつかの虎嘯と同じようなこと言うなんて、やっぱり兄弟ね。それにおねえさんって言われるの、懐かしいわ」
兄を引き合いに出され夕暉は何とも言えない表情を浮かべたが、鈴の弾んだ声に古い記憶を読み解き、一拍あって何のことか腑に落ちたようだった。
「もう、おねえさんなんて呼ばないよ。そんな必要ないから」
「そう? まあ、そうかもね。あなたの方が背だって随分高くなってしまったし、かえって変だものね」
微妙にずれた返答で納得する鈴に、夕暉は曖昧に頷いてやり過ごした。
「鈴は、そのままずっと変わらないんだろうね、きっと」
「いいことでしょ、変わりがないって。久しぶりでも安心するから……って、なんで笑うの!?」
堪えきれずと言った体で口を蔽い、くの時に躰を折り曲げた夕暉に鈴は頬を膨らませるが、それがさらに夕暉の忍耐を煽ったことを本人は気付かない。
「笑ってごめん、莫迦にしてるんじゃないよ。すっごく鈴だなあと思って、安心したんだよ」
笑い顔のまま、怒り呆れる鈴に夕暉は必死で笑みを噛み殺し、さらに謝罪を重ねて何とか彼女から許しを得た。
話題はいくつかうつろって、四阿の中は小さな笑い声がたえなかった。
楽しい時は、過ぎゆくのが早い。
名残惜しく思いながら、鈴は彼の名を呼んだ。
「そろそろ行くわ。戻らないとたぶん、陽子が私を探しに来ちゃうから」
そっと足を一歩引くと、夕暉に引き留められた。
「たぶん、それはないから大丈夫だよ。でも戻るなら、一緒に行くよ」
またもやけに確信めいた発言に、鈴は怪訝に思い、眉をひそめる。
陽子のことなら夕暉よりも自分の方が詳しいことが多いだけに、ある種の抵抗を抱かずにはいられなかった。
小さな反発を表情から察して、夕暉は秘密を告白するように立てた人差し指を唇にあてがい、ひっそりと微笑を浮かべた。
指先の動きに目を奪われて、鈴は一瞬動揺を覚え、すぐにそれを打ち消した。
見たこともない影を含んだ仕草に、見知らぬ人のように感じたのだ。
彼はもはや大人の男性なのだと、皮肉にも実感させられた。
困惑の表情を謎解きへのものだと受け取って、夕暉はたいしたことじゃないと話し始めた。
「州城は今、いろんな人が出入りしてる。臨時で宮城から出向している人も多い。いくら陽子が変装してるからと言っても、見知った人の前ではボロも出やすい。絶対に台輔が止めてるはずだ。彼女はあまり自覚がないようだけど、騒ぎに巻き込まれやすいというか、首を突っ込みがちだ。主上だと露見したら大騒ぎになるし、鈴だって何か罰を受けるかもしれない」
「ああ……成程ね、納得した。じゃあなおさら、強行突破する前に戻らないとまずいかも。台輔は意外に陽子に甘いのよ」
「苦労するね。案内するよ、行こうか」
何気なく夕暉は手を差し出した。 考えるよりも先に体が動いて差し出された手を、鈴は自然と取った。
夕暉はそれに驚いて、ほんの一瞬、握った手のひらがふるえたのが伝わった。
思わぬ反応に、鈴は自分の行動が勘違いだったと知って手を引こうとしたが、離れていかぬようにぎゅっと握り込まれてそれはかなわなかった。
「やだ、ちょっと勘違いしたの!」
「いいから、迷子になったら大変でしょ」
「それは、そうだけど……」
強く反論もできず、抵抗に手を引くも、やはりほどけずに手を繋いだまま、元来た道を帰り始める。
人の姿を認めて、色鯉がふたたび石橋の影に集まってくる。
本当に、なんだってこんなに元気なのだろうという、かしましさだった。
前を行く、自分よりも大きな背中を眺めながら、鈴は鯉が賑々しくてよかったと思っていた。
走っている訳でもないのに、足元がふわふわと頼りなく、自分の鼓動がなんだか落ち着かない。
外に聞こえるように鳴り響いている訳ではないことは理解している。それでもそれを気付かれないように、隠したいと思ったから。
ぱしゃん、とあがる水飛沫が眩しい。夕暉が水音に振り返り、鈴を見て足を止めた。
「鈴、どうしたの? 難しい顔をしてる」
「もう、いま鏡がないから、そんなこと言われても困るんだけど」
夕暉の指摘に鈴はただ、思った通りのことをそのまま応えた。途端、夕暉は表情をゆがめ、繋いでいない方の手で口を押さえると躰を折り曲げて吹き出した。
鈴は呆気にとられ、ついで眉根を寄せると頬を膨らませた。
「ま、また笑う! 困ってるのは私なのに!」
「だ、だってそうだけど、ああ本当に鈴は……っ」
眦に滲んだ涙を指の腹で払い、夕暉は自分を睨んでいる鈴を見返した。
「ごめんなさい、怒らないで」
「……本当に、ずるい。そう言われたら、許さなくちゃいけないじゃないの」
拗ねたように唇を結んで、鈴は胸の深くから、溜息を吐き出した。




もともと物事をはっきりと白黒つけようという性質ではない。
流されるまま仕方がないと諦めて翻弄され、痛い目を見て、やっとすべきことは何かはっきりと自分で選ばなくてはならないのだということを学んだ。
大きな流れの中にあって、自分の役割というものを今は理解している。
変動の中にあっても、碇のように揺らがずにいること。 流れの只中にいる人を支え、助けるためにそれは必要なことだった。
できるうる限り公平でいることが、鈴の常になっていた。
夜の中の小さな燈火のように、何らかの目印となるようにそこにただいること。
大事なものが何か、はっきりと定まっていればそれはさほど難しいことではない。
周りにいる人は皆、心ちぎられるような別離を経験している。
それでも時の流れに痛みは薄らいで、奥深くにしまわれると悲しみの記憶は遠くなる。
その痛みを薄らぐことのないようにいつも心の中に抱いて、大きなうねりにさらされた時に同じ轍を踏まないように、そうさせないように細やかに気を配っている。
鈴自身はそれをたいしたことではないと思っていたが、しようと思って簡単に成し遂げられることではなく、ともすれば揺らぎがちなことであるのに柳や竹のように柔らかそうでいて、しっかりとした芯を持っていた。
家族というものを失ってずいぶん経つ。
家族にはなれないが、友人よりももう少し近く、家族に代わるようなものになれたらと、鈴はささやかに願っていた。
結局は自分も寂しいのだ。だからそういう人たちの気持ちがわかるだけだと彼女は簡潔にそう思っていた。
自分は寛容なのではない。もう誰も失いたくないと、欲張りなだけ。
そう言えば多分、友人たちは首を振って否定するだろうから言う機会はなかったけれど。




鈴は目交いの青年を見上げて、握られた手に、力を込めた。
「じゃあ……お茶の支度を手伝ってね。そうしたらみんなで休憩にしましょう。それで許してあげる」
夕暉は一瞬、唐突過ぎる鈴の提案を理解できなかったようだった。
告げられた言葉を一からゆっくりと咀嚼して、何かを発しようとしたものの言葉にはならずに浅く開いた口がもどかしくも緩慢に動いただけだった。
何だか少し鯉みたいかもしれないと、普段利発な夕暉の間の抜けた様子に鈴は大人しく、彼の返答を待った。
仔犬のような仕草に夕暉はぐっと口を閉じ、降参する他ないことを悟ると諦めに長く息を吐き出した。
「わかった。でも……」
「今日はもうお休みにしたんでしょう? 他に予定があるの?」
当然のように告げられた返答に心底驚いて、夕暉はまじまじと鈴を見つめ返した。
「違った? 戻ってきてから時間を気にする素振りがなかったから、そうかなって思ってたんだけど」
「違わない……すごいな、びっくりした。よく見てるんだね、御見逸れ致しました」
「褒めても逃がしてあげないから、もう諦めてね。陽子は喜ぶわよ、虎嘯に土産話ができるって。台輔だってまともな話し相手がいると、くつろげると思うわ。人がいて、賑やかなのはいいことだから」
お世辞ではないと反論しようとしたが、更に本当にそうだろうかと問いかけたくなる科白を明るい笑顔で言い切る鈴に何を言っても野暮な気がして、了承の意にほんの少しだけ頷いてみせた。
彼女は嬉しそうに笑って、夕暉の手を引いた。
痺れを切らせたのか、水際に集まっていた色鯉が、ひときわ高く跳ねあがった。
大きな水飛沫が上がり、夕暉はとっさに鈴を腕の中に隠した。
ほんの数秒の出来事だったが、鈴は一歩も動けず、ただ息を止めた。
ばしゃん、と大きな音がして鯉は水の緒を引きながら、池の中に舞い戻る。
「大丈夫だった、濡れてない?」
頭上から振る声の近さに驚いて、鈴は小さく肩をふるわせた。
「平気よ」
答える声が少し上擦って、顔をあげられなかった。
親鳥の翼の中にいるように優しい庇護を受けて、自分の小柄さをいやでも意識する。
気持ちがざわついて、落ち着かない。たったこれだけのことに動揺している自分に、訳も分からず混乱する。
彼は咄嗟に危機から庇ってくれただけ。
子供をあやすように背中を叩かれて、鈴はそっと顔をあげた。
見上げると、近くに眼差しがぶつかる。小さな痛みを感じたように、夕暉の表情の中にわずかな揺らぎを感じた。
なぜそんな顔をしたのか、そんな顔をさせている原因はもしや自分にあるのだろうかと考えを巡らせて、ひとつの事柄に思い当たる。
「ごめんなさい、驚いただけなの。あなたを怖いと思ったわけじゃないの。だから、ごめんなさい。夕暉、そんな顔しないで」
謝罪と自分なりの説明を、必死になって彼に伝えた。
誤解されたくないという焦りから、それが彼の目にどう映るかは思案の外だった。
「鈴って……」
予期せずぽつりと自分の口からこぼれた言葉に驚き、夕暉は慌てて口を蔽う。
また笑うのだろうかと鈴は身構えたが、夕暉は目を伏せて視線を泳がせただけだった。
何かに耐えるように、押さえた手のひらの下で何事か呟いていたが、くぐもってまったく聞き取れなかった。
「夕暉?」
鈴の呼び声に彼は何でもないと嘯いて、やぶ睨みするもあっさりと受け流した。
「怖がらせたんじゃなかったならいいんだ。行こう、また水をかけられる前にね」
庇うのに一度ほどいた手をまた取って、鈴は引っ張られるようにして共に歩き出した。
歩き始めてしまえば鈴の歩調に合わせて彼はゆっくりと進んでくれたので、困らずに済んだ。
特に言葉もなく歩くうちに何気なく視線が合って、彼はどことなく面映ゆい表情を見せ、口を開きかけて閉じるということを二度ほどした。
「どうしたの? 何か隠し事があるの?」
躊躇いのある仕草に、鈴はすぐにそれを質した。
先ほどはぐらかされたばかりなので、意識しない内に自然と詰問口調になる。
「あると言えばあるような……」
鈴の勢いにやや気圧されながら、躊躇っていただけに、あっさりと夕暉は白旗を掲げた。
実はねと前置きして、夕暉は話し始めた。
「本当は最初に話そうと思って、言いそびれたんだけど……鈴と会えたのは、たぶん偶然じゃないんだ」
「たぶんって何? どういうことなの?」
曖昧な物言いに追及の手をゆるめず、鈴はじれったさを隠そうともせず先を促した。
当人は軽く睨んだつもりの上目づかいに見上げられて、夕暉はただ苦笑するしかなかった。
「昨日、兄さんから手紙が来たんだ。明日、宮城から知人が遣いに行く。詳しくは言えないが、その人の助けになってやってくれって。会えばすぐにその人がわかるだろうからって、祥瓊に書けと言われたので書いたって、何だかよくわからない手紙がね。時間と、遭遇するであろう場所なんかも書いてあって、たぶん誰か知っている人と会わせるつもりなんだろうってことは想像してたんだけど、まさか鈴とは思わなくて」
「いったい何をやってるのかしら、あの人たちは。あなた災難だったのね、私は助かったけど、何だか癪に障るわね」
手のひらの上で踊らされたことに腹を立て、彼に迷惑をかけたことを申し訳なく思いながらいい大人が画策したことに呆れ果てる。
陽子を御膳立てしたつもりで、自分も御膳立てされていたということに驚くやら腹立たしいやらで釈然としなかった。
祥瓊なら、自分たちをよく知っている。それこそ自分がどんな行動に出るかなど、わかりきっていただろう。
「鈴、また難しい顔してるね」
「そうよ、怒ってるの、いろいろ気付かなかった自分にね。不思議よね、結果は同じでも、偶然だと嬉しくて、仕組まれたとわかったら腹が立つのって変かしら」
「会えて、嬉しかった?」
「当たり前じゃない、顔を見るの久しぶりだもの。あなたも忙しくしてるから、何か折々のことでもないと顔を合わせる機会もないから」
妙なことを言うものだと笑いながら肯定し、顔をあげれば照れたように微笑む夕暉と目が合って、思いがけない反応に何故か鼓動が跳ねた。
今日の自分はおかしいと、つくづく感じる。
「よかった、会えて嬉しいのが僕だけじゃなくて。なるべく急ぐから、もう少し待ってて」
「それってどういう……」
「鈴は鈴らしくいてくれたら、それでいいってことだよ」
あっさりと返される、答えのようで答えとはずれている回答に鈴は即座に頬を膨らませた。
「もう、そうやって人をからかって! 誰もかれもみんな同じようなことを私に言うけど、不変のものなんていくら願ったってないのに、一体どうしろっていうのかしら」
「そこでそういう考えに至るのがすごくらしくって安心するんだけど……ごめん、褒めてるんだよ。それで甘えてるんだよ、みんなそんな鈴にね」
「全然褒められてる気がしないし、たいして嬉しくもないわね。まったく、困った人たちばっかり」
悩ましげな溜息とともに愚痴を吐き出すと、急にひどく真剣な声で名前を呼ばれた。
瞬時に空気が変わったのを肌で感じて、鈴は歩みを止め、二人は向き合った。
強い風が木立を渡り、濤声のように木々のざわめきがあたりを取り巻いていた。
ふと四阿の中で感じた肌寒さが急に思い起こされて、鈴は身を硬くした。
「僕はもう、子供じゃないよ」
告げる声は、出会った頃よりも低く、心地よく響く。
耳の奥に沁むような深い声音に、彼が真実伝えようとするものに鈴は心を向ける。
向かい合う青年を見上げて、その言葉の告げんとするものを思う。
表情は複雑な色をみせて、そこからは読めない。だからただ、心の向くままに唇を開いた。
「そうね……それは少しさみしくて、嬉しいことね。会うたびに、驚くことがある。だけどあなたはずっと大事な人よ、みんなのね。見た目は変わらなくても年長者なのは変わらないもの。あら、変わらないものって、結構身近な所にあったわね」
彼の望む回答とはきっと外れている。それでも当たり前すぎて、なかなか伝える機会のない言葉を、ありきたりで、思うことそのままの言葉で伝えた。
にこりと笑うと複雑な表情がさらに混沌として、完全に読めないものになる。
戸惑いと諦めと、何になのかそんなふうに葛藤して、最後には少し困ったような微笑がこぼれた。
「手強すぎる……」
ばつが悪そうに伏せられる睫毛の影が、頬に落ちる。うっかり手を伸ばしそうになって、鈴は慌てて伸ばしかけた手を袖の中に引っ込めた。
子供ではないと宣言されたばかりできっと、遠慮のない振る舞いは気を悪くするだろう。
そう考えて、急に距離が生まれたようで少し寂しい気持ちになる。
けれどそれが、変わっていくもの、なのだろう。
とうに成人した青年であると理解している一方で、少年の面影をわずかに残すこの年若い人をいつまでも昔と同じに扱ってはいけないのだと思いながらも、それが難しい。
昔と同じようにそうしようとして、何故か戸惑って一歩を踏みとどまることが増えたのもまた事実だったけれど。
伏せられた眼差しがゆっくりとあげられて、視線が結ばれるとただ、二人は微笑んだ。
名状しがたい気持ちを、そうして淡い、微笑みに変えて。
今はまだ、この距離が、もどかしく丁度良い。
どちらもともなく、またゆっくりと止めた足を動かして、歩き出す。
いつか時が経ってこの時のことを思い出すとしたらそれはどんな瞬間か、今は想像もつかない。
それでもいつかきっとこの時のことを懐かしく思い出す瞬間がくるだろうと、鈴は確信していた。
「鈴」
やわらかく呼ばれて、鈴は返事の代わりに握られた手に力を込める。
「この仕事が終わったら、あらためて会いに行くから」
小さな声で、自信なさげな一言が続く。
その声を心ごと正確に読み取って、鈴は頷く。
「大丈夫、ちゃんと待ってるわ」
はっきりと、返事を告げる。今はまだ、正体のわからない気持ちを砂糖に包むようにして、微笑む。
その時を今から待ちわびていることを秘密にして。










Novels  [2]










2015.09.30