風と光があなたに恵むように [1]










四大国の一つ、慶東国は胎果の娘を王に据え、その統治はやっと十年を越えたところだった。
最初の関門と呼ばれる十年を越したことに、ようやく民草の間にも長い間抱くことのかなわなかった安堵を感じられるようになってきていた。




慶は、波乱の国だった。
何代か続いた女王はそれを立て直すことがかなわず瓦解し、先王はその現実に倦み、それから目を背け、すがったものによってさらに国を傾けた。
しかしその玉座を埋めたのはまたも女王で、少女と呼ぶに相応しい年齢、加えて胎果だった。
慶は、安寧を求めるゆえに女王を忌諱していた。
国の政は長く官吏によって治められ、彼ら独自の不文律によって他者の立ち入る隙間のないよう歪められていた。
女王であるゆえに殊更に軽んじられたが、陽子は強い意志の力で、自ら運命を切り開いた。
山積された問題は一朝一夕には片付かず、官の腐敗は根深くもあって慢性的な人手不足に悩まされてはいるものの、国はやっと、正しい形で立ち直ろうとしていた。
















「宮城を留守にする?」
「火急の件がございまして、これより瑛州に参ります。二、三日だとは思いますが、はっきりとは申し上げかねます」
陽子は景麒の律儀な言いように、小さく笑みをこぼした。
瑛州で起こっている椿事については、すでに陽子の耳に届いていた。
事の起こりは、単純な書類の取り違え、だった。
だが失策に気付くのが遅すぎだ為に被害は恐ろしいほど多岐に渡って、事態の収拾に多大な混乱をきたしていた。
「仕方がないね、お前は責任者だから。ちょっと平和になってきたのかなあ、原因は明らかに初歩的な間違いだ。もっと早く気付けばこんなに混乱せずにすんだんだろうけど、まあ起こったことは仕方がない。予防策も考えないといけないな」
屈託なく笑う陽子に、景麒は弱りきって目を伏せた。
景麒にとっては全く面白くない事態だったが、彼女はそれを面白がっている節があった。
事態を冷静に受け止める余裕があることは好ましいが、いささか不謹慎な態度に感じられ、景麒は面を上げると細めた目で陽子を一瞥した。
それを見やって陽子は慌てて笑みを引っ込めた。
「あ、ごめん。急いでいるんだったっけ。じゃ、行こうか」
「行こうか、とは?」
椅子から立ち上がり、堂扉に向かった陽子があきれたように景麒を振り返った。
「お前の見送りをするのに決まってるだろう。お前まで平和ボケか?」
「呆けてなどおりません」
憮然として顔をしかめた景麒に、陽子はまた笑った。
















机上に広げられた書類に目を落とし、景麒はそのまま目を閉じた。
思わぬ痛みを覚えて、息を吐く。
事態はようやく、収束へと向かっていた。
かつてない椿事に現場は混乱を極め、予想外に時間を食う羽目に陥っていた。
これは景麒の予測を外れたことだった。
あれから今日で四日の日々が過ぎていた。
終わらせねば帰れぬことがわかりきっていたが、これ以上書類を見る気がしなかった。
こんなことは珍しいと、景麒は思う。頭に靄がかかっているかのような感覚が、離れない。
理由が判然としないことがより一層、落ち着かない気持ちにさせた。
思いの外疲れているのかもしれないと思い、目蓋を開く。
窓の外に目をやり、差し込む日の眩しさに目を細めながら、宮城の主は今何をしているのだろうかと思い、無意識のうちにまた溜息がこぼれた。
考えぬようにしていたことを考えてしまった者の常で、その溜息は苦かった。
詮無い事を、とその考えを追い払うように窓から目をそらしかけ、感じた違和に息を飲む。
気のせいだと思うには、あまりに鮮やかすぎた。
王気を、傍に感じた。
一瞬、自分は宮城にいるのではないかと錯覚しかけたが、手のひらの下の書類が一気に現実へ引き戻す。
主が瑛州の、この州城にいる。
こんなに傍近くに来るまで全く気づかなかったことに愕然としつつ、急に落ち着かない気持ちになった。
一体どういうことかと動揺のまま蹶然と立ち上がると断りを述べる官の声がした。
堂扉越しに、景麒は何事かと、わかりきったことを聞く。
「宮城より女御が二名、主上より台輔への使者として参りました」
「女御が二名?」
思わず呟いた景麒は、ひとり盛大に眉を顰めた。皺の寄った眉間に指をあて、冷静に命を下すためにそっと、深く息を吐き出した。
「……二人を、こちらに」
思いがけない発言に取次の官は責務を忘れて驚きの声を洩らしたが、生真面目な台輔のこと、仕事の手を止める気などないのだろうと勝手に納得し、すぐにと応えると下がっていった。










「どういうことか、ご説明頂きたい」
それが人払いをした景麒の第一声だった。
女御たちは顔を見合わせ、双子のようによく似た微笑みを浮かべた。
景麒の柳眉が上がったのを見て、鈴は手にしていた文箱をあくまで優美さを失わぬ所作で素早く差し出した。
「冢宰からお預かりして参りました、お確かめ下さいませ。そしてこちらが」
言いかけて、鈴は隣の、同じ年頃の少女に視線を送る。
「太師からでございます。それと……」
「いい加減になさいませ。いつまでお続けになるつもりですか」
眼前の少女は控えめだが女性らしい晴やかな装いをして、花鈿が彩る髪は鈴のように漆黒だった。おそらく、鬘だろう。眉も髪にあわせて染めたようだった。
何しろ生まれついたその髪の色は、彼女が誰であるのか何よりも雄弁に語ってしまうので、仕方のないといえば仕方のないことだと言えた。
丁寧に化粧をほどこされたかんばせの唇には紅が映えている。
随分と手が込んでいて、もはやあきれる他ない。
親しい者でさえ普段の彼女との雰囲気の違いゆえに、簡単に騙されるだろうと感じられた。
「いつまで、と申されましても役目を果たさずには帰れませぬゆえ。台輔、どうぞご寛恕下さいませ」
傍から見れば、勘気に触れ、許しを請う女御の姿そのものに見えた。
脇に立つ鈴が、やればそういうふうにできるのねと感心したように呟いて、とんだ茶番に景麒は眩暈に襲われるような気分を味わった。
「どうかもう、おやめください。その、とても、困ります……」
苦りきった景麒の言い様に、女御の娘は蠱惑的な唇の端を、弓のように引き上げた。
「なんだつまらない。せっかくこんな格好までしてきたのに」
「もう充分よ陽子。こんな格好って、そもそもあなたが、というより、浩瀚さまがといった方が正しいかもしれないけど」
苦笑する鈴に、景麒が物言いたげな視線を投げかけた。珍しい景麒の困り顔に、鈴は同情を示すのに小さく肩をすくめて見せた。
景麒がこんな懇願するような顔を見せるのは、本当に珍しかった。
「私、お茶を淹れてきます。きけば台輔は朝から一度もお休みをとられていないというし。その間に、陽子が自分で説明しなさいね。私はしばらく、ここに戻りませんからね」
そう言い置くと止める間もなく堂室を出て行った鈴に気圧されたままの二人は、先程の議論を蒸し返す気概を完全に断たれた。
















「私は祥瓊たちと作った茶菓を持ってきたんだ。浩瀚と遠甫はなんて?」
言いながら陽子は小ぶりな籠を卓子にのせ、文箱を開いている景麒に聞く。
景麒は表情を変えぬまま首を振ると、文箱を閉じて脇へ押しやった。
「私が不在の間に進められた議事などを書いてくださったようです。主上は一体、どうされました?」
「お前ね……まあいいけれど。私は浩瀚の遣いで来たんだよ。文にはそれが書いてあると思ったのに、変だな」
冢宰が王を下官のように扱うとは聞き捨てならない。
だがこの主はそれを不快に思うことすらなく、むしろ嬉々として引き受けるだろうことが今ではよくわかっていた。苦言を呈したところで、無駄なことも。
「遠甫が、私には休みが必要だと浩瀚に言ったらしくてね、気分転換をしたらどうかと言われた。ちょうどお前に用があるから、ついでに様子を見てくるのがいいだろうってことになって、でもただでさえ州城は忙しいのに王である私が訪ねたりできるわけないと言ったら、浩瀚は最初から祥瓊と鈴を引き込んであって、こういうことになった」
滔々と説明され、景麒はただ静かに頷いた。
陽子はそんな景麒を、細めた目で軽く睨んだ。
「お前、本当は昨日で帰ってくるはずだったのに、自分の意思でここへ居残っているんだって?」
さらりと紅い唇から告げられた言葉に、景麒はややあって、頷いた。
「浩瀚は目と耳が二つだけではないみたいだ。私もお前も、隠し事ひとつできないみたいだよ」
「隠し事、ですか?」
陽子はただ、うん、と呟いた。聞いてもよいものか迷っていると、それを見透かされて陽子の方から聞くか、と訊ねられる。
それでもまだためらっていると、陽子は小さな笑みを唇に載せたまま、ゆっくりと窓へと視線を移した。外を見つめたまま、何も言わずに、しばらくそうしていた。
景麒はそんな主を見やり、静かに目を閉じた。
遠くに人の気配やかすかな物音、窓の外からは、小鳥の囀りが小さく聞こえてくる。
そうしていると数日間の怒涛のような喧騒が、まるで遠い過去の出来事のように感じられた。
「こうしてね、窓の外を見ていたんだ……」
かすかな声が、耳に忍び込む。
その声をとても懐かしいと感じて、景麒はそっと、目を開けた。
「なんだか政務に集中できなくて、ぼんやりと窓の外を見てたんだ。そういう時ってとりとめないことを考えてしまうものだけど、その時にとても不思議なことに気づいたんだ。それで落ち着かなくなった」
「不思議なこと?」
景麒のそれに、外を見つめたままで陽子は頷く。
「私は本来なら、慶で生まれて育つはずだった。けれど蝕であちらへ流されて、この姿の年の頃、こちらへと戻ってきた。王に選定されたために」
あまりに唐突なその告白に驚き、心臓が嫌な音をたてた。即座に聞きたくないと思う。
まだ、十年余り。彼女の口からあちらの話を聞くのは竦むものがあった。
愚かだと思いながらも、その畏怖は深い所に根差していて、決して消すことはできなかった。
景麒の様子に気づかぬまま、陽子はゆったりと話しを進めた。
「私の根幹というものはやはりあちらで定まっているから、時々この世界で自分が異分子のように感じられることがある。あちらにいた時には、あちらに自分の居場所などない気がしたものだけど……だからね、すごく不思議だなあと思ったんだ」
言葉を切り、陽子はやっとこちらを向く。途端にその双眸が、驚きに大きく瞠られた。
「どうした、顔色が悪いぞ。やっぱり無理をしているんだろう、少し休んだらどうだ? 私のことは気にしなくていいから」
「いえ、大丈夫です。何でもございません」
心配そうに自分を覗き込む陽子を直視できぬまま、景麒は口元に手をあて、眼差しを伏せた。
陽子はいぶかしげに景麒を見ていたが、こうと言ったら曲げない性格をよくわかっていたので、口を噤んだ。
再び口を開きかけて、紡ごうとした言葉をためらいののちに飲み込んだ。
「この話はもう、やめようか」
「いえ、お止めにならないでください」
即座に切り返され、陽子は驚いて唇を引き結んだ。
一方の景麒も、自分が何を口にしたのか信じられずに奥歯を噛み締めた。
陽子は空気を吸うようにわずかに唇を開き、ついでやわらかな笑みをこぼした。
まるで安堵のように見えたそれに、先程の願いが陽子にとって間違いではなかったことに、少しだけ救われた気がした。
「不思議だと思われたと。一体、何が?」
やめるなと口にした以上、訊ねぬ訳にはいかなかった。
陽子はそれを待っていたように、すぐに口火を切る。
まるで堰を切ったかのように、その声が弾んでいた。
「私はこの国の王で、お前は麒麟だ。慶の国氏を持つのも私たち二人だけ。誰よりも国の中心にいるのに、生まれ育ったのは慶ではない所だろう、お前も私も」
言われて、確かにそうだと思った。
陽子は蓬莱でかりそめの家族の中に、景麒は蓬山で生を受けた。
「それが、不思議なことですか?」
景麒の問いに、陽子は静かに首を横に振る。
「それもだけど、生まれた場所がここではないのに、それでもここが、私たちの故郷なんだ、ってことにだよ」
花のように鮮やかに微笑った陽子に、景麒は思わず目を奪われていた。
「故郷……」
「うん……生まれ育った場所じゃなくても、故郷と呼べる場所があるなんて思わなかったから。これから先、たとえ玉座を追われるようなことがあったとしても、私が帰るべき場所はここなんだってそう思えたんだ。はじめて慶を見たとき、懐かしいとか、そういう気持ちは全然なかった。でも今は、大事なんだ、ここが。とても、とてもね」
微笑む主から、優しい感情があふれていた。
こぼれる笑みには、その顔に表れているように、喜びが溶けている。
「そのことに気づいてから落ち着かなくて。遠甫に少し話してみたら、遠甫はただ笑っただけだった。そのあと浩瀚が……そうか、あの二人はわかってたんだな……」
ひとりごちる陽子に、景麒は首を傾げる。
それを認めて、陽子はさらに話を続けた。
「この話を、お前に聞いてほしかったってこと。お前なら、わかってくれると思って。それなのにお前は帰ってこないから……」
そう言われると、ひどく申し訳ない気がした。
「まだ帰れない?」
「いえ、あとあれだけです」
そういって、書卓に視線を移した。それを追って、陽子は立ち上がってそちらへ行く。
「ああ、これだね。じゃ、少し待っていようかな。本当は私、迎えにきたんだよ。嫌だって言っても連れて帰るつもりで」
「長くはかかりませんから、どうぞこちらで。じきに鈴も戻ってきましょう」
「ああ、そういえば鈴、帰ってこないね。しばらく帰ってこないってわざわざ宣言してた」
首をひねる陽子に、景麒はあることを思い出し、小さく声を洩らした。
「この騒ぎで駆り出された者の中に、大僕の弟がおりましたが……」
まさか会うこともあるまいと思ったが、目交いの陽子の顔は笑みに輝いた。
「本当に? 夕暉がいるの? 成程ね、そうか……景麒、もう少しゆっくりしても大丈夫だよ」
「何故です?」
「野暮だなあ。気をきかせてあげなくちゃってことだよ。もし本当にそうなら祥瓊に教えてあげなくちゃいけないな」
いたずらな顔をして呟く主を横目に、景麒は書卓へ向かい、書類と向き合う。
頭の靄はいつの間にか霧散していた。傍らには主がいる。
ただそれだけのこと。たぶん、そういうことだったのだと。
「そういえば、いつもと逆だね」
「たまには、よろしいでしょう」
「全然よろしくない、嫌味を言うな」
顔をしかめた陽子に、景麒は気づかぬふりをする。卓子の文箱に目をやり、そっと吐息をついた。
二人の文面は、実は全く同じもの。心底かなわないと思う。
台輔の早いお戻りを、お待ち申し上げております、と。結ばれて終わっていた。
実に老獪な二人だった。単純に自分よりも長く生きている、という言葉だけで括れるしたたかさではない。だからこそ自らの意を越えて宮城を留守にすることができたのだが、口にするはずもない胸中を見透かされたとあって、景麒は何か落ち着かなかった。
陽子は卓子には戻らず、傍で机上の書類をじっと覗き込んでいる。
「おわかりになりますか?」
「もう字くらいは読めるさ」
「そうではなく」
「わかってるって、怒るな。やっぱりこうでなきゃな」
ひとり可笑しそうに笑い出した陽子に、景麒は自然と憮然とする。
「それはそうと、これも間違っている類の書類で、お前が添削をしてるんだな?」
思いがけない言葉に、景麒は眉をひそめる。
「どこが気になりましたか」
「ここ」
言いながら陽子は隣に並び、問題の部分に指をおいた。
「ここの予算を組み直しただろう? だからこのままだと総計が狂うぞ。過日の落雷で川縁の大木が燃え、そのまま側の橋に飛び火しただろう。主要な交通ルート……と、ごめん、道筋だから早急に修復する必要があるって、事実そうなんだけど。あそこは流通の要でもあるからな」
書類を繰り、陽子は素早く必要な項目を探し出す。
「……ここの予算額から三分の一を借り受けてやる、という話だったろう。これはさし急ぐものではないから……お前も聞いただろう、瑛州に行く前のことだから。ついでに、今そこでは法外な額をとって渡し船を出し、荒稼ぎしている連中が出ているそうだ。何というか、本当に抜け目ない連中がいるものだよな。これについてはもう始末がついている頃だから、心配しなくていいぞ。あとで報告にあがると思うから、先に言っておく」
なんでもないことのように言い、陽子は屈みこんだ姿勢を正した。
胸に流れた黒髪を払う仕草に違和感を覚え、景麒は我に返り、純粋な驚きをもって陽子を見返した。
「どうした? まさか忘れてた?」
「はい、申し訳ございません。ありがとうございました」
深々と頭を下げる景麒に、陽子は首をゆるく振る。
「よせ。でも、役に立ってよかった。十年前じゃ考えられないよな、こんなこと。私も多少は進歩してるんだな、ずっと同じ所で足踏みしているように思っているのに」
「主上は御自身に厳しすぎるきらいがございますから。よく努力されておいでのことは、私をはじめ、皆も知っています。卑下なさることはない。あなたは、望まれた方ですから」
ゆっくりと顔をあげ、景麒はただ、言葉を失った。
茫然とした体で自分を見つめる陽子の目から、透明な雫が生まれ、それは止める間もなくこぼれ落ちていった。
驚きに揺さぶられる反面、不思議な引力によって目を逸らすことができない景麒の前でそれは、いくつもいくつも真珠のように、頬を滑り落ちて行った。
なぜその光景を美しいと感じたのか、わずかに動揺し、咄嗟に声が出なかった。
「主上……」
「ごめ……困らせるつもりじゃ、ほんとに、そんなつもりじゃないんだ」
陽子は目元に手をやると背を向け、深呼吸をした。大きく上下する肩が、まだ小さくふるえていた。
自分の言葉の何が、彼女を揺さぶったのかと景麒は思った。
傷つけたのではないことだけが救いだった。けれど、目の前で泣かれているとどうしたらいいかわからなくて、胸がざわついた。
先程の言葉に偽りはない。真実そう思っていたから、ただそれを伝えたかった。
あなたは、かけがえのない人だと。
唐突に、景麒は理解する。
陽子はこの世界に、彼女の望む意味でのよすがをもたない。
景麒には馴染みのない、血縁という存在。この世界では、陽子にとって景麒は一番それに近い存在だった。
恩人である楽俊から、確率としてだが、本当の両親を調べる手立てがあることを彼女はかなり早い時期から知っていたようだった。
けれど、今まで一度もそのことを知りたいと口にしたことはなかった。
自分の存在を願ってくれた両親が確かにいたこと、悲しみは深かったかもしれないが、どこかで穏やかに暮らしていてくれるならそれでいいと、拙い言葉で語ったことが一度だけあった。
少しくらい上手くいかなくても、家族というのは大事な人なんだよと、消え入るように呟いてそれきり、その話は途絶えた。
その時、本当にそれでいいのかと、聞き返すことはできなかった。
育ててくれた両親を大切だと思うから、と寂しそうに呟いた人には聞けなかった。




慶の荒廃は深かった。
けれど先王はそれを立て直すことができぬまま、景麒への恋着によってさらに国を傾けた。
麒麟と女王が公を越えて親しむことを、この国はよしとしない。
それだけ、先王の行いは酸鼻を極め、失われた者も多かった。
それに、景麒は言葉が足りない。
だから先ほどの言葉が、思いもかけず彼女の心を揺らしたことに驚いたし、たったこれだけの言葉に心が揺り動かされたほど気を張りつめていた陽子を哀れに思い、胸が痛んだ。
大きく息を吸い込んだ陽子は、何でもないようにこちらを振り向いた。
その顔にはもう、涙はなかった。
心を隠す術を、陽子は知っている。こちらに来てから身に着けたそれは、息をするように自然に彼女を蔽う。景麒はまだ、赤く潤んでいる双眸を見つめる。
彼女自身も知らぬうちに閉じ込めた気持ちを、見逃すまいとするように。
「お変わりに、なりますな」
「変なことをいう。人は変わっていくものだよ」
「それでもです」
真直ぐに見返す景麒の真摯さに、陽子の表情が揺らぐ。
「では、見ているといい、私がずっと変わらぬように……変わったその時に、お前は一体、どうすると言うの?」
揺らぐ心をうまく隠しきれぬまま、試すような目で陽子は問う。
「お傍に」
景麒は答える。向けられる陽子の視線を捕らえたまま。
「たとえ玉座から追われようとも、あなたの隣が私のいるべき場所ですから。どうか、決してお忘れになりませんように」
「……覚えておく」
淡い微笑が浮かんだ唇からそっと、熱を孕んだ声が歌うように紡がれて落ちた。










Novels  [2]










2015.09.30