懐かしい未来 [3]










長らく言葉をためらい、それでもまだ迷いが消えぬ様子で、促されてようやく陽子は訥々と語り出した。
はじめは物事の断片を、次第にそれらが滑らかに繋がって、語られていった。
その話の中に時折ざらついた、彼女の覚えた違和が浮かび上がった。
天命により異界に繋ぎとめられ、成せば成らぬ事の重大さと、自身の力量の不統一さに焦燥を覚え、その間に止めようもなく失われてゆくものへの罪悪感と、一番傍近いはずの半身と上手く折り合えない心苦しさと。
それらすべてを消化できずに抱える己の不甲斐なさに、彼女の眸は暗い翳を宿していた。
特にあの謀反の後から、己にも相手にも不可侵の領域がいつの間にか生まれてしまった。
元々、そつなく折り合っていたわけではない。
それでも少しずつ築いていた筈のものさえ、それによって危うい緊張感を孕んでしまっていた。
時々、恐くて竦むことがある、と彼女は独白した。
後戻りはできない。それでもあの時、と考えてしまう自分の弱さが恐いと。
すべてを聞き終えて延王はただ一言、そうか、とそれだけを口にした。
陽子はそれに安堵したようにごく淡く、微笑んだ。
それはその外形に似つかわしくない、ひどく大人びた美しい微笑みだった。
これではと、感じられる危うさに延王は一人納得する。
彼女なりの処世術の一つとして身についたその微笑は、あまりに儚い印象を纏う。
何故そんな微笑みを浮かべるのか、どうしてそれが心の内を綺麗に蔽い隠すように身についてしまったのか、目にする景麒の焦燥は想像に難くなかった。
二人の間に横たわる事情が、問題により深く影を差している。
先王と陽子が相反するほど似ていないのを最も承知しているのは景麒だろう。
けれど先王は恐らく、心の一番脆弱な場所を思わぬ強さで引き裂いて、爪痕を残していった。
それは今も癒えない傷として景麒の中に潜んでいる。
その傷が本来誰よりも慈しむべき相手を、安易にそうすべきではないのだと躊躇させている一因となっているように延王には思われた。
心無い言葉ばかりが表層を滑って、本心は秘匿される。
けれどお互い、ひそやかに秘匿されたものがあることを、朧げに察し始めている。
伸ばした手を振り払われるのを恐れているのは、果たしてどちらなのかを二人は知らない。




「仕方がないとはわかっているんです。私はきっとまだ、覚悟が足りない。でも、最初から期待されてないって知ってるだけ、気が楽な部分もあります」
静かに耳に滑り込んだ科白に、延王は一瞬その意味を図りかねた。
殊更に自分を卑下する科白のようでいて、聞き流せないものがあることに気付いて口を挿む。
「最初から? あいつは一体、何を言ったのだ」
「ええと……向こうで、誓約をする時に自分が望んで私を王に選んだ訳ではない、というようなことを。私はとにかく混乱していて、追手がかかって状況が逼迫していましたし、きちんと説明してもらえるような場合でもなかったから、かなり乱暴な言いようだなとは後で思ったんですけど」
喋りながら陽子は段々焦って口数も話す速度も速くなり、言い訳めいた言葉を取ってつけると決まり悪げに小さくなった。 軽く言葉を失って、かろうじて延王は成程、と答えた。
あまりのことに呆れの言葉さえ浮かばずに、それを粛々と受け入れている陽子にも軽く眩暈がする気がした。
「こちらに来てから、あの言葉がどういうことだったのかって、わかりました。だから、歯痒くもあるんです」
勢いのまま、陽子は真直ぐに顔をあげ、言い切った。 今までの戸惑いとは裏腹に、確かな決意の秘められた顔だった。
清冽な眼差しの色に、延王は揺るぎない想いがあることを読み取って、陽子を見返す。
鏡のように、彼女の意思をただありのまま、受け取るために。
それを見やって陽子はそっと、切り結んでいた唇を開いた。
「時間がかかるのは承知してます。それでも、やっぱり焦ってしまうんです。今の私では、景麒を安心させてあげられない」
言い切られた声音は、苦くほどけて空気をふるわせた。
「私たちは、二度、誓約を交わしました。一度目は何もわからないまま、二度目はすべて承知した上で、私は誓ったんです。命を賭して誓ってくれた人に、私は報いたいんです」
決然として告げられた言葉は新緑のように明澄で、しなやかな強さを発していた。
秘めた思いを、言葉にしたのは初めてなのだろう。
陽子の頬は血の色を透かして、花のように染まっていた。
延王は自然と自らの口角があがるのを感じ、手を伸ばして、陽子の頭を軽く撫でる。
くすぐったそうに、はにかんだ笑みがこぼれる様子に杞憂だったかと更に笑みを深めた。
「気苦労が多いだろうがせいぜい頑張って、まずは長生きをしろ」
「はい……頑張ります」
子供のような笑顔に苦いものが混じったのは、失態を思い出したからだろう。
易々と人の手に命を委ねようとしたことをいま悔いているのなら、二言はしない。
まだ恥じ入っている陽子からそっと手をどけて、前に乗り出していた躰を椅子に深く預ける。
現実に何一つ、問題が解決したわけではなかった。
それでも誰かに話すという行為が、漠然としていたものに輪郭を与え、秘めた筈の決意を掬い上げるということに繋がった。
どことなく晴れやかな表情になった陽子を見つめながら、問題はあちらかと、六太の元にいるであろう景麒を思う。 六太なら、何も心配に思うことがない。
如才なく反感も抱かせずに諭して聞かせていることだろう。
それでもあの堅物がそう変わるとも思えないのが正直な所だった。
取り留めもなくそんなことなど考えているうち唐突に、記憶の片隅から浮上してきたものに延王はいくつかの算段をする。
一瞬でそれらを片付けて、目の前の少女を呼んだ。
「面白いものがある。用意してくるから少し待っていろ」
そう捨て置くと、返事どころか止める間も与えずに客堂から出て行った。
















ほどなくして戻ってきた延王の手には、封として一見模様かと見間違うほどに緊密な呪文が書き記された漆器の箱があった。
無造作に卓子の上に置かれたそれに、陽子はどう反応したらよいか頬を硬直させる。
一角の品だと一目見ればわかるが、厳重な封の施されようといい、中身がなんであるのか空恐ろしい予感しかしなかった。
「そう警戒するな。面白いものだと言っただろう」
言いながら延王は無造作に封を破り、些かの躊躇もなく蓋を開けた。
開けた瞬間に、冬の日に窓を開けた時のように一瞬、冷気を感じた。
納められていたのは和歌を書きつけるのに丁度よさそうな大きさの料紙が一枚と、小刀と筆記具一式。
厳重な封を思えば拍子抜けするほどに、中身は平凡な物だった。
これのどこが面白いものなのか、ますますわからなくなる。
料紙には雪のように銀が模様として織り込まれ、風雅で贅沢な物だと感じられるものの、殊更に異質な物には感じられなかった。
「これは一体、何なのですか?」
「簡単に言うならば呪物の一種だな。うちの冬官が別な物を作ろうとして、偶然できたものだ」
呪物、と鸚鵡返しに口の中で転がしてみる。
「人から見つけられにくくなる類のものだ。これを使うと、気配が薄くなる。見知らぬものとすれ違っても、特に気を留めないから後で顔かたちを正確に思い出すことはできないだろう?  そんなふうにするものだな。あいつらでも、正確な所はわからなくなる。屋根の上だとか、木の上だとかに隠れると見つからん」
「にわかには、信じがたいですね」
さもありなんと延王は頷く。
実際に試してみるのが早いからと巧みに促され、よく考える間もないままに陽子はそれを使わされる羽目になった。
少し考えれば、それがどういうことであるか、気付くことはできた筈だった。
それを知るのは結局、すべての後だったけれど。




延王は薄い料紙を陽子の前に配し、しばし考え込んだ後、墨を含ませた筆を差し向けてきた。
それを確認して受け取りながら、首をひねって箱に納められた小刀を見つめる。
「紙に姓名を書け。本当は自分の血で書いた方いいのだが、必要以上に景麒の恨みを買うのも得策ではないからな」
小刀の存在をその説明で納得し、陽子は言われるまま料紙に筆を落とし、中嶋 陽子とそこへ記した。
記された文字は瞬きの間に淡く色を失いながら、最後には透明となって溶け込むように消えた。
その料紙を延王が縦に細く折りたたむ。筆を持つ陽子の右手を取るとそこへそれを触れた。
まるで氷のような冷たさに驚き、身をふるわせるのと同時にそれは生き物のようにゆらぎ、俊敏な動作でもたげた身を、手首に巻きつけた。
ただの紙であったはずのものは刹那の間に、鈍い銀色の光を放つ、腕輪に変じていた。
継ぎ目なく、隙間もなく、すこし痛いくらいのそれに陽子が延王を見返した瞬間のことだった。
客堂の空気が奇妙に歪み、そして静寂を破る声が響いた。
「主上!!」
不意打ちに、息を止めた。
跳ねあがった心臓を抑え弾かれたように声の主を確認すると、陽子は驚きと混乱のまま蹶然と立ち上がった。
「景麒!? どうし……っ」
「ご無事か!?」
問う内に距離を詰めた景麒に両の上膊を捕まえられ、あっという間に身動きがとれなくなる。
こんなに余裕のない彼を見るのは久しく、その感情の振り幅の大きさに陽子は瞠目した。
腕に触れる手が、ひどく熱く感じる。
同時に、事態の異常さに思い至って心臓が大きく、いやな音を立てた。






これはまるで、あの時と同じ。むしろそれよりも悪い       






答えを導き出す前に、客堂の空気が再び歪んだ。
「尚隆ッ! お前、陽子に何をしたッ!!」
落雷もかくやという延麒の大声が、部屋中に轟いた。
少年の小さな躰から発されたとは到底信じられぬ声の強さに陽子は気圧され、身を強張らせた。
その動きの一切を逃すまいとするように、上膊を掴む景麒の力が増す。
掴む手が、熱い。
どうしてこんなに熱く感じられるのかが奇妙だった。
延麒は鋭く延王を睨んだ後、こちらへと視線を向けた。
無事を知らせるのに、軽く右腕をあげて応じる。動きに袖が肘へと流れて落ちて、手首に巻きつく腕輪が鈍く光を反射した。
それを確認した途端、延麒の目が驚愕に見開かれた。
弾かれたように卓子の上に目を走らせ、次いで鋭さを増した目が延王を捉えた。
「尚隆……」
ゆっくりと一歩を踏み出した延麒に、延王は一歩後退した。
「まて六太、話せば……」
「うるさい! 全部捨てろって言ったはずだ! 冥土で詫びろ、この莫迦が!!」
叫んだ延麒はためらいなく、延王の鳩尾に拳を抉り込ませた。
「ぐ……っ、思い切り体重を乗せおって……」
「これでも手加減してやったんだ、感謝しろ!!」
よろめいた延王の足を、延麒はこれでもかと踏んづけて言い捨てた。
あまりの急展開に呆然と事態を見守っていた陽子を、思い出したように延麒が振り返った。
小走りに景麒に寄ると、その袖を掴んで揺さぶった。
「景麒、落ち着け。陽子は大丈夫だ。これは右腕の呪物のせいなんだ。ちゃんと生きてるから」
物騒な科白に陽子は肩が戦慄くのを堪えながら、事柄の断片をつなぎ合わせて推測する。
現実にたどり着くのに、そう難しいことはなかった。
あの時よりも色を失くした景麒の様子に、延麒の激高の訳、そして触れる手の熱さの訳を考える。
「陽子、あいつは一体なんて言ってこれをお前にさせた?」
声はあくまでも淡々と、だが昂ぶった感情をぎりぎりまで撓めた、その温度の消えないものだった。
ゆるりと肘を曲げ、上膊を掴む景麒の手に、上から触れる。
やはりその手を、不思議なほど熱く感じて、陽子は延麒に答える。
「気配を、感じにくくするものだと。上手に隠れれば、麒麟にも見つからない、と……」
「なるほどな、まあ嘘ではないな。だけど、あんまり度が過ぎるな、なあ?」
撓めたはずのものが一気に弾かれて、声は不機嫌をあらわに客堂の温度を一気に下げた。
蛇と蛙のような睨み合いを横目に、陽子は小さく、半身の名を呼んだ。
「心配させて、ごめん。こんなことになるなんて知らなかったんだ。本当に、驚かせてごめん」
触れた手に少し力を込めて、陽子はゆっくりと謝罪の言葉を口にした。
いまだ混乱を消せぬまま向けられる景麒の目の中に、小さな揺らぎが現われた。
痛みを覚えたように、その目は一度、閉じられる。
「不思議と寒さは感じないけど、私、たぶん死体みたいにすごく冷たいんじゃないか? ずっと触れていて、手は冷たくないか?」
ぎこちなくなりながらも相手を気遣った言葉に、景麒は現実に返り、慌てて手を離した。
けれどもどこか不安の色が消せない感情が容易に読み取れて、陽子は罪悪感に軽く唇を噛んだ。




右腕に巻きついた呪物はその力で躰全体を蔽い、人の気配を断つ。
ただそれが、王たる人間の王気さえも封じてしまうほど、強力な呪物だったということ。
突然微かになった王気に、戦慄としたのは想像に難くない。
もし自身の血で姓名を書いていたなら、おそらく王気は完全に消えたように感じられたのではないか、と陽子は推察して自身の浅はかさに身震いしそうになる。
「寒いの、ですか?」
無意識の内に右の手首を握り込む陽子に、景麒が問いかけた。
その声は平素とはまるで違い、焦慮の思いの滲む響きに陽子は勢いよく首を振って否定する。
大丈夫と答える自分の声がまるでそうでないように頼りなく唇からこぼれて、唇を引き結ぶ。
不安なのは、自分ではなく、景麒だ。動揺を見せまいと毅然として顔を上げた。
「延王、六太くん! これはどうやったら取れるんですか!」
小さな小競り合いを繰り返している二人に聞こえるように、声に強さをこめて問い質した。
声の硬さを感じ取ってか、二人は陽子を振り返り、互いに視線を交わすと妙な間を見せた。
「放っておけば、明日の今頃にほどけ落ちる」
さらりと延王が答えた。
「今すぐにです!」
間髪入れずに陽子は噛みつく。いい加減、気が立っていた。
指が入る隙間もないほどに巻きついて、継ぎ目も見当たらない。
紙であったはずなのに、鈍色の金属の輪に変じて、触ると氷のように冷たい。
とても力任せに引きちぎれるような気がしなかった。
最も早い対処として親指の関節を外すか砕くかすれば抜けるかもしれないが、現実的な方法と言えず、実際にやれば後が大変なのは目に見えていた。
どちらかといえば、陽子自身でなく周囲が、である。
雁の二人は顔を見合わせ、延麒は顔を曇らせると焦燥をつのらせる景麒の様子を目に入れ、苦虫を噛み潰したようになる。
その延麒の頭に大きな手を乗せ、方法がない訳ではないが……と呟いた延王は視線をふらり、とさまよわせた後に最後に陽子を見て、苦笑を浮かべた。
途端、忘れていた筈の波音が耳に忍び込んできた。
やわらかな潮風が、頬をくすぐる。
ゆっくりと自身の右腕へ視線を落として、陽子は黙考し、素早く決意を固めた。
考えが纏まれば、止められないうちに敢行しなければならなかった。
すっと気息を整えると陽子は傍らの半身をまっすぐに見上げた。
「景麒、必ずすぐに戻ってくるから、私を信じて待っていてくれ」
「主上、何を」
一瞬向けられた言葉の意味を図りかねたようだが、景麒はすぐにその言葉の裏に潜む不穏な気配に気付き、身構えた。
その景麒の手に、陽子は髪から引き抜いた花鈿を乱雑に押し付けると身を翻した。
裳裾を蹴るように捌き、客堂を抜けて続きの露台へと走り出て、履を脱ぎ捨てる。
華奢な石造りの手すりに足をかけると、そのまま躊躇いもなく雲海へと飛び込んだ。
自分の躰が上げる派手な水飛沫の音と景麒の呼ぶ声が混じり、水に全身が潜ってしまうとただ、泡の音だけが耳を満たした。
光を透かす海の中は眩しく、冷たさは感じなかった。
口から吐き出す空気が細かな泡となって上がっていくのを見つめ、雲海の中を沈みながら光を遮るように右手を顔の前に掲げる。
腕に巻きついたものが、ゆるり、と身動ぎした。
手首との間に隙間が生まれ、巻きついた時とは逆に、ゆったりと身をくねらせ始めた。
まるで生き物のようだと思いながら、自らの考えに間違いがなかったことを確信してわずかに安堵する。
ゆるゆると腕輪に継ぎ目が生まれた、と感じた時にそれは尾を噛む蛇の姿になっていた。
血のように紅い目を開き、鈍色の鱗を逆立ててそれは腕からするりと逃げ出した。
海面に向かって大して泳ぎだしもしない内に、一枚一枚の鱗が花吹雪のように光を反射しながら剥がれ落ち、風に飛ばされる灰のように跡形もなく海の中へと消えて行った。
それを見届けると肺の中の空気を吐き出し、陽子は海上を目指した。
どんどん光が眩しくなり、水飛沫を上げながら目いっぱい酸素を吸い込むのと同時にそれぞれが自分を呼ぶ声が耳に飛び込んできた。
右手を上げ、無事を伝えるのにひらひらと二度振る。
それから水を吸って纏いつく重たい衣服に苦労しながら水面を少し泳いで、手すりにつかまりながらなんとか重たい躰を引き揚げる。
「重力ってすごいな。すごく躰が重い」
手すりを挟んで対面する景麒に、陽子は努めて明るく言った。
「主上」
景麒はひどく、難しい顔をしていた。色々な感情が少しずつ混じり合って、そのどれも当てはまらないような、実際彼自身もひどく混乱しているのだろう。
何か言おうとして、躊躇い、葛藤に口を噤んだ。
「心配させて悪かった。けど、もう元通りだろう?」
髪から滴るしずくで濡れる頬を、指の腹で拭う。その指先の動きを追って、景麒は目を伏せると頭痛を感じているかのような溜息をそっと吐き出した。




行動だけ切り取れば、陽子のしたことは無謀の一言に集約される。
けれど、陽子が呪物で封じられたあの状況を誰よりも打開したかったのは彼の他にない。
溜息に、その葛藤が見事に見て取れた。
あまりに景麒らしいその反応に、陽子は喉の奥で小さく笑う。
この溜息に、何度怯えたかわからない。なのに、今はそれに安堵を感じているなんて、なんて滑稽なのだろうと思わずにいられなかった。
少なくとも存在を疎まれている訳ではないし、むしろ気遣われ過ぎてお互いが空回っているのではないか、ということが何となくわかった。
言葉にはされない気持ちを受け取るのは、難しい。特に自分を卑下するような劣等感がある場合には。
お互いを理解するのに必要なものはたくさんある。
その何もかもが足りていないと陽子は痛感した。
延王が言うことは、一理ある。今はとにかく、前向きに長生きをするべきなのだろう。
手すりを越えようと、そこへ膝を乗せ重い躰を引き揚げる。
差し出された景麒の手を、素直に借りた。
握った手は、暖かい手だった。
手すりに乗せた膝を伸ばし、足を下ろそうとすると、水を吸った裾の絡んだ素足が覗いた。
特に意識もなく、立ち上がろうと伸ばした足は地に着くことはなかった。
短く断りを述べる低い声が耳元近くで響くと、人形のように景麒に抱き上げられてしまっていた。
突然の、想定外のことに驚いた陽子の口から小さく悲鳴が洩れた。
目線が高くなり、こちらを見上げる延王と延麒と目が合い、陽子は慌てて身を捩ったが抱き上げる腕はびくともしなかった。
「や、重いし濡れるし! 下ろしてくれ!」
陽子は懇願したが、景麒は聞こえぬふりを決め込んだ。
冷静であれば一言下ろせと命じれば済むのに、混乱する陽子はそれに気付かない。
慌てふためく陽子を見て、延王が声を上げて笑った。
「わ、笑いごとじゃありません!」
そう返す陽子に更に笑うが、延麒に足を踏まれて声をつまらせた。
「陽子、濡れ鼠でかわいそうに。それにしてもな、こいつと同じことするとは思わなかった……」
労わりの言葉をかけながら、過去を懐かしむ延麒の表情が歪む。
どこか泣きそうな表情に見えて、陽子はいたたまれない気持ちになった。
自分が思う最善が、必ずしも相手にとってもそうでないということにいつも後から気付く。
自身を大事にしないことで、自身を大事だと思う人を、そうして傷つけてしまう。
ああそうかと、陽子は気付く。
あの時に、そうして自分を想ってくれる人の心を傷つけてしまったのだと。
臆病な恐れから、分かって当然の単純な気持ちを、自ら目隠ししていたことを知る。
決まり悪く視線をさまよわせれば、またも延麒の頭を撫でている延王と目が合う。
「あれはどういう訳か、浅瀬では解けんのだ。致し方あるまい。雲海の水は特殊だから、放っておいても早い内に乾くぞ」
「お前はどうでもいいけど、陽子は女の子だぞ。このままでいい訳があるかっつうの!」
頭を撫でる手を、はっとしたように払い落として延麒が抗議する。
「わかっておる。よきにはからう」
「ちゃんとしろ! あとお前は今晩の飯はなしだからな!」
「むちゃくちゃいうな」
「うるさい! お前はもう喋るな!」
どういう訳か油に火を注ぐ会話に、またも置き去りにされる。
呑気に仲がいいものだと思う陽子だったが、確かにこのままでも困るかと、常を思えば急速に乾き始める髪をかきあげて景麒の顔を覗き込む。だがよく見えなかった。
そういえばと、陽子は思う。こんな距離で景麒を見下ろすのは初めてかもしれない。
どうにも落ち着かなかったが、次第に慣れてしまうと状況の奇妙さに別の意味でむず痒くなる。
「景麒、お二人は少し、放っておこう。私のことは椅子の上にでも下ろしてくれ。そしたら芥瑚に頼みたいことがある。祥瓊と鈴に簡単に事の次第を説明して、連れてきてほしい。このままだと、ここから出られないから」
「承知致しました」
ゆっくりと歩き出した景麒の肩に掴まり、望み通り椅子の上に下ろされるまで陽子はそうしていた。
礼を述べて、やっと正面から向き合う。
その視線も平素より高くて、どこか不思議な気がした。
「気分転換にはなったけど、今日は何だか疲れたな」
「なぜこのような、無謀なことを」
半分独白のようなつもりの発言に、困惑の深い声音が問い返した。
問う景麒の表情は硬く、陽子は苦笑して肩を竦めた。
「私には、想像でしかわからないけど……目の前にいる人が確かに無事なのかわからないって、すごく不安だろうと思って。そうしたらこうなってしまった。反省はしてるが、後悔はしてない」
言い切る陽子の眼差しの強さに気圧されて、景麒は口を噤む。
「一日なんて長すぎる。一緒に寝るわけにもいかないし、一晩中息をしてるか心配するなんて、気が気じゃないだろう?」
「主上!」
「例えばの話だ。冗談だよ。もう、もしもの話だよ、ほら」
そう告げて、陽子は差し伸べた手のひらで、ごく自然に景麒の頬を包み込んだ。
「温かいだろう? もう冷たくないから安心しろ」
純真な微笑みとともに示された行動に、景麒は息を飲んで硬直した。




「あいつらは何をやっておる……」
「俺ら空気だな。というか、陽子すごいな。心配することもなかったのかな」
「そうでもあるまい。側近くにいるのに、腹を割って話すことができない内は安心できぬだろう」
「そうだな……」
目を細め、延麒は室内の二人を見つめる。
苦いものが混じる声に、延王は延麒の頭を撫でるが即座に払いのけられ、水を払うような仕草をする。
「いつまでも、逃げられはせん。いつかは本心を曝け出してぶつかって、それからどうするかで何かが変わるだろう」
ぽんと置かれた大きな手を、延麒は避けなかった。
目の前にある平和な情景が永遠ではないことを理解しつつも、一時そのことに目を瞑る。
心を向けた人の人生が安らかであることを願うのに、性差や種族の差など関係はない。
言葉にはされず伝わるものを、延麒は感じていた。
だからと言って、この傍らの男の破天荒さをすべて受け入れようとは未だに思えない。
「まあ今は、あれでよいのだろう。罰は甘んじて受けよう」
「悪かったって思ってるのか」
「いいや?」
驚いて尋ねた延麒に、これまたさらりと延王は答えた。
そうだ、こいつはこういう奴だったと溜息をつきかけて、延麒は律儀にそれを飲み込んだ。










Novels  [2]  [4]










2015.04.29