懐かしい未来 [2] 赤楽の朝もまだ、片手で数えられる頃のこと。 己を取り巻く物事のさまざまな違いにまだ馴染みきってもおらず、責務の重さと自身の成長の不統一さに押し潰されそうになりながらも、必死で未来を見つめようと、肩肘を張っていた頃のお話。 ある時、息抜きをさせてやろうか、と隣国の王は言った。 お前、ずいぶん偉そうなこと言うな、と呆れてその麒麟は言った。 どちらにしろ、陽子には拒否権がなく、またその心遣いは非常にありがたいものだった。 理由など簡単に拵えられるからな、と言った延王の科白に頼もしくも若干の不謹慎さを覚えて陽子はただ薄く微笑むにとどめた。 こんなことを言えば自身の麒麟が眉をひそめるだろうとは思ったが、宮城の中は陽子には少し息苦しい。 整然と整えられた箱庭の中を、痕跡を残さぬように歩かねばならぬような、そんな危うい緊張感が拭えない。 一挙手一投足に眼差しを注がれる、居心地の悪さを何と言えばいいのだろう。 時折どうにもその重圧に耐えられなくなり、自身の気持ちの弱さに更に押し潰されそうになった。 かといって、宮城をたびたび留守にすることも難しかった。 仕方なしに宮城の中で人の気配のない場所を選び、しばし雲隠れをしても最後には景麒に連れ戻される。 衝動的にそうしてしまうことも少なくなく、遠回しに目こぼしを頼むも、溜息とともに目をそらされて終わるのが常だった。 景麒の心配も理解できないわけではない。 心当たりはある。 そう昔のことではない。 始まりは、ある日突然に。 自らの意思は一つも加味されず、虚海を越え、天命に従って王に据えられた。 だが、そうして得たものにひとつも執着がなかった。 ひとえに陽子をそこに繋いだのは、玉座のために引き換えられた命の為だけだと言ってもよかった。 国は荒れ果て、凡庸な女王の代が続いたせいで、女であり、胎果である年若い娘だというだけで人々の落胆を誘う。 地位は高くとも、苦悩以外のものがなかった。 そうしてそんな混乱の中でその軛から解放されることを受け入れようとしたことを、景麒は根底でいまだに許していないように感じられた。 それは何気ない言葉の端や表情の中に、見え隠れする。 本当は何を言おうとしているのかすべて見出そうと目を向ければ、まっすぐに見すぎるせいなのか、それとなく視線を切られて終わる。 そうして一人思考の内に沈めば、自然と外へと目が向いていく。 ろくでもないことを思いつきはしないかと内心気が気ではないのだろう。 だが、先王の例もある。 その中で景麒は多分、精一杯折り合っているのだろう。 景麒も自分も、間に入る事情が複雑すぎて巧く立ち回ることは最初から出来なかった。 推測の域にすぎないのは、一度もそのことについて掘り下げて話をしたことがないからだった。 あの事件の後はひたすらに事後処理に追われ、ふと立ち止まって考えられる頃にはすでに時間が経ち過ぎていた。 そしてそのまま消化できない感情は、溶けきらない砂糖のように底に凝って、後味悪く喉の奥に絡みついている。 吐き出すことも、飲み込むこともできずに。 要するに、完全には信用されていない、ということなのだろうと陽子は思った。 仕方のないこととはいえ、よい解決策は思い浮かばなかった。 ただ誠意をもって接していけば、少しずつ時間が解決していく問題なのだろうと諦めにも似た心持で、納得できない部分を無理やり嚥下したのだ。 波音が、やさしく耳をくすぐった。ゆるやかな日差しのそそぐ午後だった。 細く開かれた窓からは、潮の香りがする。 雲海がどこまでも広がって、眩しく光を反射していた。 露台に出れはすぐそこは雲海だった。 すでに慣れた香りであっても、ふとした瞬間に気付くと一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる時があった。 記憶の根底に、海の側でなければしない匂いだと刷り込まれているからだろう。 初めて玄英宮に招かれた時、本当に驚いたものだ。 その様子を思い起こすと未だに可笑しいらしく、雁に招かれるとこうして雲海に側近い客堂に通されることが多かった。 今ではもう、すっかり馴染んだ景色だというのに。 何気なく窓の外に目をやって、眩しさに目を細める。 入室を断る短い声がして、続いて堂扉が開く。 衝立から顔を覗かせたのは、この玄英宮の主、延王その人だった。 深く腰掛けた椅子から立ち上がり、陽子は歩み寄る延王を迎える。 かの人は室内を見渡して、実に不思議そうに首をひねった。 「景麒はどこへ行った?」 訊ねられ、陽子は礼儀正しく微笑を浮かべながら長い袖の中で軽く拳を握った。 「六太くんのところへ、旧交でも温めてこいって行かせました」 「なんだ、また喧嘩か?」 「喧嘩はしてないです」 嘘は言っていない、と言いたげに告げられ、延王は向かいに腰掛けながら陽子にも座するようすすめた。 腰を落ち着け、組んだ脚の上に肘をつき、何やら物言いたげな目でのぞきこまれて陽子は困り果てて膝の上の手を落ち着かなくそろえる。そのうち観念したように、眼差しを伏せた。 「一人にさせてくれって、私が言いました」 「そうか」 落とされた言葉はそれきりだが、声の響きにはありありとその続きをと、促すだけの力があった。 若輩者がその重圧に逆らうのは難しい。 それでも陽子は無駄な抵抗を示し、ぎりぎりまでためらって、最後には両手で顔を蔽うと深く長い溜息を吐き出した。 「なんだ、そんなにひどい喧嘩をしたのか?」 「喧嘩ならまだいいです、それ以前の問題で、我ながら自分が嫌になります」 こぼされる声音は、ひどく苦い。 その響きの硬さに延王は自身のこめかみを指で揉みながら、いまだ顔を蔽っている陽子を窺い見た。 「あの堅物と折り合うのは骨が折れるか」 「景麒が悪いわけじゃないんです、私が至らないから……」 「そう思わせてる時点で、あいつは気が利かない」 簡単に言い捨てられ、陽子は驚いたように顔をあげた。 ようやく視線が噛み合って、隠そうとしても隠しきれない途方に暮れた表情に延王はどうしたものかと思案する。 思ったよりも追い詰められている、と感じられた。 何をやっているのかと、内心舌打ちする。けれどそれができたら景麒ではないとも即座に思う。 ともあれ、このまま放擲するわけにもいくまいと思索を巡らせるうち、また陽子が溜息をつく。 「とりあえず、独り言だとでも思って何でも話してみろ」 「え、それは無理です」 「ここは慶ではないし、言うなれば俺は部外者だからな。子供の愚痴くらいなんの問題もない」 「特に面白い話はないですし」 「遠慮するな、面白いかどうかは聞いてから決める」 人好きのする、実に食えない笑顔で言い切られて即座に反論できない。 決して命令ではないのに、獅子に踏みつけられているような気がするのは何故なのだろう。 伝わってくる雰囲気が、黒くてとても重たい。 延王はうっすらと微笑んでいるだけだというのに。 「早く観念した方が楽だぞ?」 逡巡を素早くそう畳み掛けられ、陽子は何もかも面倒になり、微かな苛立ちも手伝ってどうせ逃げられないならと腹を括った。 「お前……人といる時に溜息つくのはやめろ」 呆れたような延麒の声に、景麒は一瞬声の主を見て、失態に気付いたのか目を瞬いた。 それを確認し、無意識だったとはわかるものの、延麒は無言の抗議に目を眇めてみせる。 わずかに唇が開いたが、言葉が紡がれることはなく、変わらず沈黙の時が過ぎた。 今度は延麒が溜息をつく番だったが、あまりに嫌味だし莫迦らしいので寸での所で飲み込んだ。 「喧嘩したならさっさと謝ればいいだろ? 時間が経つほどこじれるもんだし」 「そういう訳では」 「じゃあなんで、お前はこんな所にいるんだ?」 自分の事を指しそうぞんざいに言い捨てる延麒に、景麒はすぐに言葉につまる。 聞かずとも、大体の事情は察せられた。 一緒にいる二人を見ていれば、長く生きてきた自分には手に取るようにわかる。 表面上行儀よく、儀礼的にふるまえていたとしても、言葉の端々やそうして交わされる眼差しの色に心の在り様は滲む。 どっちも器用な方じゃないからな、と延麒はひとりごちる。 二人とも今一歩お互いに踏み込むことを避けていて、隠された本心の上を心無い言葉が上滑りしている、ように見える。 それは何故か。 外側からなら、いくらでもそれらしいことを言うことはできる。 けれど当人たちが自ら解決しなければ意味のないことだ。 長く荒廃していた朝を立て直すのは並大抵ではない。しかも、謂れのない偏見が常に阻む。 努力で変えようのないものをなじられては、精神も摩耗する。 しかしそれは朝が続けば簡単ではないが、次第に解決する問題でもある。 その中で彼女は彼女なりによく勤めていると延麒は思う。もっと評価されてしかるべきだと。 景麒は、延麒から見れば、可愛い弟分だ。 人当たりの硬さや言動の正当さに、人を圧倒する、厳しさがあるのは否めない。 けれどその心の裡と言動は必ずしも釣り合ってはいない。 非情に徹しきれない甘さがあるのを、延麒は知っている。それがかつて命取りになり、その性格を更にこじらせた、と言っても過言ではない。 とばっちりを受ける陽子は可哀相なものだが。 今はまだ、陽子にそれを寛容に受け止めるだけの余裕はないだろう。 「陽子は……」 主の名に、景麒は自然と居住まいを正す。 その様子に、延麒はひっそりと陽子に見せてやりたいと思った。 自分の前では、景麒は幾分素直だ。逆に陽子の前では何故なのかと驚くほど頑なだ。 「お前と同じで、なんでも生真面目に考え過ぎだ。だからな、あんま追い詰めんな?」 不安げに見返す景麒に、限りなく優しい気持ちで言い含める。 「不安要素は多いだろうが、慶の冢宰の有能さは雁まで届いているし、太師だって達王の時に右腕だったって人物だろ? ちょっとやそっとで、めったなことにはならないさ」 そうだろう、と無言の内に問いかければ、緩やかに肩の力がほどけていくのがわかり、延麒はやんわりと口角をあげ、だから、と続けた。 「追い詰めて、泣かすのはやめろよ。あと溜息つくのも禁止だ」 わかったか? とばかりに小首を傾げて顔を覗き込めば、数秒だけ噛み合った視線はゆっくりと伏せられた。 そこからありありと見えるのは、彼は慙愧の念にかられている、ということ。 すでに萎縮してしまっている陽子には、そうしたやりとりの後で景麒が後悔にかられていることまで想像に及ばないだろう。 溜息をつきたくなり、自分がそれを禁じた手前、こめかみを揉んで衝動をやりすごす。 「自分が信頼されてないって感じてるから、陽子だって萎縮するんだ。わかるだろうが」 「そんなことは」 「そんなことあるんだよ。お前がどういうつもりだったかじゃなくって、陽子がどう受け止めてるかって話だ」 景麒は額を小突かれでもしたような驚いた顔をしていた。 延麒は思わずそこからか、と思わずにいられなかった。 こんなに噛み打っていない事態だとは思ってもみなかった。 こめかみを指の腹で叩きながら、あちらはどうしているのだろうと思いを巡らせた。 尚隆はうまくやれているだろうかと。 一抹の不安がよぎるものの、大丈夫だろうと思い直す。 うまく気晴らしでもさせてくれたら、それでいい。たぶん、それ以上を思いついたら少し面倒なことになりそうな予感がする。 あの男は渡る風だ。そして平穏を撫でていく風ではない。 いまだ衝撃を飲み込みきれていない景麒を尻目に、だんだんと不安が勝ってきた延麒は行儀悪く腰掛けていた卓子から軽い身のこなしで飛び降りる。 「景麒、俺も行くから、あっち行ってみようぜ」 促され、ゆるゆると立ち上がった景麒は突然色を失くし、驚いた延麒がどうしたと訊ねる前に遁甲して消えた。 刹那の出来事に、ただ唖然とする。 想起しうる最悪の事態が発生したことに気付き、我に返った延麒は総毛立った。 「いったい何してくれてんだよ、あいつは!!」 腹立ちまぎれに自らの半身を口汚く罵りながら、延麒は慌てて後を追った。 Novels [1] [3] 2015.03.28 |