懐かしい未来 [1] 窓を開けるとそこには遠く近く、凌雲山が聳えてあった。 あまりに雄大な景色は、縮尺の要になるものがないと壮大さの実際がわかりにくい。 中天にかかる月と同じようなものだ。 どこか現実味がないような気がして、その実、恐ろしいほどの存在感を放っている。 大概の人間にとっては、方角を見失わずにすむこれほどにない目印であり、日常の中に溶け込んだ風景である。 ようやく長くも短い春節が終わり、新たな年を皆が受け入れる頃のこと、東の慶であっても風はまだ冷たい。 けれどその季節の冷たさに、少しずつ春の気配が漂いつつある。 こうして一年がまたはじまっていくのだと、すっかり冴えた頭を軽くふるい、玻璃の窓を閉める。 循環した空気の流れで、卓子に飾られた水仙がやわらかく匂い立つ。 雪中花などとも呼び現わされ、冬から春をつなぐ誰にもなじみ深い花だ。 一人でいるにはあまりに広い、ふた堂室続きの室内を見回して、楽俊は背伸びをした。 どことなく落ち着かなく、ゆっくりとした足取りで堂室の中を行き来する。 とりとめなく、春節の間のことなどに思いをはせ、今度郷里に帰る時、母の土産に何を持ち帰ろうかなどと考えるうちに堂扉の外から声がかかる。 宿の主人が自ら、簡潔に来客の訪いを告げた。 返事をし、自分が迎えに出ることを告げるがてら、堂扉を開ける。 人好きのする壮年の男性である主人は、楽俊と目が合うとからりとした笑顔で心得たように頷いた。 何か返したかったが、かえって藪蛇になるような気がして、口を閉じた。 「楽俊!」 「久しぶりね、変わりない?」 二人の少女に笑顔で迎えられて、楽俊は破顔した。 「二人とも元気そうだな、何にも変わりなんてねえぞ」 本心からそういうと、二人は顔を見合わせ、楽俊を見て楽しそうに笑みをこぼした。 簡単に互いの近況など話して、二人を席へと案内する。 楽俊が宿をとったそこは、一階部分に茶房や食堂などが併設され、宿泊客でなくとも気軽に利用できるようになっていた。 そういった気安さもあってか、大通りから外れてはいるが不思議と繁盛していた。 食事時ではないこともあって利用者はまばらだが、ほどよく席は埋まっている。 奥まった目立たない席を選び、三人は腰を落ち着けた。 その席にも、水仙の花が飾られていた。 「祥瓊、そういえば陽子はどうした?」 のんびりと問いかけられ、祥瓊の隣の鈴が奥歯に物が挟まったような奇妙な表情を浮かべる。 祥瓊も似たようなものだった。ただ祥瓊は堪えがきかなくて、というより隠す気もさらさらないらしく、肩をすくめて楽俊へ答えをこぼした。 「台輔を一緒に連れてくるって言って、でも台輔はご遠慮なさっていて、なのに台輔が折れるまでがんばっている最中よ」 「やあ、いつも通りだな、相変わらず」 「そうなの、相変わらずなの。そのうちくるわよ」 「莫迦莫迦しいからおいてきちゃったわ」 結果はいつも同じなのにねと、やけにしみじみと、鈴が引き継いだ。 もともと、陽子とは折を見て鸞や書簡で連絡を取り合ってはいた。 けれど互いの予定をすり合わせて顔を合わせることは立場上難しく、ともすると焦れた陽子が書置きして出奔ということも現実になかったとも言えず、そんな日々を繰り返す内に、元宵節が終わり、時節が落ち着いた頃にこんなふうに顔を合わせることがいつの間にかの約束事となっていた。 こんなふうに小さな、やくたいもない出来事があるのももはや通例だった。 最初にこの『雛型』を作ったのは、意外にも延台輔だった。 冬の息吹の厳しかったある年、不思議なことに年を越した途端にその冷たさが和らいだ。 厳しい寒さがやわらぎ、春の近さを感じると人は不思議と楽観的になることがある。 そんな浮き立つような雰囲気に後押しされ、更に都合よく休暇も噛み合って、とんとん拍子に会おう、会おう、と、そういうことになった。 それを恐ろしい地獄耳で聞きつけた延麒六太が、勝手に調整に噛んで慶の宿場で宿までとり、向こうにもすべて連絡を取りつけていて、気づいた時には身一つで慶に行けばそれでいい、という状態になっていた。 分不相応だと慌てて訴えたが、年寄りの好意を無にするものじゃないと一蹴され、しまいにはお前には義務があるのだから、と延麒はのたまった。 陽子を拾ったのはお前なんだから、最後まで見届ける義務があるんだ、と。 それは成り行き上の事で、と反論しようとし、あまりにまっすぐな目を向けられて答えに窮した。 生半可な嘘をつき、誤魔化せるようなそんな雰囲気は一片もなかった。 楽俊は逆に問われていることに、すぐに気づいた。お前に、その覚悟があるのかと。 ある雨の日に、寄る辺なく、行き倒れた娘を拾った。 訳ありだなどということは一目見ればすぐにわかった。 傷つけられて疲弊して、虚勢の向こうに時折見える姿は怯えきっていた。 これも何かの縁と、ただ放っておけなくて、それだけだったのに。 こんなに大事になるとは、露程も思っていなかった。 外的な要因が大きすぎて、それに竦んだことがあるのは事実だった。 竦んだのは自分だけで、誰もかれもそれを気にしていないことを知るのは後の話だ。 母は惜しみない愛情をもって慈しんでくれたが、どうしても生国では半獣という生は人に劣る扱いだった。 自身を蔑むつもりはなかったが、まったく劣等感を抱かずにいるのは難しい。 母が苦労する姿を傍で見て育ったから、それはひとしおとも言えた。 けれど、陽子はそのまったく外側の世界からやってきた。 どう抗おうと覆せない事実、と思っていたことを、あっさりと乗り越える。 のちに伝え聞いた話だが、ある時この胎果の少女は半獣を落としめんと言を吐いた者に自身の半身を引き合いに出し、実に不思議そうにどちらも二つ姿を持つものなのに、なぜ区別するのかと言ったらしい。差別、ではなくだ。 あまつさえ景麒に意見の矛先を向け、大いに発言者を慌てさせたらしい。 本人は後になって、 「乱暴な言い方をするとさ、キリストを信じる人に、ゾンビだって死んで復活してるんだから同じだろ? っていうのと同じように聞こえたんだろうね、たぶん」 などとよくわからないことを言っていた。 ともかく、最初から陽子は規格外の存在だった。状況が変わって、普通なら縁が途切れても不思議ではないのに、拾った者と拾われた者、という所からの付け足しの少ないこと。 縁が途切れないまでも、だんだんと疎遠になっていくのが普通だと思っていたのに、それは日々覆され続けている。 光栄だが、ちょっとむずがゆく感じる時もある。 延麒にはお前は親鳥なんだからしようがない、と妙に遠い目をして肩を叩かれた。 そういうものなのだろうかと戸惑いつつ、そのまま今日まで来ている。 「……俊……楽俊?」 呼ばれて、物思いの谷間から引き戻される。 「あ、ああすまねえ。ちょっとぼんやりしてた」 「ぼんやりっていうか、百面相してておかしかったよ?」 「ちょっと祥瓊ったら」 口を蔽い、肩をふるわせる祥瓊に鈴がよしなさい、と笑い含みになだめるにかかる。 「何か面白いことでも考えてたの?」 「いや、面白いとはちょっと違うな。陽子の数々の規格外っぷりを思い出してた」 照れ隠しに頭の後ろを掻きながら言えば、一度顔を見合わせた二人がこちらを向き直り、軽く首を縦に振って同意を見せた。 自分よりもずっと間近くある二人だから、もっとたくさん、ここにはいない彼女に驚かされることがあるのだろうとは想像にかたくない。 「さすがにちょっとずつは落ち着いてきてる……んじゃねえのか?」 少しだけ不安になって、楽俊は呟いてみる。 「まあひところよりはね。努力して馴染んでると思うわよ」 「そうね、成長してるわ。でも、陽子はびっくりするようなこと、突然やるのよねえ」 「そうそう、よそでやらかした時は自分のことじゃないのに、動悸が止まらなくなる」 寒さを感じた時のように自身を抱きすくめ、硬い表情で鈴がこぼした。 それを見ると、聞くだに恐ろしい気になる。 そこへ給仕の少女が断りを述べながら現われた。 己がぼんやりとしている間に注文された茶菓などを手際よく並べ、軽く会釈をすると下がっていった。 「そういえば、楽俊は知っているんだっけ、あの話」 やわらかに立ちのぼる茶杯の湯気の向こうから唐突に祥瓊が言った。 「うん? 髪を短くしちまった話か?」 「ううん、それよりもっと古い話よ。あれ、その時に話したんじゃなかったっけ。陽子がほら延王に担がれて、やらかしちゃって、延台輔が延王に激高されて」 「それ、たぶん知らないんじゃないかな? あの時は陽子が話を遮ったじゃない」 「そういえばそうだったかも。もう時効だし、いいよね」 実にすがすがしい笑顔で祥瓊は言い切ったが、何がいいのだろう。 こんなに聞く前から聞くのが恐ろしい前振りがあるのだろうかと楽俊はまた物思いに逃げそうになる。が、祥瓊はやめる気がなさそうだったし、鈴も止める気はなさそうだった。 「自分で招待して来てもらってるのに、いつまでも遅刻して来ないんだから、しようがないのよ」 困ったこと、とやけに芝居がかった仕草で鈴が頷いてみせる。 どうしよう、どこにも止める者がいない。 非常にまずい話を聞くことになるのではと思う一方で、怖いもの見たさの気持ちもなくはない。 ほんの少し、あくまで少しであるのだが。 「あれはもう、とてもとても昔の話ね。登極して五年も経ってなかった頃かしら」 「陽子が台輔と招かれて、雁に行った時の珍騒動よ」 息がぴったりの語り部は、懐かしさを声に滲ませていつかの話を楽俊へと語りだした。 Novels [2] 2015.03.14 |