東海春暁 [3]










「やっぱり、陽子が悪いんじゃねえか」
「でもあの時、景麒がすんなり堂室から出してくれたら、絶対に髪は切らなかったよ。おかげで、こっちは後々大変だったんだから」
「陽子、それは自業自得だろ、仕方ねえ。大体予想はできるけど、さぞかし怒られたんだろうなぁ」
笑いをこらえるような楽俊の物言いに、陽子は反論せず、ただ肩をすくめてみせた。
「まず鈴に祥瓊、浩瀚、桓堆、虎嘯、遠甫と……ああ、桂桂には泣かれたんだっけ。あれはまいったな、怒られるよりつらいね。傍仕えの女官たちには当然のように恨まれたし」
「しようがないわよ。だって半月もしないうちに祭祀があったんですもの。時期的に、まるであてつけのようでもあったから」
口を挟んだ鈴に、陽子は気にせず先を進める。
「そうそう、仁重殿の女官たちにも恨み言をもらったな。さすがにそれは悪いと思ったけど」
楽俊はそっと、その女官たちに同情した。
ただでさえ口数少なく、整いすぎるがために冷たく見えるその容貌で怒気を孕まれたら、生きた心地がしないに違いない。
そこでふと、楽俊は一つのことに気付いた。
「台輔はお叱りにならなかったのか? まさかそんなわけねえよなあ」
「さすが、楽俊は鋭いね。ところがね、実はそうなんだよ」
ぽかんと口を開けた楽俊があまりに驚いている様子なので、陽子は景麒が不憫になり、小さく笑った。
「叱らなかった、というのは本当。髪を切ってしまってからきっかり一週間、一言も口をきいてくれなかったからね、あいつ」
独白のような響きを持った声に、楽俊はそっと口を閉じた。
よくよく骨身にこたえたのだろう。今までとあきらかに声の重みが違った。
陽子の話は、とつとつと進んだ。
政務以外、口をきかないどころか、目を合わせてさえもらえなかったこと、さすがに反省したものの、どう謝罪すればいいか悩んだことなど。
手紙を書いたのだと、陽子は言った。
それが髪を切り落としてから一週間後のことだった。
















自らの短慮と深く反省している旨を簡潔に記して、景麒へ文を送った。
少しでも長くすると、言い訳になってしまう気がしたから。
文を女官に託し、ほどなくして景麒が自ら正寝を訪ねてきた。
驚いたものの、込み入った話になるだろうと、陽子は景麒を出迎えて人払いをした。
髪を切り落としたことは傍近くにいるものしか知らないよう、配慮がなされたが、王と麒麟の間に生まれた亀裂は、誰もが知るところになっていた。
近しいものは皆、口を噤んだため、さまざまな噂が飛び交った。
それでも、この国では女王と麒麟が懇意にすることを懸念されるために、景麒も陽子もあえて何かを言うことはしなかった。
それは今に始まったことではなく、陽子が登極した当初から、そうあることをほかでもない自国の民に望まれていたからだ。
先の女王が、そうして自らを、国を滅亡へと傾けたことを、いまだ忘れえぬ記憶としてこの国はあり続けていたから。
お互いの間にそんな距離を持つことを、当然のように、受け入れていた。
















広い堂室に二人だけが取り残されたように、二人はただ向かい合って、沈黙を供にしていた。
目を合わせることが久しく、陽子はこちらに向けられる景麒の眸を懐かしく感じたことに、ぼんやりと不思議を感じていた。
「文を、拝見いたしました……」
ややあって、静かな声が、沈黙に慣れた耳を打った。
陽子は糸が切れたような心地がして、そっと、吐息を吐いた。
「うん、悪かったと思って……あんまり大人気なかったしね、反省してる。だから……そろそろ許してほしいんだ。こうして来てくれて、実はほっとしてる。本当はまだ怒っているのかもしれないけど」
思わずこぼれた笑みに、景麒は無言のままたじろいだ。その戸惑いを目にして、陽子は苦笑した。
「髪なんて、爪と同じだ。すぐにのびるよ」
「違います」
即座に強い声音で否定される。
けれどそれは、常のような叱責ではなかった。
主上、と小さく呼ばれた。
「申し訳ございませんでした」
深々と礼を取られ、その長い髪が低い方へと流れて行くのを見ながら、陽子はその事態に動揺した。
「もういい、二人とも悪かったんだ、だから顔をあげてくれ。頼むから」
ゆっくりと顔をあげた景麒の表情には痛ましい色が見えて、困惑した。
小言も恨み言ひとつ言わないほどに憤っていたはずであるのに、これではまるで逆だと陽子は思う。
「そんな顔するな。ほら、この髢よくできてるだろう? 誰も気付いた人はいないようだし」
言って、今は髢となった髪を一房指に絡め取った。
その髪にはあの時祥瓊が似合うと言った、雪のような牡丹が彩られている。それにあわせて幾本かの飾り紐だけで簡素に結われていた。
髢では再現できる髪形が限られていたし、周囲の反感を買ったものの、その行いは陽子に思わぬ僥倖をもたらしていた。
あまりに無謀な行動に、過剰に飾り立てられる苦痛から開放されたのだ。
だから髪を切ったことを哀しむ気持ちなど、ほんの少しも抱いていなかった。
ましてそれを、他者が持ちえていたなどとは。
「とにかく、髪はさ、のびるんだから気に病むな。本当にたいしたことじゃないんだから。ああもう……そんなに怒るな言葉の綾だから」
「いいえ、もっとお気持ちを汲んで差し上げるべきであったと、私は……」
景麒は一度言葉を切り、浅く息を吸い込んだ。
「ためらいもなくあのように簡単に髪を切り落とされたのを見た時、いつか同じような容易さであなたは誰かのためにその手足を切り落とされるのではないかと思うと……とても……私には耐えられませんでした」
淡々とよどみない声が、最後に低くゆらいだ。 伏せられた眼差しはあの時と同じ、悲愴に溢れていた。
思いがけない言葉に胸をつかれて、陽子はやっと気付く。
景麒が憤りを向けていたのは、陽子ではなく、自分自身だったのだと。
陽子はふいに固継の里家で、遠甫とこちらの婚姻について話をした時のことを思い出した。
蘭玉が生活のために偽りの婚姻を結ぼうとしていたことを、陽子はひどく哀れに感じた。
だが、遠甫はそれは間違いだと言った。
こちらとあちらでは、婚姻の意味が全く違う。こちらでは婚姻に、あちらのような重き意味は伴われない。
理解はできたが、一度なじんだ常識を覆すのはたやすいことではない。
勝手な感傷だとわかっていても、やはりそんなことはさせたくないと思った。
今の景麒に、あの時の自分が重なって見える。
景麒の周りの女性たちは身分のこともあって、たおやかで優美な者が多い。
蓬山の女仙たち、女官、官吏、誰を思い返してみても皆、長く美しい髪をしている。
装いもまた、非の打ち所なく、典雅だ。
女性とはそういうものだと漠然と感じているだけに、景麒には陽子の以前の様子も今も、あまりにも無残に映るのだろう。
景麒は髢をもてあそぶ陽子を、いまだまっすぐに見ようとしない。
髪に触るのをやめ、陽子は音もなく息を吐いた。
「景麒……お前には何の罪もないことだ。それに、私を哀れむ必要はないんだよ」
景麒はその言葉に、弾かれたようにして陽子を見た。
陽子は眼差しに強い力を込めて、景麒を見据える。
「私にとって髪は、あまり意味のあるものじゃない。向こうでは、お前が来るのが一日遅ければ今のようになっていたはずだし。向こうでは誰も私が髪を長くしているのを望む人などいなかったから、こんな風に景麒を傷つけるとは思いもしなかったんだ」
景麒は黙したまま、陽子の言葉を聞いていた。 
「つまり……この一週間は、私にもつらかったんだよ。言葉よりもよほど身に沁みるものがあるとは、私もお前も痛いほどに実感しただろう? 一週間も口も聞いてくれなければ目もあわせてくれないし、今度こそ見捨てられたんだと思った」
「見捨てるなどと、そんなことはありえません」
「だから怒るな、そう感じたって話なんだから。私のことを怒ってると思ってたんだから、無理からぬ話だろう? 周りの人を見ると、私たちはどうも、気持ちを伝える術に欠けているように思う」
景麒は短く、頷いた。陽子はそれを見やって話を続けた。
「思うに、公私の公が強すぎるんだろうな、私たちは。何かっていうと、王だから、麒麟だからって話になって、喧嘩になる。そんな話が聞きたいんじゃないのに、って何度思ったかしれない。私はほとんど身分というものを感じずに育ったから、肩書きで見られることは仕方ないとはいえ、すごく嫌なんだ本当は」
「主上、それは……」
言いかけた景麒に手のひらをかざし、陽子は先を続けた。
「上辺だけを見られているような気がして、虚しい気持ちになる。王とは、って言われるたびに、お前はそれに相応しくないって言われている気がした。今でも、落ち込んでる時はつらいな」
微笑む陽子に、わずかな翳りが見えた。
無意識の内に、景麒は拳を握りしめていた。
「……私も……麒麟だからと、遠ざけられることは歯痒く感じることがございます。確かにこの身は麒麟ゆえに争いを厭い、血を厭います。けれど心まで、すべてがそうではありません」
「うん……難しいな、本当に。ただ心配しているだけなのにね、お互いを。なのにどうしてそれを、拒絶のように感じてしまうんだろうね」
あまりに明け透けな言い様に、景麒は瞠目する。
拒絶、という言葉がただ深く響いた。
陽子は景麒を仰ぎ見て、晴れやかに微笑んだ。
「これはいい機会だから……あのね景麒、そういったことを、少し改めるようにしないか? 公私を混同するつもりはない、でもなんだか寂しいんだ。個人を見られていないようで……私も気を付けるから。もう少し、ゆるい言葉がほしいな。何の肩書きなしの、お前自身の言葉を私にくれないか」
幼子のように懇願されて、景麒は驚きながら自然と頷いていた。
陽子はこんな取りとめもないわがままを聞いてくれる人が傍にあることが、ただ嬉しかった。
自分も少しは変わったのだなと、景麒を見上げる。
「できるだけ、努力いたします」
「ありがとう。すごく嬉しい」
無邪気に笑うと、景麒もつられたように淡く笑んだ。
その時の陽子には、それはとても印象的な微笑だった。










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06.02.25