東海春暁 [4] 陽子が話を終えると、楽俊は長く息を吐き出した。 「そんなことがあったのか……大変なんだな、王様も麒麟も……」 「何言ってるんだ、自分だって、雁の末席に身を置く立場だろう?」 からかうように言われて、楽俊はよせやい、と照れて呟いた。 巧はいまだ半獣に対する法が改正されていないため、楽俊はあえて雁の末席に身を置き、巧に帰る日を待っている。 彼の実力ならもっと高い地位を得てもおかしくはないのに、そういう彼の謙虚な姿勢は、変わっていない。 「雁のお二人は相変わらず?」 「ああ、とても賑やかだ。はじめは面食らったけど、もうすっかり慣れちまったな。今は同じ宮城の中にいるのに、相変わらず窓から訪問なさったりする」 「あのお二人らしいね。うちもあんまり変わってないかな、信の置ける人が増えたくらいで」 背もたれに躰を預けた陽子に、まあ、と祥瓊が口を開く。 「あなたたちだいぶ変わったわよ。私たちがここに来た頃なんて、二人でいることなんてあまりなかったじゃない」 「そうよ、そもそも会話ってものが存在してなかったじゃないの。それが今では、二言三言で相手の言いたいことを把握しているんだから、これを進歩と言わずになんて言うのよ」 鈴にも畳みかけられ、陽子はひどい言われようだと楽俊に訴えた。 それがどことなく嬉しそうに見えた気がして、楽俊は少しだけ頷いた。 「でも、陽子が無茶をするのだけは変わらないかしら。いつだったか、ほら祥瓊……」 「ああ、あれね。でもそんなのって、生易しい部類よね、陽子の無茶の中では。まあ、台輔は随分お怒りだったようだけれど」 「鈴、祥瓊!」 「「あら、本当のことでしょ?」」 友人二人に言い切られ、陽子は溜息をつく。 楽俊は三人の微笑ましいやりとりに笑みがこぼれるのを止められなかった。 水を得た魚のように、二人はさらに陽子の数々の悪行を述べ立てる。 陽子はもう諦めたらしく、聞こえないふりをして冷めかけた茶を口に運んだ。 陽子が無茶をする性格なのは、最初からよく知っている。 それを咎めるでもなく、まるで武勇伝のように話す二人の様子が、殊更おかしかった。 ふいに堂扉の影から短く断りを述べた声に、陽子は立ち上がりそちらを振り向いた。 「景麒」 それに、祥瓊、鈴、楽俊も立ち上がった。 景麒は隣に鋼色の髪をした少年を伴い、こちらに歩み寄る。 青年、と呼ぶにはいくらか幼さをみせるその人物は、楽俊の見知らぬ人だった。 身に纏う衣装から、貴人だということだけ、かろうじてわかる。 陽子がああ、と相好を崩した。 「初対面、だよね。楽俊、こちらは泰台輔だ。泰麒、こちらは楽俊。雁の優秀な官で、私の友人なんだ」 この少年が泰麒なのかと驚きに息を飲む楽俊に、泰麒は陽子の紹介に頷くと楽俊に頭を下げた。 顔をあげ、驚く楽俊に微苦笑を浮かべる。 「僕は中嶋さんと同じ胎果なので、これは癖なんです。驚かせてしまったようですね、ごめんなさい」 「いえ、とんでもないです。お目にかかれて光栄です」 笑顔を浮かべ、楽俊は挨拶を返す。 柔和で気さくな様子に陽子と通じるものを感じ、楽俊は肩の力を抜いた。 そしてふと、景麒と視線が合う。 「お邪魔しています景台輔。この度のこと、心よりのお祝いを申し上げます」 わずかに緊張を憶えながら、楽俊は景麒に言祝ぎを述べる。 景麒は眼差しを伏せ、礼を口にすると軽く会釈をした。 そしてあげられた面には、淡く、穏やかな微笑があった。 楽俊は思わず、景麒から目を離すことが出来なくなっていた。 この青年が、このように柔らかく微笑むのを見るのは、これが初めてだった。 こんな表情ができる人だったのかと、半ば茫然としかけてそんな自分に驚く。 楽俊はその表情のまま陽子を振り返り、同じように微笑んでいる陽子に、自分の唇が笑みを刻むのを感じた。 この青年を変えたのは、間違いなく目交いの少女だった。 おそらくこの景麒の微笑みこそが、彼が本来生まれ持った性質であるのだろう。 硬質で純度の高い、澄みきった水晶のような人だと思っていた。 美しくあるけれど、どこか冴え冴えとして触れがたいような。 けれど今の景麒には、目を奪われるような柔らかさを感じる。 深く積もった雪を溶かし、暖かな季節を教えた少女はただ、己の半身に手を差しのべる。 景麒は招かれるまま、主の傍に歩み寄る。 陽子を見る景麒の眼差しに、遠い日に見た仄暗い翳は存在しなかった。 どこか痛ましいものを目にするような、哀傷の色は、もうそこになかった。 「何をお話に?」 問われて、祥瓊と鈴が口を押さえた。陽子がむくれるのを見て、泰麒が笑った。 「他愛ない、昔話ですよ」 そんな楽俊の言葉に、陽子と景麒はぼ同時にこちらを見て、なぜか不思議そうな顔をした。 もともと似たところがあったのか、一緒にいるうちに似てしまったのか、楽俊は己が仕える王と麒麟にも通じる二人の様子に、ただ微笑む。 「そういえば、陽子にはまだ言ってなかったな。ちょっと遅くなったけど、おめでとうって」 そうだっけと陽子は呟き、ごく自然に礼を口にした。 「またがんばらなくちゃね」 笑顔で告げられたのは、思いもよらない言葉だった。 ともすれば己を卑下しがちだった少女は、まぎれもない王として、楽俊の前にいた。 変わらずにあるものがあり、目には見えずとも鮮やかに変わっていったものがある。 そういうことなのだと、長い月日を実感する。 主を見つめる景麒の穏やかな眼差しに、楽俊はこの巡りあわせを心から天に感謝する。 天の配剤以外の何物でもないと思う反面、自分が選ばれた意図はまったくわからない。 この巡りあわせは確かに自分のためであり、陽子のためであり、ひいては景麒のためであったことに間違いはない。 だから今はただ、よかったと思う。ここには誰の顔にも笑顔しかない。 ゆるやかな風を感じ、窓に目を向ける。かすかな潮騒とともに、波をよせる雲海が見えた。 「楽俊、海がある」 驚いた陽子の声が、唐突に脳裏をよぎていった。 外を見つめたままふっと笑みをこぼした楽俊に、景麒が気付く。 「いかがなされた」 「いえ、海があるなと」 景麒はほがらかな楽俊の回答に、首を傾げて黙り込んだ。 皆も一様に何を今さらと言いたげな顔をする中で、陽子だけは目を瞠り、そして窓の外へと視線を向けた。 「うん、海があるね」 「海だろう?」 「忘れていたな。楽俊、ありがとう」 いいやと独白するように呟いて、楽俊は今日何度目かわからない笑みをこぼした。 波音がただ、遠く近く、楽俊の耳に沁みた。 Novels [3] タイトルは『東湖春暁』という蓮の品種名からヒントを得ました。 濃桃色の花弁の凛とした、とても蓮らしい姿の蓮です。 当初の『翠岑(すいしん)』という題から変更して『東海春暁』に相成りました。 もともとこれは同人誌用に書き始めて、あまりに長くなったので急遽別の話を書き、そちらを同人誌に載せました。こちらも書き終えてから題割表の間違いのため紆余曲折がありましたが、今ではいい思い出です。 追記(2018.11)この話の中で語られる、陽子の無茶は『懐かしい未来』の中に詳しく出てきます。 06.03.04 |