東海春暁 [2]










その日はお互い、虫の居所が悪かった。
いつになく朝議が紛糾し、その苛立ちが冷めぬままでいたことが、原因のひとつだったように思う。
本当にそれは、些細な言い争いのはずだった。
















「何度も申し上げておりますが、主上にはおわかりいただけないようだ」
「わからなくて結構。公的な場所ではわきまえているだろう? なぜ私的な場まで、そう目くじらを立てられねばならない? 誰が迷惑しているというんだ」
陽子の刺々しい反発に、景麒は形のよい眉をひそめた。
景麒は陽子に、簡素すぎる身なりについて諫言をしていた。
彼女は常から、女性らしい装いをすることを好まない。それについては、景麒は半ば諦めがついていた。
けれど近頃の彼女は、装いどころか髪にさえもその風潮を馴染ませようとしていた。
長くのばした髪を髪油で梳き、無造作にゆるく束ねてすます。
それは、景麒の常識からはとても考えられないことだった。
彼女は年若い女性であり、それも浮民や下働きをするような、下賎な身分でもない。
陽子の言い分を聞けば、女官たちが過剰に飾り立てようとするのがどうにも苦痛でならないが、仕方がないので我慢している。
だから、私的な場にまでそれを持ち込みたくない、と言うのだった。
それでも、と景麒は思わずにはいられない。
真に言いたいのは、体裁ではない。けれどそれを伝えようと試みれば、どうしてか景麒には体裁が悪いのだという意味の言葉にしかならなかった。
彼女にとってそれが、うんざりするような繰言でしかないのだとわかっていながらも、言わずにはいられなかった。




予想はしていたものの、いざその態度を目の前にすると、景麒の口からは自然と溜息がこぼれ落ちた。
それに眼前の陽子がぴくり、と反応する。
「お前にはわからないから、そんなに煩く言えるんだ。私がどんなに窮屈な思いをしようが、わからないんじゃ同情もできないもんな。襦裙はまだいい、けどきつく結い上げられて山ほど簪をさされると、頭痛がするんだ。物事には限界があるんだよ!」
憤り、緑の双眸を鋭く光らせるさまは、妖魔を折伏する麒麟の身をも怯ませる凄みがあった。
「ですから……」
「くどい! これくらい私の自由にしてくれたっていいだろう、いちおう括ってるだろうが!」
怒りにまかせ、陽子は傍の書卓に拳を打ちつける。
書卓に載っていた書類が振動で揺れたのを見て、それまで聞かぬふりで事態を見守っていた祥瓊と鈴はたまりかね、ようやく口を挟んだ。
「二人ともおやめください、今日のところはもういいでしょう?」
「そうです、もっと冷静な時に話し合うべきです。お話が堂々巡りしてるじゃありませんか。ほら陽子、もうやめましょうね」
幼子を諭すような鈴の言葉に、陽子は景麒から目をそらし、うつむいた。
飾り気ない打紐でゆるく括られただけの髪が、やわらかく胸へと流れ落ちて行った。
「簪が嫌なら、花にしたらいいわ。今は牡丹の時季だもの、きっと似合うわよ。たいして重たくもないし」
「落としはしないかと、気になるんだ。それに似合わないと思う」
そんなことないわ、と力強く言う祥瓊に、陽子はゆるやかに首を振る。
これは骨が折れる、と祥瓊は内心景麒に同情した。
ただその景麒の説得、言い様が陽子にはまるで逆効果なのが、頭の痛い問題だった。
「大丈夫よ、ちゃんと落ちないように結うことはできるから。なんなら今、ためしにやってあげるわよ」
溜息交じりの祥瓊の言に、陽子の肩が、小さくゆれた。
まるで津波の前の、長い引き潮のように。
それを見て、祥瓊は本能的に身を引いた。嘘でも彼女の味方であるべきだった、言葉を重ねるべきではなかったと気付いたのは後の祭り。
「いい! もうたくさん! 放っておいてくれ!」
悲鳴のように叫び、陽子はその場にいる全員を睨みつけると、堂室を出て行こうと踵を返した。
慌てた鈴が、陽子の袖を掴む。
「鈴、離してくれ。ちょっと頭を冷やしてくるから」
「でも陽子……」
すがるような目で見られ、同情した鈴の指からするりと衣がこぼれた。
これで話が一度、終わるかに思えた。




「話はまだ、終わっておりません」
抑揚のない声が、耳に痛いくらい静かな堂室にしん、と響いた。
「……なんだと?」
「話はついていないと申し上げた」
鈴と祥瓊は声にならない悲鳴をあげた。呻いた、という方が正しいかもしれない。
かろうじて頭を抱え込みたい衝動を抑え、二人は睨み合う主従をいやいや視界に入れる。
「残念だが、私はもう話すことなどひとつもない。これ以上は無用だと私は言ったはずだが、その耳は飾りか?」
搾り出すように陽子はそう吐き出した。これが今の陽子には、精一杯の譲歩だった。
景麒はあきらかに不満を滲ませた様子で、陽子を見つめ返していた。
二人は視線を結んだまま、何も言わない。
話に終着点を見出したい景麒と、それを承服しかねる陽子。誰が見ても落とし所のない、平行線の話題。
傍観者はどちらの肩を持つのかというのが焦点になるような議論だ。
今ここで、どうしても落とし所を作らなくてはならない、という局面ではない。
頑なに拒否しか示さない陽子の態度に、冷静にしか見えない景麒も相当頭に血が昇っている。
売り言葉に買い言葉で、どちらも引くに引けなくなっていた。
無益な時が流れ、やがて陽子は低く呻くと、無理に視線を断ち切って景麒から目を背けた。
「もういやだ……」
そう言って堂室の中にさ迷わせた視線が、ふと一点に注がれた。
何を見ているのかと、景麒はすぐに陽子の視線を追う。
陽子はまっすぐに顔を上げ、迷いない足取りで引き寄せられるようにそこへ歩く。
何事かと不思議に思う三人の前で、陽子は書卓の上から、細長い棒状のものを手に取った。
目を瞠り、一歩を踏み出そうとした景麒に陽子は短くはっきりとこう叫んだ。
「動くな、勅命である!!」
言うが早いか陽子は括られた髪を掴み、一気に行動に出た。
その時点でやっと陽子の行動の意味に気付いた祥瓊と鈴が走り寄ったが、遅きに失した。
先に傍近くに駆けた鈴が手をのばした時には、陽子の髪は風を切る鋭い音とともに、肩口辺りでふわりと舞った。
鮮やかな赤い髪は、まるで花びらが散っているかのように見えた。
「陽子ッ! かみ……っ、髪が!!」
「ああ、切った。これで簪も花も結えまい」
陽子は実に清廉とした微笑を湛え、切り落とした髪を無造作に書卓に投げ出した。
打紐で束ねられ、切り落とされた髪は、まるで遺髪のようだった。
「研いだばかりとあって、いい切れ味だ」
「何がいい切れ味よ! あなた自分のしたことがわかってるの!? なんてことするのよ!」
祥瓊は眦をあげてつめよると、陽子の手から勢いよく小刀を取り上げた。
その小刀は本来、書類などの紙を裁断するための道具だった。
通常ここまでの切れ味を持つ道具ではない。物ぐさな陽子が紙以外のものを切るのに使い回すことがあり、刃物としての小刀と変わらぬものがあったのが、この時の不運であった。
一体誰が、このような蛮行を予測しえただろう。
「そうだ、台輔! 台輔も何か仰ってください!」
小刀を握りしめたまま、取り乱した祥瓊が景麒を振り向いた。
景麒は、平生のように感情の読み取りにくい表情を、その顔に浮かべていた。
「台輔……?」
鈴の呼びかけが届いていないように、景麒は反応しない。
いつもと決定的に違うのは、仄白い肌が血の色を失って、雪よりも白く、青ざめていたことだった。
ただ目だけが生気を灯し、こちらへと向けられていた。
その視線は陽子へと、射抜くように鋭く注がれている。
「主上……」
ゆっくりと一歩を踏み出した景麒に、陽子は気圧されて一歩後ずさる。
「なんだ、文句があるか」
きつく睨み返しながらも、声は少し上擦っていた。
さらに一歩を踏み出され、陽子は怯んだ。
だが、景麒の歩みはそこで止まる。
まるで糸が切れた人形のように、突然その躰が均衡を失い、膝から崩れた。
「景麒!?」
「台輔!!」
崩れ落ちる躰を咄嗟に陽子は支える。力ない躰は見た目よりよほど軽くあっても、陽子の手に余った。
腕に抱きかかえたままよろめいて、自身も床に膝をつく。
景麒は陽子の腕の中で両手で顔を蔽い、かすかに身をふるわせていた。
「おい、景麒?」
顔を蔽った手すら色を失い、陽子は急に胸がざわりとするのを感じた。
「陽子の莫迦っ、何を考えてるのよ、ああ、ひどい……! お可哀想な台輔! 今度と言う今度は本気で呆れたわ!」
「まって鈴……」
普段温厚な鈴に涙目でなじられて、陽子は慌てた。
どうしたらよいかわからずうろたえる陽子を、悠然と腕を組んだ祥瓊は冷ややかな目で見下ろしていた。
「自分が何をしたか、少しはわかっているでしょうね? 反論があるなら今の内よ。もっとも、言えるものならばだけどね」
美人に氷よりも冷たい目で凄まれ、陽子は背筋に冷たいものが流れるのを感じずにはいられなかった。
衝動のあとの戻ってきた冷静さが、早鐘を打ち始める鼓動に邪魔されてまったく機能しないものになる。
「あ……その……私、私はね……」
「言い訳しないで! 聞きたくないわ、私、絶対許さないんだからね!」
ぴしゃりと言い捨てられ、陽子は口応えひとつ許されないだろう鈴の様子に完全にまずい事態だと自覚した。
衝動で起こした自らの行いを後悔したが、今さら遅かった。
「失礼いたします。声が外にまで響いておりますよ。一体なんの騒ぎです、か……」
涼やかな声とともに入室してきた男は、堂室の異様な光景にその人にしては珍しく、声を失った。
「浩瀚……これはその、見た目ほど、たいしたことじゃないんだ……」
「たいしたことです! 聞いてください浩瀚さま!」
弱気な陽子にかぶさった鈴の叱責の厳しさに、浩瀚はやっと我に返る。
素早く状況を察し、止めた歩を進めた。
「祥瓊、手のものをしまいなさい、鈴、主上の御髪をこちらに」
命令されることに慣れている二人は、素早く浩瀚の言いつけを実行した。
祥瓊は小刀を鞘に収めると懐の中にすべらせ、鈴は書卓から陽子の髪を取り上げると、懐紙を用意して待っていた浩瀚へと手渡した。
長い髪の束を丁寧に懐紙にくるむと、浩瀚はうすく微笑んで、陽子の視線を捉えた。
綺麗な微笑であったが笑んでいるのは唇だけであって、陽子を捉えた目は、先の祥瓊よりも冴え冴えと冷たい光を発していた。
「主上、台輔は血に酔っておいでで?」
「だ、誰も怪我はしていない。景麒はその、少し驚かせてしまったみたいで……」
「ほう、少し……ですか?」
笑みを崩さぬまま、浩瀚は低い声音で聞いた。どこか轟くような響きを帯びたそれに、陽子は思わず身を硬くした。
祥瓊も鈴も、恨めしげな目をして陽子を見下ろしている。
知らず躰がこわばったせいか、腕の中の景麒がかすかに身じろぎをした。
「景麒? 大丈夫か?」
その呼びかけに、そっと手の蔽いが外されて、長い睫毛がふるえた。
さらに景麒、と呼ぶとうっすらと目蓋が開く。
ぼんやりと視線をさまよわせ、名を呼ばれて景麒は陽子を見上げた。
「大丈夫か? 気分は?」
陽子の問いかけに、まだどこか覚めやらぬうつろな様子だったが、その目はひたと、短くなった髪に注がれている。
そっと持ち上げられた手が、短くなった髪へと触れた。
細い指がいとおしむように髪を梳いて、肩に落ちる。
陽子を見つめる目が、現実に返って悲愴に滲んだ。
「景麒……」
どうした、と訊ねようとして、ひどく哀しい目にあとが続かない。
ただじっと、景麒は澄んだ目を向けるだけで、言葉一つ口にしない。
あまりに曇りない眼差しに、陽子はいたたまれなくなる。
肩に落ちた手が、ふたたび髪に触れた。
その短さを確かめずにいられぬように、白い指が赤い髪を滑る。
何度も、何度も。
「……ごめん」
思わず口をついて出た言葉は、水紋のようにゆるゆると、景麒の中に響いていった。
哀しげに伏せられた緑の眼差しを認めると、景麒は自分を支える主から、視線をそらした。










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06.02.18