東海春暁 [1]










「ああ、戻ってきたわ」
祥瓊の声に、鈴と楽俊はそろって彼女の視線の先を追った。
開け放たれた堂扉から、この王宮の主である陽子が入ってくる所だった。
陽子は楽俊の姿を認めると驚いて目を瞠り、次いで足早に駆けてきた。
「楽俊、来てくれてたんだ! 前もって教えてくれればよかったのに、そうしたらもっとずっと急いできたのに!」
「本当に急なことだったんだよ。延王、台輔がお気遣いくださって、おいらを連れてきてくれて……ご当人たちは、お目付けに引っ張られてお帰りになっちまったんだけどな。おいらは、祥瓊が引き止めてくれてな」
はにかむように言い、楽俊は祥瓊を振り返った。
「だって久しぶりじゃない、挨拶もしないで帰っちゃうなんて、友達甲斐がないって言ったのよ」
「それに今日は賓客を招いての祝賀行事ですもの、珍しく着飾った陽子を見ていかなくちゃ、慶まできた意味もないでしょう?」
祥瓊の言葉を引き継いだ鈴が、陽子を一瞥していたずらに笑みを浮かべた。
それに祥瓊も陽子に眼差しを向け、満足そうに何度も頷く。
当の陽子は肩をすくめ、ただ苦笑を洩らしただけだった。




一言えば十以上は確実に返ってくるだろう文句をあえて聞くほど、もう子供ではない。
今の慶に、『懐達』という言葉を口にするものはいない。
それを忘れさせるほどの月日と安寧が、今の慶には流れていた。
楽俊はあらためて陽子を見やり、その一国の王らしい佇まいと威厳に、眩しい気持ちで目を細めた。
仙籍に身を置く彼女は、出会った頃と何ら変わらない少女の姿をしている。
けれど、その心の在りようは大きく変わっただろう。
慶事のために品格と贅をつくした衣装のせいもあるが、どこか不安定な頑なさを持っていた陽子を、もうそこに見ることはできなかった。




人の美しさは、顔の美醜だけで決まるものではない。
何気ない仕草や立ち振る舞い、言動、心根の清らかさ、そういったものすべてが、その人自身をまるで楽の音のように現わすものだ。
だから理屈ではなく、簡単に判別がつく。




陽子が不思議そうにこちらを見返しているので、楽俊はほわりとした微笑を浮かべた。
「いやなに、別嬪だなあ、と思ってな」
「な……にを突然っ! 楽俊、延王に悪い影響受けてるんじゃないの!?」
狼狽し、たちまち真っ赤になった陽子に驚いて、楽俊は祥瓊と鈴を振り返った。
二人は背を丸めて笑いを噛み殺し、苦しまぎれに椅子の背をたたいていた。
肩をふるわせながらも鈴が空いた椅子を引くと、頬を膨らませた陽子がいささか荒々しい所作で腰を落ち着けた。
せっかくの美人が台無しだ、と楽俊は思う。
「怒ってるのか? おいら、ほめたつもりだったんだけどなあ……」
「……怒ってるわけじゃないけど、できればもう、そのことには触れないでほしい」
素っ気なく呟かれ、楽俊は得心がいかなかったが、素直に頷いた。
ほっと息を吐いた陽子は、いまだに涙を浮かべてまで笑っている二人をねめつけた。
それに二人は肩をそびやかすと居住まいを正し、祥瓊はお茶を淹れるといって、円卓の隅に用意されていた茶器の一式に手をのばした。
いまだ不機嫌な陽子に祥瓊はまるで台輔みたい、とこぼし、陽子はそれにますます渋面を濃くした。
小さな忍び笑いが誰の口からもこぼれて、漣のように部屋をたゆたった。
















どうぞ、と祥瓊から渡された茶を受け取ると、堂室の中にしばしの沈黙が訪れる。
陽子はまだ憮然とした様子で、口につける様子もなく、いたずらに手の中で茶器をもてあそんでいた。
その表情に、楽俊は先程の祥瓊の言葉を思い出していた。
「なあ陽子、台輔はお元気か?」
「景麒? ああ、相変わらずだよ、あいつは。全然変わってないよ」
応える陽子の顔が言葉の響きとは裏腹に急に明るくなったのを見て取り、楽俊は微笑ましい気持ちになる。
「そういえばご一緒じゃなかったのね。どうかされたの?」
「あちらも友人と、泰台輔と会ってるんだよ。久しぶりを邪魔しちゃ悪いから、私もちょっとだけお話して、こちらにきたんだ」
それに鈴は納得して茶菓に手に取った。陽子も同じものを取ろうとして、手をのばす。
躰を傾けたことで、一部結い上げずに残された髪が、肩から胸にすべり落ちていった。
姿勢を正した陽子は、何気ない仕草でその髪を背中へと払う。
それを見ていた楽俊は、その髪の長さに感心した。
最初は気付かなかったが、その髪は腰に届くほどという長さだった。
美しい色を宿しているので見栄えもよく、彼女がいっそう華やいで見える。
「ずいぶん髪も長くしてるんだな。まあ、そのくらいのびるのが訳ないくらいの時間がたっちまってるもんなぁ……」
感慨深げに呟かれ、陽子はなぜかきょとん、とした。
不思議なことを言われた、という顔をして、その髪を一房つまみあげる。
じっとそれを見つめてから、陽子は祥瓊と鈴と顔を見合わせ、突然吹き出した。
「な、なんだ? おいら変なこと言ったか?」
慌てて腰を浮かせかけた楽俊の肩に手を置き、陽子は楽俊を座らせる。
「ごめん、そうじゃないんだ。今朝のことを思い出したらつい……」
「あれはね、おかしかったわよね」
「ああいう時だけは、台輔も表情に気持ちが表われていらっしゃって……」
忍び笑う祥瓊が、苦しそうに躰を折り曲げた。
「台輔がどうかしたのか? こうしてみる限り、陽子の格好におかしなところなんか、ひとつもねえ気がするんだけどなあ。何かあったのか?」
「まあ、あったといえば、あったんたけどね。楽俊……」
自らの髪を再び手に取った陽子は、実にさっぱりとこう告げた。
「これね、髢なんだよ」
「かもじ?」
「そう、髢なの。私はこんなにのばしていられないよ。管理が大変だもの。下に降りたときに目立つし」
「そうはいっても、陽子は王様だろ? じゃなくて、それが台輔のご機嫌とどう関係があるんだ? おいらにはさっぱりわからねえ」
くしゃりと髪をかきあげた楽俊に、陽子は黙って髪を指に絡ませる。
「これね、私の髪で作ったものなんだ」
「……え? 陽子の髪、なのか? それってつまり、髪を切ったことがあるってことだよな、そんな長くのびてた髪を、どんな理由……」
喋りながら楽俊はおおよその事態を察したのだろう、口を噤むと呆れた顔で陽子を見返した。
「台輔が渋いお顔をなさるわけだな……」
「その景麒が悪いんだ」
悪びれる様子もなく、きっぱりと陽子は言い捨てる。
やれやれと思いながら、楽俊は問う。
「で、どうしてそうなったんだ?」
「もう結構前のことになるんだけど……」
陽子は気息を整えると、ひそやかに話し始めた。










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06.02.11