美しい人 [5] 「素敵な髪型ね、よく似合ってるじゃないの」 手紙の主を訪ねると、顔を合わせるなり彼女は満足げにそう言った。 「そう? 頭が軽くて頭痛がしない所は、私もとても気に入ってるよ」 「陽子ったら。祥瓊が聞いてたら、一体なんて言うかしらね?」 「やだ、今のなし! 内緒にしてよ、ねえ鈴」 「さあどうかしら? 私、最近忘れっぽくて……約束を憶えていられるか、自信がないわねえ……」 「嘘ばっかり。お願い鈴、後生だから……」 「まったく、陽子は調子がいいんだから」 両手を腰にあて、片眉をあげた鈴だが、すぐに慌てた陽子の様子に声をたてて笑った。 「もう、しようがないわね。じゃあちょっと見せて。どういう風に結ってるのか、興味があるから」 「それはもういくらでも好きなだけ。そうだ、鈴も結ってもらうといいんじゃない?」 「そうね。でも私はもう何度も実験台になってるから」 「へえ、見たことないな」 「でしょうね。だから『実験台』なのよ」 「ふうん、大変だね」 あまり気持ちの入っていない発言に、鈴が笑い混じりにだが、目を眇めて見せた。視線を結んで数秒、堪え切れずすぐに二人で吹き出す。 「そういえばどこか出かけてたみたいだけど……」 「あ、うん。少し下にね、用事があって。帰りに里子祠に寄ってきたのだけど、帯がずいぶん増えてたわ。何度見ても不思議だけれど、あれはいいものね。みんな誰も本当に親に望まれて生まれてくるなんて、すごくすごくいいことだと思う」 「そうだね。自分もああいう風に生まれるはずだったのかと思うと不思議だけど、私も里子祠は好きだな」 胎果であるからこそ、その想いはいっそう強いのかもしれないと陽子は思う。 里木になる実に抱く気持ちはとても温かく、純粋なものだった。 不思議さと憧憬が、いつも混在している。 蓬莱で生まれ育ち十六年をすごした身は、いまだにどこかでこちらの営みを、御伽噺のように感じている。 すべらかな絹に触れ見つけるかすかな綻びのように、その何ともいえない肌触りのような感覚を、鈴は唯一解してくれる人だった。 皆、誰もひとりひとり違う。けれどその違いが、今は心地よい。 その人としかできない話があることは、ささやかで、とても特別なことだった。 それが日々の中に埋もれてしまうような、単純なことであればあるほど。 鈴の視点から語られる街の様子に耳を傾けて、時折質問を挟む。 仙としての生活が長いにもかかわらず、彼女の視点は宮城の人間ではなく、街に住まう人に近い。 そのやさしいものの見方に気付かれ、励まされる。 誰かのために自分が存在しているのだと識ることが、時折泣きたくなるほど嬉しかった。 その誰かのために、できることをまた、考える。 寂しいという感情を、人がいつ知るのか、はっきりとわからない。 生まれながらに神々から送られた感情の一つなのか、誰かから教えられて知るものなのか。 けれど寂しさを知る人は、だから人にやさしくできるのだろう。 鈴に礼を告げると、彼女は少し緊張した面持ちで話を終えた。 「私も自分の目で見たいんだけど、なかなかそうもいかなくて。余裕ある時間ができればね……」 「そうね、時期的に、もう少ししたら余裕ができるんじゃないかしら。今は無理よね」 ふっと窓の外へ目をやり、鈴はごく自然にそう応えた。 声にも言葉にも、諫める響きはない。 「鈴はいつも、駄目って言わないよね」 頭ごなしに否定しない鈴の発言に気をよくし、陽子はかねてからの思いを口の端に載せた。 すると鈴は意外なことに軽く瞠目し、ついで笑い混じりに溜息を吐き出した。 「駄目って言って聞いてくれるなら言うけど、あなたはそうじゃないから、私は言わないだけよ」 「そうやって手厳しいのも鈴だね。見習わせたいもんだね、あいつに」 「あらあら……あれ、陽子、襟のところがほつれてるみたい。縫ってあげるからちょっと着替えてくれる?」 「いいよ別に悪いし、私は気にならないか……」 「よーうこー?」 その低く重みのある声に抗えるはずもなく、陽子は仕方なく、しぶしぶと席を立った。 「明日には届けてあげるから、ひとまず私のを着ててね」 衝立の陰に押し込まれ、手際よく手渡された替えを受け取って、陽子は声には出さず、そっと苦笑した。 自分だけ、台詞を知らない舞台の中にいることを思い出したからだ。 軽い衣擦れの音と感触を楽しんで、髪を崩さないように注意を払い、背中を正す。 自然とそうさせるだけのものが、その衣装にはあった。 羅(うすもの)を重ねて着る女性らしい衣服に、少し癪だけれど自然と心が浮き立つのがわかる。 「……どう、かな?」 そっと衝立の陰から姿を見せると、鈴の顔に自然と淡い微笑みが浮かんだ。 「結構似合ってるじゃない。私のだけど」 そういう鈴は得意げというよりも、肩の荷が下りたと言わんばかりに、くつろいだ表情をしている。 やはりと思いながら、相好を崩しそうになるのをそしらぬふりでとどめた。 「これ前に、蘭桂の成人のお祝いをした時に着てたものだね。淡い緑の色が黒髪に映えてとっても綺麗だと思ったから、よく憶えてる」 「あ、ありがと。あなたの髪の色にも、よく合ってるわよ?」 言われて、一房結い残された髪に視線を移す。白さの中に淡い緑を溶かし込んだ羅に、赤い髪は花のように鮮やかに、やわらかく流れていた。 借り受けた衣の色や生地の様子は、陽子に自然と自室に彩られたあの花を想起させた。 花が飾られるのは、特別のことではない。 季節を伝え、また目を楽しませるものとして、宮城において花を見ないことの方が少ないだろう。 陽子が何気なく花のある空間はいいものだな、と呟いてから、金波宮ではそれは珍しくない光景となっていた。 花がそこにあるということに、違和を感じることはない。 けれど、特別目にとめることは、だからとても珍しい。 「……ああ、そうだね。まるで花の色みたいだから」 小さな小さな、声なき声に気付いて陽子はくすくすと微笑う。 これで終わりにしてしまっては、意味がなくなる。 けれどそれを口にしては、台無しになるのだろう。 試されているこの状況が、滑稽だけれど、とても温かかった。 陽子はしばしの思案の後、自らの影に目を落とした。そしてそこに身を沈めるものに声をかけた。 「班渠、頼みを聞いてくれるか?」 静かな問いかけに歯切れよく、是と応える声がした。 少しだけ肌寒く感じられる風の吹く、晴天の休日だった。 その風の冷たさはむしろ、今の自分には好ましかった。 昨夜の宵の口のこと、主を護衛させていた使令が二通の書簡を携えて戻ってきた。 一抹の不安を感じながら受け取れば、それは主と主を診察した瘍医から、自分へと向けられたものだった。 目を通して、一瞬、躰が煮えるように熱くなったのを憶えている。 命に関わるような類の怪我ではなかったというが、それは問題ではない。 どこにもぶつけようのない憤りは、当然ある。 けれどそれよりも遙かに心配が勝った。 こうして使令に託すことにより誰かの口から自分が事件を知るより早く、正確な事情を知らせることが彼女なりの精一杯のことだったのだろうと、理解はできる。 わかるから、そこで終わってしまう。 自分から、会いに行くことはかなわないのだと。 この身は、血を厭う麒麟だから。 生死に関わるような怪我だったなら、それも非常時ということでかなったかもしれない。 けれど命にかかわるものでなかったことは、会えない事実よりもずっと安堵をもたらすものだった。 それもまた、事実だった。 休日が終われば、またいつものように過ごせる。 彼女は仙籍に身を置く者だったから、傷は通常の人よりも早く癒える。 同じ宮城の中にいて、ただ一日、会わないこと。それは珍しいことではなかった。 何事もない、穏やかな休日ならば。 そうして浅い眠りに微睡みながらいつもより早く迎えた朝は、躰の内に澱が残っているかのような、どこか濁った感覚を景麒に抱かせた。 自室で静かに過ごしていたが、気付かぬうちに知らず吐息がいくつも唇からこぼれて落ちた。 こんなふうに無為に時が過ぎるのを待つのはどのくらいぶりだろうと、膝に載せた本の頁をめくる。 文章は自然とすり抜け、意味を成さない文字の羅列を追うのにも飽いて、景麒は目を閉じる。 会えないことがわかっているのに、ただ一目、その無事を確認したいと思った。 かなわぬ望みに溜息を一つ落とし、そっと本を閉じる。 永遠に等しい生を与えられた身で、ただ一日がなぜこんなにも長いのか。 水底のように音のない堂室の中で、時折、花が散る気配だけがある。 雨垂れのようにその重さに耐え切れずに落ちていく様は、無意識のうちに目を奪われる力があった。 本来花が散ることは、終焉を意味させる。 それでも目をそむけようとする気がおきないのは何故か、ぼんやりと花枝の置かれた卓子へと足を運ぶ。 その瞬間、憶えのある気配を感じて足を止めた。それと同時に主に追従させていた使令が姿を現わし、素早い動作で花器の傍に何かを置き、消えた。 名を呼ぶ隙もなく、ほんの一瞬の出来事に景麒は足早に花に歩み寄る。 新たに散り落ちた花の下にそっと置かれた紙を、手荒く取り上げた。 もどかしく開けば、そこには見慣れた筆跡で、ただ一言。 『ありがとう』 と、感謝の言葉がひとつ。 ただそれだけで、景麒は堂室を後にした。 Novels [4] [6] 07.03.03 |