美しい人 [6]










秋にうつろう季節に、空に白く舞い飛ぶものがある。
それは小さな花で、黄味を含むやわらかい白さの中に、わずかに緑を溶け込ませた姿は静謐な美しさをもっていた。
濃い緑の草の上に散り落ちた花は、地図の上で見る、知らぬ土地の名のようにどこか不思議な物に感じられた。
庭院の奥にひっそりと存在するその樹の傍に、捜し求めた人はいた。
草の上に腰をおろし、ただじっと気まぐれに散り落ちる花を見上げていた。
やがて人の気配に気付き、驚く様子もなく、彼の人はゆっくりとこちらを向いた。
見慣れない姿に戸惑い、言葉を探しているうちに、彼女は静かに立ち上がった。
そっと開きかけた唇に気付くと、不意に鼓動が跳ね上がった。
「花を、どうもありがとう。嬉しかったよ」
空気をふるわせた声に、何故か息を呑んだ。その声の響きを、余韻すら逃さず、聞き届けようと思ったからかもしれない。
はにかむように微笑んで、彼女はそっと、眼差しを伏せた。
「傷は……」
やっとこぼれた言葉に、彼女は長い袖をまくり、傷があった箇所を示した。
そこには厭うべき血の気配はもはやない。ただ少し深かった傷の痕が、うっすらと残っていた。
けれどそれも明日には、跡形もなく消えるだろう。
「もう大丈夫。心配をかけて悪かった、自分で早く伝えないとと焦って、失敗したことにあとで気付いた。不便だね、人目を気にしなくてはいけないのは。仕方のないことだけど」
こぼれる笑みは、どこか苦い。
それでも、目交いに主がいるその幸福を、声にさえできない。そんな感情を何と呼ぶのか知らない。
けれどもうすべてがよいのだと、心さえ理解している。
「みんなにも、たくさんの『花』をもらったよ」
小さく、けれどとても嬉しそうに微笑みながら、彼女は何通もの書簡を取り出して見せた。それらを宝物のように抱えて、また微笑う。
そこに溶ける感情がどれほど幸福に満ちたものであるのか、何の説明も必要なかった。




書簡は、時に華翰と呼ばれることがある。
自称を示す言葉が数多く存在するのと同じようにまた、手紙を彩る言葉も多く存在する。
けれど今、彼女が手にしている手紙をこれほど美しく彩る言葉は、他になかった。
そこにこめられた気持ちもまた、花のようにやわらかく、彼女の心に寄り添い、なぐさめたのだろう。
こうして向かい合い、沸きいずる想いは、不思議と想像していたもののどれとも違った。
かすかな憤りも、無事を確認した心からの安堵も、当て嵌まるがどうもしっくりと馴染まない。
そうして曖昧な言葉すら見つからず、長いこと無言のまま、景麒は陽子をただ見つめていた。
半身がそうしたことに不得手であることは心得ていたが、あまりに長い沈黙を不審に感じたのか、彼女は小鳥のように小首を傾げた。
結い残した髪が小さく揺れて、細い肩をすべり落ちていく。
それを目にし、無意識の内に笑みがこぼれ、そんな自分に動揺して目を伏せた。
深く足元まで目を落とすと、突然視界の中に花の色が飛び込んで、気付けば緑の双眸が間近くこちらを見上げていた。
















目交いに立ち尽くす半身は、心ここにあらずといった様子でどこか落ち着きがない。
いつにもまして表情は硬く、あまりまっすぐにこちらを見ようとしなかった。
少しづつ話を進めるうちに、ようやく頑なだった表情がほどけてくる。
言葉に堪能ではないことは、よく理解していた。
それでもあまりに長い沈黙に、多少の居づらさを憶えて小首を傾げてみれば、景麒はほんの一瞬、淡く微笑んだ。
意識せずこぼれ落ちた笑みは、次の瞬間には彼自身を驚かせ、視線は唐突に途切れた。
そのやわらかな微笑みが幻だったとは思いたくなくて、気付けば躰が先に動いていた。
嘘ではなかったと確かめたくて、もう一度、見たくて。
そうして間近で、俯いてなお背の高い半身の顔を、まっすぐに見上げた。
「やっと笑ったな。怒ってるんだと思ったから」
「怒ってなど、おりません。ただ……」
景麒は戸惑いながらも、今度は陽子から、目を、逸らさなかった。
「ご無事でよかったと、思うだけです」
声は小さく、けれど歯切れよく、彼の唇からこぼれ落ちた。
「ありがとう……気を付けなければいけないなって思った、仙であるって感覚に」
小さな過ちを苦く思いながら、反省の意を込めて、陽子は己の慢心を告白する。
「あなたは無茶をしすぎます。仙でなければ、とても身が持たない」
「うん、そうだね……あのね、景麒、ひとつ応えてくれ。仙であることは、どうしても下界に生きる人々とは違う生き方になるだろう? それは、一体何が違うんだと思う?」
先程もした質問を、景麒にも問いかける。
案の定景麒は言葉につまり、気負いなく応えを待つ陽子を、少し困った様子で見返していた。
逆に問い返すような沈黙に苦笑して、陽子は気分を切り替えるに、すっと、息を吸った。
何かしらの応えが、欲しかったわけではなかったから。
「同じことを、蘭桂にも聞いたんだ。蘭桂はね、長く生きる分だけ、人よりも多くの苦楽があるだけだって言ってたよ」
「それはとても……蘭桂らしい応えかと……」
「そうだね、何だか肩の力が抜けて、そしてすごく嬉しかったんだ、うまく説明できないけど」
この感覚を、とても、言葉にはできない。けれどあの一言で、何かに許された気がした。
自分は決して特別な存在ではありはしないのだと、そう知ることがどれだけ嬉しいか他の人にはきっとわからないだろう。
身分や年齢や性別、そうした隔たりを越えて確かに存在する繋がりを、これほど嬉しく想うことは、あちらにいた時にはなかった。
大切だと想う人がいるからこそ、知りたいと願う。 自分が、異質な存在でありはしないのだろうかと。
そんな不安を、杞憂と思わせてくれる人々といることは、なんと暖かい日々だろうかと。
だから傍にいてくれる人たちを、とても美しいと思う。




花の季節も、もうじきに終わる。
さわさわと、どこか落ち着かない気持ちになるのは仕方のないことだ。
けれどまた来年、同じ場所で、同じ樹に、同じ花が咲く。 何事の、不思議もなく。
「花の名は……」
ぽつりとこぼれた独白に、景麒は長い睫毛をふるわせた。主のささやかな問いに、花の名を告げる。
「……ですが、この名で呼ばれることは少ない。桂女、などと呼ばれることが多いようです」
ひそやかな声は、花の名のような清涼な響きを含んでいた。
「そうか、私もその名の方がいいと思う」
半身を見上げて、陽子は自然と相好を崩す。
その名が、美しいからではない。そう呼ぶ人の心が、愛しくて尊いから。
結ばれた眼差しは、深い慈愛に満ちて、やさしい。
伸ばされた手が、無事を確かめるようにそっと、遠慮を含んで肩に触れる。
額から鼻梁をかすめて花びらが頬に口接けていき、そのかすかな感触に陽子は目を閉じた。
感じた香りは仄かで、どこか懐かしくて、安堵した。










Novels  [5]










たくさんの人たちを書くことができて、とても楽しかったです。
年年歳歳相花似たり、歳歳年々人同じからずといいますが、だからこそ愛おしい日々があるんだなあと再確認したりしました。
花が咲いたり散ったりするのを、待ち望んだり惜しんだりする心を、忙しくても悲しくても、絶対に失くしたくないなと思います。
作中の花は仮想上のもので、咲く様子は沈丁花やオオデマリを参考に、花自体は木の花(コノハナ)桜を思い浮かべて書いていました。八重桜に似ていますが花の色は白に近く、でも少し控えめな感じで、清楚で可憐な印象の桜の花です。
『桂女』はそもそもさまざまな意味を持つ言葉ですが、花嫁の供をする女性、の意を借りて、作品の中で二人の手助けをしてくれることから、この名前を使わせてもらいました。楽しんで頂けたなら幸いです。










07.03.17