美しい人 [4]










陽子は人目を避けるようにして庭院の奥へと足を運んだ。
人気の絶えた、庭院の奥まった場所に、そこはある。
ひっそりと、澄んだ水を湛える泉のほとり。水墨画の景色の中かと見まがうような、龍の背に似た曲線の幹を持つ松の林の中。
人の手が加えられることのない木々や泉は王宮らしくない野味を持ち、息抜きの場所としては最高の隠れ家だった。
元々ここは遠甫から享受された場所だったので、陽子には浩瀚の望むように、遠甫を探し出すことに何の苦もなかった。
そうした場所のいくつかを、随分と昔から陽子は遠甫と共有していた。
けれど不思議とそうした場所で、遠甫と顔を合わせることはなかった。
それが遠甫の優しさなのだろうと、陽子はその無言の慰めをありがたく思っていた。
「遠甫」
汀に腰を下ろし、一人佇む人に陽子はそっと、声をかけた。
呼びかけが自分に向けられたものだとわからなかったように、かなりの間を置いて、老人はゆっくりとこちらを振り返った。
「どうしたね、陽子。今日は忙しいのではないかな」
静かに返される声に、陽子は足早に遠甫へと歩み寄った。
「お陰さまで大わらわです。浩瀚に頼まれて、遠甫を探しに来ました」
「そうかの、では行くとしようか」
始めから予定されていたことのように、遠甫は竿をあげ、汀に配された巨岩の上でゆっくりと立ち上がった。
動きに合わせて揺れた針が光を反射し、その眩しさにわずかに目を細めたものの、同時にそこに視線を吸い寄せられた。
「反しのない針で釣り、ですか?」
風流なことだと存外に含め、陽子は微笑む。
太公望、という名が同時に思い浮かんだ。風貌といい、その見識の深さといい、まさに遠甫にはうってつけだった。
単純な連想だが、あまりにはまりすぎていて少しおかしかった。
陽子の問いかけに、遠甫は皮肉を返すように肩にかけた釣竿を少し揺らした。
「これはの、ちょっとした言い訳の小道具にすぎん。何、古い知り合いと語らっていただけでな」
その言葉に、陽子は何気なく泉を振り返った。
けれど人の姿も気配もなく、自分がここを尋ね来る前にその人物は去ったのだろうと納得し、視線を戻した。
何気なく遠甫へ顔を向ければ、老人は秋の葉のような深い双眸を、いわくありげに細めてみせた。
「いずれ縁があれば、陽子も逢うことがあるやもしれんな」
「ここでまだ、誰とも鉢合わせたことはないですが」
「陽子、そういうことではないのだよ。もう、夏も終わるからの」
「……ええと……つまり、決定権は向こう側にある、と……?」
やや自信なく呟くと、遠甫は見事に白い髭を撫で、一度だけ頷いた。
「儂にも、なぜ、あれと儂が縁を結んだのかどうにもわからぬ。普通に生きる只人が出逢うようなものではないからの」
昔の失敗を思い出すように、どこか苦味を含んだ笑みに遠甫が歩んできた年月の長さを感じた。
同時に、まだまみえぬ相手に、かすかな畏怖を憶えた。何かの審判を下されるような、そんな気がしたからだ。
この会話のどこを切り取っても、その相手が尋常のものであるとはとても思えなかった。
「その相手とは、遠甫が仙でなければ逢うことはなかったのですか?」
意識せず思わずこぼれた問いに、陽子はふっと口をつぐんだ。
それをいつもと変わらぬ様子で受け止め、遠甫は一瞬立ち止まり、泉を一瞥した。
「あるいは、そうかも知れぬ。けれど儂は、その時の、運命のはずみのようなものだったと思うておる。悪意のあるものではないから、そう構えることはない。そう、あれはどこか、台輔に似ておるよ」
思いかけない半身の名に、無意識に怪我を負った自らの腕に目を走らせた。
もう治った筈の傷口が、じくりと疼いた気がした。
「景麒に、ですか。それは、随分と気難し屋なようですね」
「そうさな、生真面目ではあるかの」
「ああそれは……」
笑みが込み上げて、それは押さえ切れずに唇からこぼれて落ちた。
「逢ってみたいような、逢いたくないような……遠甫、一つ、お訊ねしてもよろしいですか?」
「何かな」
思慮深い目を弓のように細め、遠甫は陽子を見据えた。
どちらともなく歩を止め、向かい合う。
「寿命を越えて生きるということは、そうでなかった時と決定的に、何が違うのでしょう?」
仙籍に入り、年経ることない己を自覚した時から、何度となく考えては結実を見ない問いだった。
年経ない身を得て、すでに久しい。それでもまだ、人の枠を越えるほど、年を重ねてはいない。
聞く者によっては、ひやりとするような危うさを孕んだ問いかけだった。
けれど陽子は、純粋な疑問としてそれを口の端に載せた。
虹はなぜ七色に見えるのだろうかと、子供が人に問うような気安さで。
自分が生きることに飽くほど齢を重ねることなどまだ、想像も出来なかった。
遠甫は黙したままやがて人好きのする懐こい笑みを浮かべると、小さく首を横に振った。
「さてさて、陽子は面白い考えに取り付かれておるようだの。それは儂ではなく、もっと年若い者に訊ねるのがよかろう。さあ、ついて来なさい」
「え? あ、はい」
老人の痩せて、けれど威風堂々とした背中に逆らえぬものを感じて、陽子は応えをもらえぬまま、その背を追った。
















どこへ連れて行かれるのだろうかと、ぼんやり思っていた陽子が連れられてきたのは、浩瀚の元だった。
けれど陽子と遠甫を出迎えたのは、浩瀚の他にもう一人いた。
遠甫が言ったように、陽子よりもずっと年若い青年がそこにはいて、陽子を見ると子供のように破顔した。
「どうぞ」
そう言って無駄のない所作で茶を淹れてくれた青年に礼をいい、陽子は熱い茶を口元に運んだ。
お茶から自然と立ち上る甘い花の香りが、やさしく鼻腔を満たした。
「いい香りだ、金木犀の花の香りがする」
「向こうではそう呼ぶの? こっちでは、桂花って呼ばれてる。綺麗な花っていう意味だよ。だからよく女の子の字に使われるんだ」
「ああ、玉葉の玉と似たようなものなんだね。桂……蘭桂。そういえば、あなたの名前の中にも一字あるね」
うっかり子供時代の名残りのままの名を口にしかけ、陽子はばつの悪さから少し大げさに微笑んだ。
けれど蘭桂は苦笑するだけにとどめ、陽子の茶杯に新たに花の香りのする茶を継ぎ足した。
大きな玻璃の窓から差し込む光は蜜色の陽だまりを作り、堂室の中をどこか懐かしい思い出の中に誘い込むようなやさしい雰囲気が漂っていた。
今の季節にはない花の香りも、そんな気分にさせるひとつかもしれなかった。
ふいに気付く花の香りが、季節のものではないと思い至れば、それはひどく特別な気分にさせてくれた。
なぜここに蘭桂が浩瀚とともにいるのか普段なら訊ねるところだが、その疑問に気付かぬふりを決め込んで、陽子は他愛ない話を楽しんだ。
浩瀚も遠甫も知識が豊富で、話の接ぎ穂がなくなることもない。
蘭桂はいるだけで、その場の空気を和ませる。
祥瓊や鈴と共にいる時とは違い、だがここも、陽子にとって心地よい空間だった。
「なあ、事の発案者って、結局誰なんだ?」
「これは異なことを。偶然が重なっただけでございますよ。王とその近しい官吏が休日を同じくするのは、さほど珍しいことではないでしょう」
「まあね。それで?」
「それで、とは?」
生真面目に問い返され、陽子は返答に困って茶杯に目を落とした。
何か、と話題を探して、最初に話すはずだった命題をふと思い出す。
顔をあげると、温和な微笑を湛える浩瀚と目が合った。
遠甫の言を思い起こし、視線を浩瀚から遠甫へ移すと、遠甫は茶菓に手を伸ばしている蘭桂に、そっと目をやった。
不思議そうに目を細めた浩瀚に、陽子は唇に人差し指を押し当てて見せ、蘭桂の名を呼んだ。
顔をあげた蘭桂と、ゆったりと視線を結ぶ。そして、そっと息を吸った。
「ねえ蘭桂。仙になり、老いもせずに寿命を越えて生きるって、普通に生きるのとは違うよね。何が、決定的に違ってしまうんだと思う?」
先程と同じように、何の気負いもなく、陽子は蘭桂に訊いた。
誰かが、小さく息を呑む気配が感じられた。
陽子はきょとんとする蘭桂に重ねて微笑み、ただ、彼の応えだけを待った。
蘭桂は手にした菓子を皿に戻し、小さく、そうだなあと呟くとゆっくりと瞬きをした。
数秒、とても静かな間が堂室に流れたあと、蘭桂は朗らかな笑顔で口火を切った。
いつものまま、陽子のよく知る、やわらかい笑顔で。
わずかな緊張が、それだけで簡単に溶けて消える。
「そうだね……僕はね陽子、長く生きる分だけ普通の人よりも、たくさんの苦楽があるっていうことなんじゃないかって思うな」
翳りのない蘭桂の表情につられて、陽子の気持ちは自然と和らいだ。
人の枠を越えて生きることは特別ではあるけれど、人でなくなることではないのだと蘭桂は言った。
それが陽子には、単純に嬉しかった。
少なくとも蘭桂がそう思っていることが、陽子には大切だった。
「そっか。そうだね。ありがとう、蘭桂」
「どうしたの、変な陽子。そうだ、遠甫と浩瀚さまはどう思われますか?」
無邪気に矛先を向けられて、浩瀚は苦笑まじりに然もありなん、とだけ呟いた。
遠甫はゆるく頷くだけで、何も応えなかった。
腑に落ちない様子の蘭桂に菓子をすすめ、陽子は蜜色の空間の中で、新しく茶を淹れ直した。




陽の傾きを確かめて、蘭桂はそろそろ帰ってきたかなと独白し、一通の書簡を取り出した。
恐らくこれが自分宛の最後の書簡だろうと思いながら、陽子はそれを紐解いた。
綴られた字は、決して達筆ではない。けれど親しみやすく読みやすい、女性の字だった。
その人の人柄がそこに見て取れる素直な筆跡で、よかったら訪ねて来て欲しいと短く書いてあり、その懐かしい日本語の響きにどこかくすぐったいような気持ちを憶えて、陽子は招かれた部屋を後にした。










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07.02.24