あかく咲く [4]










万事は秘密裏に、けれど陽子をはじめ鈴や祥瓊が願ったように事態は進められた。
















闇夜に人目を忍び訪れた病床で、どちらともなく、手が触れ合った。
血の穢れに当てられた景麒の手は熱く、そっと身を引こうとした陽子はその腕に囚われ、気付いた頃には逃れられなくなっていた。
いつもとは違う抱きしめる躰の熱と、強く弱く、時に性急に交わされる口接けに現実はゆるやかに融解していった。
















帯の解かれる感覚に俄かに現実に引き戻され、無意識に肩に力がこもる。
それを察して、景麒は細く残された灯火に目を向けた。
陽子はひどく重いものを持ち上げるようにして腕をあげ、景麒の頬に、熱くなった自分の手をあてた。
ゆるく首を横に振ると、彼は僅かに目を瞠り、触れた手を大きな手で包み込んだ。
もう片方の手を差し伸べると、景麒は図り難い色を表情に滲ませた。
同じような困惑を唇に浮かせたまま、陽子は返答に、小さく頷いた。
揺れる灯火の小さな光は、彼の表情を淡く映し出していた。
目を伏せ、もう一度頷くと、差し出した手に指が絡み、温かな躰が重ねられた。
その重みを抱きしめて、絡められた指を強く、握り返した。
重ねた肌から体温が交じり合い、肌の上を辿る指先に、内側から新しい熱が生まれて、何かを考えることがひどく難しくなる。
感覚を追うことだけで、精一杯だった。
与えられるものに素直に反応する様に、触れる指も唇も、止むことがない。
仄かな暗闇の中、たとえ何も見えなくても、怖くはなかった。
ゆっくりと目を開けると、彼はわずかに目を逸らして、唇を塞いだ。




温かい湯の中で溺れているのと、少し似ていた。 強く、弱く揺さぶられて、次第に息があがる。
鋭敏になる躰に、自制の箍が外れていく。 背中を走る、一瞬の感触が自分を自分でないものにする。
手を伸ばせば、欲しいものは手に入る。その望みを振り切ることは、ただでさえ、難しかった。
耳元で囁かれた言葉さえ認識ができなくなり、硬く目を閉じる。
思わず声をあげかけて、再び目を開ける。
切れ切れの上擦った声で、抱きしめる相手の名を呼んだ。
結びついたまま絡み合い、止めようもなく、深間へと導かれていく。
飲み込まれていくような大きな陶酔の中で、最後に耳にしたのは何であったかは判然としなかった。
呼吸と拍動が和するようにゆるやかな律動を取り戻し、すべてを終え見つめ合った時、景麒はそこへ当惑を滲ませ、容よい首を傾けて、陽子の眦へと唇を寄せた。
耳元へとすべり落ちていくやわらかな唇に、やっと自分が泣いていたことを知る。
何に泣くのかと、熱にかすれた声が、困惑を露わに問いかけた。
問う方にも、問われる方にも明確な理由は見当たらず、陽子はただ素直に応えを口にしようとして、思いがけない驚きに大きく息を飲み込んだ。
感じたまま応えようとした瞬間、胸中に凝っていたものが予期せずに溢れ出し、新たな涙が流れて落ちた。




愛されていることを、初めから知っていた。
凄絶と存在する麒麟の性とかつて失われた人と、彼がこの世界のために存在する人であることを忘れるのは、難しかった。
たとえ、どんなに愛しくとも。
けれどどんな状況でさえ、それさえも幸福だったのだと。
温かい水の中で育まれたものが、今、産声を上げていた。
胸の奥で凝った澱を押し流すように涙がとめどなくこぼれ、嗚咽に喉が震えた。
ぎこちなく伸ばされた腕が陽子に触れる直前、わずかに躊躇を見せた。
気配を察し、陽子が嗚咽を殺したのに気付くと、それまでのためらいとはまるで逆に強引とも呼べる力で腕の中に引き寄せ、抱きしめた。
躰の奥が軋むような痛みに、声にならない吐息がこぼれた。
緩むことのない力に縋るものを欲して、自由を許された右手で、景麒の背中を抱き込んだ。
浅い呼吸を繰り返し、きつく重ねられた肌越しに、己の鼓動と相手の鼓動が追いかけあうようにして響いていた。
それは温かく、陽子を守っていた。
戸惑いから抜け出した陽子は、その腕の中でゆっくりと緊張をほどいた。
彼は、守ろうとしていた。陽子を苛む、すべての災厄から。
いつでもそうして、身を挺して守りたかったのだと、包むように蔽われて、やっと気付いた。
そうしてやわらかく預けられた躰に、ようやく景麒は力を緩め、そっと身を起こした。
蜜色の細い灯りの中で、向けられる双眸が不安を映して揺れている。
それはまた、自分自身の鏡でもあった。
手を伸ばし、乱れた髪を耳の後ろへ掬い上げ、陽子はごく自然に微笑した。
そんな顔をしないで、と、続きは触れた唇に飲み込まれて消えた。
小鳥が歌を口ずさむように、触れては離れ、消えていく筈だった熱を、甘く呼び覚ます。
ことことと、躰の内側で、早くなる鼓動の音がする。
それでなくとも、夜は音を飲み込む。
夜陰に溶けきらず、耳に届く音は衣擦れでさえひどく正確に聞こえた。
唐突に小さく肩を震わせると、それに気付いた相手の動きが止まった。
「鳥の声が……」
世界が闇に溶ける夜の中、何にも濁らずに徹る鳥の声。
指に絡む力が、痛いほど、強くなる。
気配が動いて、耳元にそっと、静かな声が忍び込んだ。
「……夜を生きる鳥は、存在します。夜明けは、いまだ遠い」
ゆるやかに身の裡に溶け込んだ声は、あの夜と同じ。
言葉にはし難い感情が、刹那によみがえる。
いつまでも解けない氷のように、たとえるならそれは恐らく、悲しみと喜びの間にあるものだと。
ひどく曖昧で、けれどどちらをも内包する感情が、確かにここには存在する。
絡ませた指をほどき、陽子はその手を景麒の頬に触れさせ、視線を結ぶとひどくゆっくりと唇の端へ自らの唇を寄せた。
鼻梁を辿り、額へ。そのまま閉じた目蓋へと口接けを落とす。
唇は眦へとたどり、頬へ。
そうして唇へ、長くとどまった。
肌を灼くような熱が生まれて、きつく目を閉じれば、望んだ夜の中へ溺れていく。
重ねられた肌の熱さ、重みに思考が融解していく。
この夜が明けなければいいと、その想いは一筋こぼれた涙に溶けて消える。
それを掬い上げたしなやかな指の感触を最後に、意識は次第に深い微睡みの中へ沈み込んでいった。
夜はいつものように、その衣の中に一切を蔽い隠した。
















すべてが正式に終わった日、陽子の手元には、飾り気ない黒塗りの手箱があった。
それを手に、彼女は身一つで下界へと降りた。
その傍には、景麒の姿もあった。
交わされる言葉もなく、人里離れた地へと降り立った陽子は手箱を地面に置くと油をかけ、火を放った。
燃え上がる炎の熱気に、景麒は火の傍に立ち尽くす陽子をその場から遠ざけた。
優しい抱擁の中で、陽子の躰はずっと強張ったまま、その目は赤々と燃える炎へと向けられていた。
炎は色めき、時折濃い橙の中に、緑や青が幻のように現われては消えた。
それはわずかな金属や装飾に施された、薬品に反応してのことだった。
名前すら口の端にのぼらぬ娘たちの持ち物は、知れている。
炎は、とても綺麗なのに、ひどく悲しい色をしていた。
すべてが黒く、燃え尽きるまでに長い時間はかからなかった。
灰の色を含んだ乳白色の煙の中に、時折、火の子が爆ぜる音が虚しく響いた。
「こんなことをしても、何もなかったことにはならない」
できるのは、知らない振りをするだけだと抑揚なく呟いた陽子を、景麒はただ、腕の中に抱き込んだ。
「もう、こんなことは起こりません」
もう、二度と、と迷いない声が、耳に忍び込んだ。






       この世にたったひとつ、私を繋ぎとめるもの。






陽子は腕を伸ばし、広い背中を抱きとめた。






      どうかあと少しだけ、私のためにこの腕があることを望む愚かさを、見逃してほしい。






すべてを秘密に、小さな箱に閉じ込めて消した。
すべてが、灰に消えた。それでも       






「雨の、気配がします」
なぜか胸中を見透かされた気がして、反射的に肩が震えた。
「早晩、雨が降るでしょう」
「……そうか」
小さく気息を整えると、陽子は顔をあげた。静かに見下ろす紫の双眸を見上げて、そっと微笑う。
「大丈夫だから」
綺麗に微笑えただろうかと、彼の眸を覗き込む。
応えを見つける前に、視界が翳った。
大きな手がそっと頭を包み込み、胸の中へ閉じ込められる。
それはゆるやかな獄舎の檻か、庇護の翼か。
温かな鼓動を頬に感じて、陽子は息をつく。
標のない未来を、越えて生きなければならない。
その先には、この手がある。この手がいつも、残酷な生の意味を教えるのだと。




胸に湧き上がった言葉をそっと、唇に載せる。
一瞬だけ、彼の気配が揺るぐ。
遅れて長い髪が肩から滑り落ちる気配がして、そっと、額が合わさった。
陽子はゆっくりと、目蓋を閉じた。
小鳥の卵を手に取るような繊細さで唇が近付いて、陽子の唇に吐息だけ、体温の名残りに触れ、受け取っていった。
それが、彼の応えだった。










Novels  [3]










タイトルは、私の敬愛する漫画家、緑川ゆきの初期代表作から借り受けました。
書き始めたのが2005/12/3だったので、完成まで約二年かかったようです。
ということに今更気付いて愕然としました。
こういった犯罪が自分が被害者かというくらいに何故か強い嫌悪感があって、途中辛くて何度も投げ出したくなりましたが、無事に終えられて安堵しています。


作中陽子が引用した戯曲は、誰もが知る悲劇の名作、ロミオとジュリエットより。


『愛してる』という言葉は耳に心地いいですが、あまりに広義的すぎて、時に『さよなら』の代わりにもなります。
二人だけにしか通じない愛の言葉はないものか、と模索したのがきっかけでした。
どんな美しい愛の言葉も人が聞いたら滑稽だ、と仰る方がおりますが、私は他人が聞くからこそ、より美しく聞こえるのではなかろうか、と感じます。










07.12.01