蝶の栖 [2] あっけないほどの一瞬で、腕の中の人は意識を手放した。 預けられた体は小さく、温かい。しばらくして、かすかな身じろぎのあと、彼女は鈍い動作で体を反転させた。 眩しそうに目を瞬いて、不思議そうにこちらを見つめている。 目覚めには早いと訝ると、眠気を振り切るように目を擦り、赤い目を潤ませている。 「景麒、呼んだ……?」 気だるい声音に、景麒は逡巡する。 けれどひそやかに、彼女の問いに肯定した。 眦にあふれた涙を掬い上げると、陽子は困惑とも微笑ともつかない表情をして、目を細めた。 潤んだ目に、空から降る、光が滲んで映る。 ややあって、肩を震わせて、彼女は堪えきれずに笑った。 そっとあわせた額から、漣のような笑い声が身の裡に響いて共有する感覚が、心地よかった。 ひとしきり笑うと、噛み殺した欠伸がひとつ。 「だめだ、タイミングを逃した、もう寝られないよ……どうしてくれるんだ……」 忍び笑う声に、抗議が入り混じる。 「私の責だと?」 「わからない、眠い……」 ごねる響きを封じるようにして、口唇をさらう。 ふさぎそこなった声が短く洩れたが、緩慢な反応が示されて、力ない指先が襟元に滑り、肌に触れた。 思いがけず触れたのか、驚くほど機敏な動きで離れる。 訝しんで咄嗟に目をあわせると、彼女の顔にはあきらかな狼狽が見てとれた。 視線を避け、身をよじって背を向けようとするのを止める。 それでも小さな抵抗を示すのを抱き込んでしまうと、観念したらしく、躰の力を抜いた。 顔は、よく見えない。 わずかに見える頬は、血の温もりを透かして急速に薄紅に染まった。 「……眠ってしまおうと、思ったのに……」 くぐもった声は非難の響きが強いが独白めいていて、この奇妙な行動を如実に現していた。 見事に騙された、と気付くのは刹那。 危うい駆け引きをあっさりと退けたと、信じ込ませた後にこの不調和。 だが彼女自身、そのような意図はなかったと容易にわかる。 嘘も駆け引きもなく、ただ、動揺に己の真実を口にしただけ。 読み間違えたのは、単純に迷いがあったからだった。自らの裡に。 そして彼女の裡にも。 今もそれは、匂やかに息づいていた。 こんなに傍にいるのに、距離をおこうと考えるのは、何が留めているのだろう。 薄紅は頬からあざやかに広がって、襟元からのぞく素肌をも染め上げている。 誘惑は、くらむようにつよく、薫る。 温かな血のめぐる細い首筋へと、唇をよせる。 あえかな線をたどり落ちていくと、震えた体がゆるやかに仰け反り、ゆっくりと顔を上げると、彼女と視線が絡み合った。 緑の双眸が閉じられ、ゆっくりと吐息が唇をなぞり、それはあっという間に息をつめるような深い口づけに変じた。 次第に鋭くなっていく感覚とは真逆に醒めきらない意識のせいで、思考の感覚がどこかおぼろげだった。 与え合う熱は境界を失くし、もどかしく触れ合った素肌に、肌が粟立った。 抱きとめた体のその確かさに、忘れていたものをあらたに知るように、ただ求めた。 どちらともなく触れるうちに、形勢が反転する。 温かな手が肌を撫で、やわらかな舌が驚くような正確さで弱い場所を探り当て、翻弄される。 抗うにも力が入らず、ささやかな抵抗にしがむ手に、大きな手が被さった。 堪え切れずこぼれる声さえすべて飲み干されて、呼吸さえままならない。 それでも熱のともった体は、その出口を求めていた。 均整の取れた体を指先でさぐり、時折抑えきれず現れる反応に導かれて、ゆっくりと下っていく。 生み出された熱をすべて収斂したような熱さに触れて、もっと、と滑り降りていった。 首筋に、痛みにも似た感覚が走る。 肩口に唇を強く押し当てて、彼は体を強張らせ、息をつめた。 常にない様子に気を引かれていると、無防備な場処へ、何の抵抗なく指先が忍び込んだ。 悲鳴のような甘い細い声が、かぼそく喉から絞り出される。 探り合い、求め合って、与えたいと願うのは同じだった。 うすく開いた唇を咄嗟に噛み、きつく目を閉じた。 踏み留まろうとする意思と、それを退けようとする気持ちの合間で、気が狂いそうになる。 けれど些細な抵抗も意味なく、過敏になりすぎた肌への接触が新たな感覚を呼び覚まし、やがてとめようのない波のなかへと引き込まれて押し上げられる。 息が止まるような強い口づけの中でもがいて、解放される頃には痺れを引く気だるさと、ほんの少しの後ろめたさに襲われて、ただついばむような口づけを返した。 やさしく、時に性急に幾度も繰り返しながら、やむことなく肌をたどる手が、膝裏に差し入れられる。 ようやく委ねられる体の重みに、思わず吐息がこぼれて落ちた。 やわらかく潤んだ体は易々と、滑り込んだ熱を呑み込んだ。 わずかな余白をすべて埋めようとするように、深く結びついたまま、目に映る空が青や緑に変わる。 不規則に刻まれる律動に意識の枠が融解し、たちまち限界近くまで追い詰められては息継ぎを与えられ、弱々しく震えるしかなかった。 知り抜かれていることが、口惜しく、背徳を掻き立てられる。 支えられているにも係わらず、彼の胸の上に崩れ落ちて、鼓動に耳を寄せた。 温かい血の拍動に舌先をなぞらせるうちに揺り動かされ、波間へと引き戻される。 すがるものを探して空を泳ぐ手に指が絡み、その痛みを伴なうほどの確かさに、安堵する。 天地はめぐって、組み替えられ、世界の輪郭を曖昧にし、甘く揺らぐ二人だけの旋律が、ここではないどこか遠い場所へとさらっていき、出口を求める熱は飽和して長く余韻を引き摺った。 重たげな瞬きを繰り返す彼女は、今にも眠りの淵を滑り落ちていくような様子で腕の中にまどろんでいた。 けれど眠れないといった言葉が呪縛となっているかのように、ぎりぎりの淵で意識を保っているようだった。 やわらかく抱擁している躰は、高い熱を失わず、温かい。 抱いている、こちらの眠気を誘うほどに。 心地よい気だるさと、この温かさに抗うのは存外、気力のいることだった。 眠ってしまえばいいと囁くと、弱く頭を振って、陽子はそれを受け入れなかった。 腕の中に大人しく寄り添い、ただ、酩酊のなかを行きつ戻りつしているらしかった。 眠れないのか、眠らないのか、判別はつかない。 まどろみ続ける彼女の乱れた髪を掬い上げ、指で梳く。 思いがけなく指先が素肌をかすめると、肩がゆれ、高い声が洩れた。 甘い声音に虚をつかれ、鼓動が跳ねた。 緩慢に繰り返される瞬きの合間から、自然と視線が引き合う。 涙に潤む目は、緑の濃さを増す。まるで初夏の木の葉のような艶やかさだった。 熱を孕む目蓋に口づけを落とし、もう一度大丈夫だと告げる。 それに呼応して、濡れた睫毛が物憂げにふるえる。 彼女は是か非かわかないほど、弱く首を振った。 静寂の中を分け入るかすかな蝶の羽音が、空気を揺らす。 散る花びらのように、陸離と跳ね飛んでやがてその蝶は赤い髪の上に羽を休めた。 豊かにうねる髪を花と見紛えたのか、飛び立つ様子もなく止まっている。 動きを止めた蝶はまるで髪飾りのように彼女を彩っていた。 不意に、陽子が頭を揺らす。 その振動で、蝶は一瞬のうちに飛び去った。 高く飛び上がっていく軌跡を追い、陽子へと視線を戻す。 「そんなに、見るな……気になって、わたしの気が休まらない……」 独白しているかのように、皮肉に唇を尖らせながらも苦笑に肩を震わせる。 重たげに瞬きは繰り返され、眼差しはまた、ゆるゆると揺れる。 苦笑を残す唇に、ただ惹かれて唇を寄せる。僅かの間があって、甘やかな反応が返ってくる。 けれど、それは長くは続かなかった。 やわらかく抱き寄せた体はやがてくったりと力を失い、閉じられた目蓋から、どうにかとどめていた筈の涙がほろほろと落ちた。 その透明な滴に唇を寄せ、穏やかな気持ちで小さく微笑む。 それは、彼女自身はめったに目にすることのない、微笑みだった。 目にしたならきっと、瞠目して、うっすらと頬を染めてうつむくだろう。 そんな恐ろしく、艶やかな微笑みだった。 Novels [1] 蝶の栖R版でした。 寝かせすぎました。言い訳のしようもございません。 これも本当はバレンタインにあげたかった。 なぜかというと、もともとタイトルが『蝶の栖』ではなくて『蝶々とチョコレート』だったので。 まあタイトル変えてしまったので意味ないといえば意味ない。 しかしその名残で(?)糖度高めの仕様になっております。 蝶の栖は『す』でも『すみか』でも可です。長野まゆみの鳩の栖から。 こちらはすみかと読みます。 2015.02.18 |