蝶の栖 [1] 産声をあげるよりも遙か前から、一人でいることは皆無に等しかった。 誰かが傍にいることを不自然だと感じたこともなく、一人の時間を好むことが多かったが、人が傍にいることを、格別意識することもなかった。 他人といることを居心地悪く感じたり、一人でいることに、時折とてつもない不安にかられたりするなど、考えもしないことだった。 彼女に、出会うまでは。 玻璃の温室の中で花が、つよく薫っていた。 蜜色の陽だまりには、すべてを蕩かす魔力がある。 体温にも似た温もりに包まれ、現実と泡沫をゆっくりと行き来する。 次第にその境が曖昧となり、区別する意識さえ、淡いのなかに溶け込んで消えていく。 そうしてわずかな感覚だけが、きれぎれに残る。 甘い花の匂い、舞い散る葉のような蝶の気配、緩やかな空気の流れ。 一瞬だけ、体を包む熱が高くなり、深い、濃密な花の香りを感じた。 けれど意識は泥に埋もれてもがくようにそこから抜け出せず、次第に現実から遠ざかっていく。 眠りに落ち、目覚めるまではわずかの空白でしかない不思議を感じながら、どこまでも引き摺られるような睡魔を振り切って、ぼんやりと目蓋を持ち上げる。 途端、飛び込んでくる光の波に目を眇めた。 緩慢な瞬きを繰り返し、次第に馴染んでくる風景に、ゆっくりと現実を取り戻していく。 陽を含んだやわらかな空気を、蝶の羽根が滑らかに躍らせる。 それは忘れかけていた、濃密な花の薫りをゆるやかに揺り起こしていった。 いまだ不安定な意識に伴なうように、鈍く腕を持ち上げた途端、視界の端にほろほろと白いものがこぼれて落ちた。 雪だろうか、と反射的に思う。 けれどこの暖かさにその連想は、不自然なほど似つかわしくない。 座した膝の上に留まったそれを拾い上げて、間近に確認する。 雪と見紛ったそれは、純白の小さな花片だった。 雫のような小さな花から、ひそやかに甘く、蜜が匂う。 よく馴染んだ花の薫りに他愛のない記憶が鮮やかに蘇って、ようやく意思と現実が結びついた。 軽く腕を持ち上げれば、花がはらはらと落下していく。 浅い眠りに微睡んでいる所に、頭から花を振りかけられたらしかった。 滑稽だが、それ以外の説明がつかない。 そして、そんな事をするのも出来るのも、ただ一人しかいない。 僅かに残る気だるさを降り払い、ゆっくりと立ち上がった。 花が衣を滑り落ちていく静謐な白さが、ひそやかな秘密を囁いているようだった。 風を孕んだ豊かな髪が、鳥の翼のように空に広がる。 何度見てもその鮮やかさに、目を奪われた。 陽を反射する、水面の光。 初夏の木立の柔らかな緑のさざめき。 無音の中に散る、雪のひとひら。 暖かな季節に、一斉につぼみをひらく花々の姿。 幾度繰り返しても色褪せない情景と同じものが、そこにはあった。 長い髪を風に遊ばせて、草むらの中に腰を下ろしている。 彼女の傍近く、気の置けない者たちだけが知る背中を見つけて、知らず安堵の息が洩れた。 奥まった場所ゆえに人の手の入らない野放図な庭は、奥津城のように長閑で、陽の光に満ちていた。 彼女が好む安息の地はどこも人の気配が絶えて久しく、けれど人があった痕跡がどこかに宿っている。 そのことに気付くのに、随分と長い時間を要した。 緩やかな風が背後から吹き抜けて、彼女の髪を揺らす。 吹きぬけていく風に、花の匂いが強くなる。 眼前の丸まっていた背が急に伸びて、彼女は後ろを振り返った。 その唇には、うっすらと笑みが浮かんでいる。 「花の匂いがする……」 言葉を発する間に、さらに笑みが深くなる。堪えきれない笑みは語尾を揺らし、続く声を濁らせた。 予想していた反応だったが、改めて現実のものとなると、景麒の唇からはただ、溜息がこぼれて落ちた。 優美な所作で隣に腰を下ろした景麒からは、よく馴染んだ花の薫りがした。 「あなたは……いつまでも、子供のようなことばかりなさる」 歯切れ悪く切り出された言葉には憮然とした響きがあり、それは皮肉なのだと察せられた。 伝えがたい言葉に更に衣をつけるような彼の言葉は、時に非難の言葉ですらなくなる。 本人に自覚がないのが始末におえなかった。 そつなく微笑もうとして失敗し、それが苦笑になりながらも陽子は半身に目を向けた。 「気に入らないことがあったら、きちんと怒らなきゃ駄目だ。そうすれば二度としないから」 「怒っているわけではありません」 「うん、知ってる」 屈託なく笑えば、それきり会話が途切れた。慣れたやりとりに、陽子は話の接ぎ穂を無理に探すことはしなかった。 時折強く吹く風に、立ちのぼる花の香りがゆるやかに互いを包み込んだ。 陽子は思い出したように手を伸ばし、景麒の肩に触れた。 「花びらが……」 白い花を摘んだ手首を不意に掴まれ、あっけなく相手の腕の中に収まった。 首裏にほんのかすかに指が触れて、声を殺すのに反射的に身を震わせた。 「……あなたにも」 彼の声が思うよりも近く、純粋な驚きに息を飲み込む。 顔をあげられず肩に額を押し当てたまま、慎重に息を吐き出した。 咄嗟のことに狼狽を隠し切ることが出来ず、余計な混乱を憶える。 花の薫りが移った指が熱を持った耳朶をかすめ、ゆっくりと頬を伝い下りる。 指はそのまま、動きを止めた。 不自然な気息が整うのを、相手は待っていた。 「なぜ、あんなことを?」 留まっていた指は輪郭をなぞり、顎先を跳ね上げられて、視線が絡む。 「ずっと傍にいたけど、起きないから」 心の内を読まれぬように、低く、抑揚を持たない声で応える。身構えているせいで、自然と睨むような目つきになった。 警戒と受け取るか虚勢と受け取るかは相手次第だったが、おそらく分は悪い。 目交いの景麒の目は、凪いでいる。 けれどその本当の所は、わからない。 それは、賭けのようなもの。結果はいつも、予測できない。 伸ばした両腕をその背に伸ばして、陽子はお互いの体を引き合わせた。 重なり合う体から、鼓動が伝わる。 己とは違う質感を持った背を確かめて、長い髪の中に指を差し入れた。 「何だか莫迦莫迦しいな」 独り言ち、当惑を浮かべる景麒に、笑みを仄めかす。 微笑を刻んだままの唇で陽子はそのまま景麒の唇に触れた。 口づけの合間に零れた疑問を飲み込んで、ひっそりと胸中で呟く。 こうして、意地を張っているのがね、と。 誰の目もなく、こうして触れられる距離にいるのに、わざと距離を生もうとすることが。 それでも、押し留める何かに抗うことは、難しい。 触れたのは先だったが、繰り返される口づけに、軽い眩暈がした。 温かな血と、互いだけが知る互いと。 どのくらいの時間が流れたのか、ゆっくりと目蓋を持ち上げた途端に眩しさで目がくらんだ。 目に映る人には、僅かな微笑がある。 常にない近さが、これほどもどかしい訳は、何故なのか。 やわらかな抱擁に身を委ね、ただひそやかに視線を交わす。 絡み合った指に力がこもって、再び唇を重ね合う。 角度を変えるたび、やわらかな吐息が唇をなぞって、無意識の内に体が震えた。 無数の繰り返しに、体の力が次第に抜け落ちていった。 よく馴染んだ花の薫りがゆるやかに解き放たれる感覚に伴なって、心を攫っていく。 不意に肩を揺らされて、陶然と目を開く。 伏せた睫毛が瞬きに震えて、彼は深く、息を吐き出した。 苦さの滲む表情に思い当たることがなく、ぼんやりする思考のまま、陽子は小首を傾げた。 乱れた髪を掬い上げ、背中へと整えながら、景麒はぽつりと独白した。 「無防備、すぎます」 一拍の間を置いて、陽子はそれが非難なのだとやっと飲み込めた。 「ここには、私たちしかいないのに?」 殊更の考えもなく口をついた言葉に、景麒はわずかに怯んだようだった。 その反応を意外なものに感じながら看過すべきか一瞬迷い、けれど陽子は緊張のとけない景麒を横目に、草を褥に、無造作に身を横たえた。 掴んだ袖を引くと、景麒もわずかな逡巡の後、それに倣った。 身を横たえると背の高い草の陰は、少しひやりとしていた。 「こうすればもう、誰にも見つからないだろう」 造作なく、陽子は言い放つ。 向けられる眸が複雑な色を映して、やがてそこにある種の諦めが浮かぶ。 詮無い抵抗だと相手が悟ったのを知り、陽子は微笑った。 青々と茂る草の合間から仰ぎ見る空は眩しく、遠い。 空を渡っていく風が心地よく、当分起き上がれそうになかった。 流れるような仕草で景麒が持ち上げた指の先を、あでやかな色を纏った蝶が行き過ぎていった。 彼を真似て伸ばした両手の指の隙間から、あらたに番いの蝶が見えた。 「主上」 歯切れよい声音に、陽子は夢から覚めるようにして声の主を振り向いた。 伸ばされた手が頬に触れ、ゆるゆるとその手のひらの中に包み込んだ。 陽の熱を宿した手は温かく、とろりと沁み込むような優しさがあった。 急激に意識が下降していくのを憶えて、陽子は重たげに瞬きをした。 そうでもしなければ、今にも子供のように眠りに落ちてしまいそうだった。 見上げる空には、もう、蝶の姿は見つからない。 掛布をかけるようにやわらかく抱き寄せて、景麒はあやすように何度か陽子の背を叩いた。 「あとどのくらい、こうしていられるかな……」 背を叩く手が止まって、ゆっくりと気配が動いた。 自分とは質感の違う長い髪が頬をすべり、耳元に低く抑えた声が忍び込んだ。 「いくらでも、お望みのままに」 その一言は魔法の呪文に等しかった。 肩の力が急速に抜けていく心持ちがした。 こうなるともうとても、起き上がれそうになかった。 ゆるやかに鈍化する意識は、固執する気力を容易く奪い去り、それでも片隅に残る疑問にすがって、独り想いを巡らせる。 波間に漂う貝殻のように、岸に近付いては離れ、また打ち寄せては引き戻されるように、答えに近付いては遠ざかっていく。 ふと小さな気配を感じて空を仰ぐと、番いの蝶が行き道を戻り来る様子が目に映った。 ああ、と自然に声が出た。 寝返りを打ち、重い目蓋を閉じる。 息を吐き出して体の力を抜くと、背中に寄り添う体温を感じた。 指先が、形を記憶しようとするように唇や鼻梁をなぞる。 「……景麒……」 多少の息苦しさを感じながらも、ほんの一瞬で、陽子は意識の淵を滑り降りていった。 Novels [2] 2015.02.18 |