華倫海451 [2]










指に絡めた一房にそっと口づけて頬を寄せたまま、あらわにした背中へと手を滑らせる。
しなやかな均整のとれた肉体は、自らとはまったく違う質感と熱量を持っていた。
薄青の夜の中、白さは際立ちながら、輪郭をおぼろにする。
それは月のように、淡い光を纏っているかのように見えた。




触れながら形を確かめ、夜の中で辛うじて見えるものに目をこらす。
唇を寄せ、舌先で皮膚の薄い肩甲骨の形をなぞって、背骨に指を這わせる。
触れたままそっと躰を起こし、時折かすかに浮き上がる反応を確かめて、目を細めた。
多分それは一般的な感覚から少し外れていて、少なくとも男性にかける言葉ではないものだった。
声にして言ったことは記憶の限りはなく、けれどいつも抱く感情をまた覚えて、彼女は自らの指先が触れるものへ視線を落とした。






       とても、きれい。






昼の中、教本のように優雅な筆致で筆を運ぶ長い指や、無駄のない挙措の中で垣間見える手首の線に、知らず目を奪われることがある。
けれど今は相反する夜の中。拍動さえも聞こえそうな、闇夜の中だった。
手のひらでそっと、隆起する肩甲骨を包み込む。
そしてその左右の肩甲骨の合間に、神聖な儀式のように接吻した。
脳裏に浮かぶのは、遠い昔に読んだ神話の中に登場する、空を飛ぶ神々や獣たちの姿。
皆、一様に白い大きな翼を持っていた。
幼心にその翼に憧れを抱いたこともあったが、今こうして彼の背に触れて、そこに翼がなくてよかったと、心から思っていた。
そうでなければこんなふうに見つめることも、触れることもできない。
髪を耳にかけるように掻き上げて、そこへ新たに触れるだけの口づけを落としながら、探るように指を滑らせていく。
天使にも、悪魔にだって翼はあるのに、彼にはない。
そんなことが思い浮かぶと声もなく、笑みがこぼれた。




前触れもなく唐突に、世界が回った。
何が起こったのかと疑問を抱いた瞬間には敷布にうつ伏せていて、互いの躰の位置が入れ替わっていた。
振り向こうとした途端、唐突に背中の窪みに舌を這わされ、短い悲鳴をあげながら躰を張り詰める。
そんな戸惑いの反応にまるで構うことなく、背中に落とされる執拗な口づけに躰は跳ねた。
浮いた躰の下に彼の手が忍び込んでゆったりと、探るように行き来を始める。
巧みに与えられる刺激に、つぶった目蓋の裏で小さな光が弾けて瞬いた。
自分の躰が拓かれていくのを実感し、焦燥を覚えるもその腕から逃げることはできない。
背中に彼の体温が寄り添い、首筋を吐息とともに唇がなぞり落ちる。
それだけでぞくぞくとしたものが背筋を震わせ、そうして生まれる熱が収斂されていく、腰の感覚を鈍く疼かせた。
間を置かず、再び大きな波に飲まれようとしていた。
唇が離れ、指先が不規則に、けれど確かな意思を持つように、触れていく。
次はどこへ触れられるのかまったく予測はつかず、思いもかけなく敏感な場所をかすめるたびに肩が震え、這い回る感覚は大きくなっていった。






       星宿……。






呟きが、こぼれ落ちる。
ひとしきり触れ、背骨の終わりに軽い口づけが落ちた。
背中を撫でた手は休むことなく、再び躰の前へと差し込まれる。
手のひらの中でひどくやさしく胸を押し上げられ、指先がその中であらわにされるものを撫で上げた。
言葉にもならない声を飲み込みながら、発火する躰を無意識に捩る。
甘い刺激に耐えきれず、吐き出される息はこもるような熱を帯びていく。
温かな手は下腹部へと下り落ちて、脚の間に滑り込んだ。
やわらかな内腿に這う指に、押し殺した吐息が洩れる。そうして触れられるだけで、呼吸も鼓動も早まるばかりだった。
何とか首を捻り、彼を振り向くと頬に手がそえられ、輪郭をたどり落ちた指先が顎先を持ち上げると、口づけで塞がれた。
息苦しさに開いた唇から舌が忍び込み、触れ合って絡め取られ、濡れた音がした。
軽く舌を吸い立てられてこぼれた声が驚くほど揺らいで、何かの一音のように躰の中にこだました。
調弦される楽器のように過たず、爪弾かれるすべてから熱を呼び起されて潤む体を丁寧に解かれていく。
滑り込む指を喉を震わせながら飲み込んで、受け入れる。
もどかしいほどにゆっくりと、けれど体の一番やわらかな場所に触れられて体の奥から灼くような記憶が呼び起された。




潤んだ躰は更に蕩け、呼吸するように収縮し目まぐるしく変容していく。
飲み込まれるような強い陶酔の中でもがき、口づけを解くと躰を捻り、彼と向き合ってその首に腕を伸ばして抱きついた。
息が上がり、言葉を紡ぐことができない代わりに、休息を求めて抱きしめる腕に力を込める。
埋められた指がゆっくりと引き抜かれていく喪失感に上がった小さな声は、切なく夜気を揺らがせた。
それ以上の声を飲み込むように塞がれた口づけは深く、性急さが感じられた。
ただ苦しく、もどかしい。
伸ばした手を彼の肩にかけ直した時、その指に彼の指が組まれ、両手を敷布に縫い止められた。
ゆるく開いた脚の間に彼の躰が割り入り、気息を整えるのに息を吐き出した時、圧倒的な質量で空白は埋められた。
衝撃に躰は張りつめ、思わず上がった声は口づけの中で鈍く響いた。
絡む指がきつく、彼も同じようにほんの少しの苦しさを覚えていることを知る。
互いの温度が混じり合うほんの少しの間だけ、いつも苦しい。
共有した体温は、穂先が薄墨を吸い上げるように、苦しさから全く真逆の物へと塗り替えながらあっという間にお互いを満たした。
隙間なく抱き合っているだけで、充分に満たされる。それでもそれが終わりでないことを躰も心も知っていた。
境界を失うように馴染んだ熱は、ゆっくりと立ち昇り、お互いを包み込んだ。
閉じていた目をゆっくりと開き、気遣わし気に向けられる双眸に、瞬きをしながら一度だけ、返答に頷いた。
ゆるんだ指を解き、その手を彼の頬に滑らせて、ゆっくりと撫ぜた。
触れた指がかすめた耳朶の思わぬ熱さに、唇が驚きに開く。
軽い動揺に視線をさまよわせ、逃げるように目を閉じると、頬を包む手のひらを感じる。
顔の輪郭をなぞり、首筋を落ちていく指先がもたらすものにどうしようもなく煽られ、唇を結んで耐えた。




自然な仕草で肩を包んだ手は背中へと滑り込み、それを支点に強い力で躰を引き揚げられた。
鎖骨の窪みに口づけが落とされ、仰け反った喉元に舌が這い上がり、その隙に虚脱した躰を完全に起こされてしまう。
驚きに身を捩ると自重でより深く飲み込んで、背骨を駆け抜けた甘い痺れに大きく躰がわなないた。
泣き声のようなかすれた声が唇から洩れて耳を侵し、火照る頬を自覚しながら彼女は浅く呼吸を繰り返した。
自分でさえ触れられない奥処へとそうして触れられる時に生まれる眩暈がするほど強烈な快楽が漣を立て、理性を食い潰しながら染め上げていくのを体感する。
触れ合う感覚のすべてに苦しいほど追い詰められ、眸が涙に潤んだ。
短い息を吐き出しながらふるえる両腿に力を込め、膝をついて彼の腰に添わせる。
重なった皮膚の間に新たに汗が浮き、それがより体温を上げる気がした。
本能と心は分かちがたく結び合って、それでもたやすく同一にはならない。
それは、彼女のささやかな抵抗だった。
それでも最後まで、手放さずにいられたことは一度もなかった。




浮いた汗が首筋から胸の間を流れていく感触にさえ追い詰められ、息を吐いてそれを逃がす。
かすかな動作で息衝いた奥処がゆっくりと蠢き、意図せずしてお互いを苛んだ。
熱い息を吐き出しながら、身を屈めて彼の唇に浅く指を沈ませると、唇を開かせた。
薄く開いた唇に唇を重ねて、口づけを深くする。
温かく、やわらかく、心地いい。
舌先で口内を探りながら、自由に動き出したい衝動を忘れたふりをして、ゆっくりと口づけを楽しんだ。
乱れた長い髪がうねるようにして、彼へと流れて互いの肌を蔽う。
そうして汗で肌に張り付く彼女自身の髪をすくい上げながら何気なく背を撫でた手に、大輪の花が開くかのように一瞬で押さえていた筈のものが全身を襲った。
泡が弾けるように、ただ一瞬で生まれた熱が全身を蔽う感覚に肌が粟立つ。
何故こんなにこの手に狂わされ、掻き立てられるのかわからずに混乱する。
背を撫でた手が腰を支え、俯けていた上肢が起き上がると、下から大きく揺さぶられた。
与えられた衝撃に、呼吸を思い出した喉から最初に上がったのは耳を塞ぎたくなるような赤く濡れた声だった。
揺らされ、捏ねられ、擦り上げられて、離そうとするまいと中がうねり蕩ける。
温かなものが理性を溶かしながら溢れて、お互いの動きを一層滑らかなものにした。
あっという間に昂められた躰は、彼の上で揺れる。
時折与えられる浅く、息継ぎのような穏やかな動きは、返って焦燥を深くした。
多少冷静でいられる分だけそれは増し、浮き上がる渇きに狼狽える。
瞬いた眦からこぼれた涙を彼は指ですくい、躰を起こして宥めるように唇に口づけを落としながら彼女を引き寄せ背を抱くと、結びついたまま、敷布へ組み敷いた。
冷たい敷布の感触に背がしなり、飲み込んだままの熱を無意識のままきつく締め上げた。
耳元に荒い息が吐き出され、全身を名状しがたい波が這い上り、たまらずに喉を反らす。
膝を掴む手が食い込むように強く、痛いほどの筈なのにその感覚は鈍り、少し強く掴まれているようにしか感じられなかった。
体の裡にこもる熱で目元を染め、彼女は不規則に乱れた息を吐きながら眉を寄せる彼の肩に腕を回して、お互いの躰を引き寄せた。
火照った肌を重ね早鐘のような鼓動をも重ねて、すべてを共有する。
温かく、心地よくて、こんなにも安心する場所は他になかった。
それを与えてくれるのは、この世にただ一人だけ。
この熱は、彼との間にだけ生まれて永遠に肌に刻まれる。




やがて彼がそっと身を起こし、背に回した腕を緩めると、視線が結ばれた。
普段、ほとんど感情をあらわすことのない双眸が苦しげに細められ、灼くような強さで見下ろしている。




自分だけが知る眼差しに、首筋が熱く火照る。
止めていた筈の最後の何かが、ふつりと灼き切れた。




膝を掴む手を上から握り、彼女はただ一言、彼にねだった。




性急に合わさった唇から割り込んだ舌が濡れた音を立てながら口内を蹂躙し、口づけの角度が変わるたびに舌が絡み合う音が響いた。
汗ばんだ肌の感触を確かめるように彼の手が、やわらかな胸や下腹を撫でながら弱い場所を探り出して煽り出し、躰の奥から湧き上がる、すべてを侵食していく深い愉悦に身を震わせた。
大きく揺り動かされて離れぬように縋り付きながら、深く結び合って生み出される強烈な快楽に溺れさせられ、意識をそこへ縫い止められる。
他に何も考えられず、奥処に触れられるたびに熱は膨れ上がってうねり、蕩けて息を飲むようにより深くへと誘った。
全身を支配する言いようのない多幸感に浮かされ、望むままに互いを乞う。
奥処から生まれる痺れが背中を奔るたびに声を殺そうとする唇を、宥めるように舌で割られる。
殺せずに短く洩れる声は熱にかすれ、逼迫していた。
限界はもうすぐそこだった。
膝に手をかけられより屈折した躰に加重がかかり、擦れ合う力が増す。
目蓋の裏に、光が明滅する。
すでに一度道筋の出来た躰は、足先から奔り抜けていく大きな波に抗いようもなく飲み込まれた。
細く引き絞られた悲鳴をあげながら彼女は上り詰め、背をしならせた。
抱きしめる彼の上膊を指がひずむほど強く握り、大きく痙攣したのちに力を失ってその手は敷布へと落ちた。
それに合わさるように、彼は低く呻き、重なった躰が硬直して小さく揺れた。
勢いよく刷いたように全身に汗が浮き、肌が艶やかに染め上がる。
細かい痙攣が止まらず、わずかな身動ぎにさえ声を上げるのを宥めるように、そっと額が合わさった。
そこから何かの力が流れてくるかのように、そうされるといつも不思議と気持ちが落ち着いた。
目を閉じると伽藍のように静謐な暗闇に満たされて、呼吸とともに鼓動も穏やかさを取り戻す。
それでも躰は気だるく痺れたまま思考だけが次第に澄むものの、その後は何一つさせてもらえず諦めに大人しくしていると、じきに抱擁の中に戻された。
よく知る温もりに小さく息を吐くと、急に目蓋が重く感じられた。
背中から抱きしめられ、腰に回っていた手がそっと目蓋を蔽い、耳元に低い声が沈んだ。
それに曖昧に返事を返して、彼女はぼんやりと別のことへ思いを向ける。
彼へと躰を預けて意識を手放す瞬間思ったのは、何だか折り重なった匙のようだと、脈絡のない連想だった。
目覚めた時、そう思ったことはまるで覚えていなかった。
















細く開いた窓から吹き込む風が、手元の本の頁を繰る。
乾いた紙の音に意識を引かれ、彼女は目蓋を震わせた。
膝に本を開いたまま、椅子に凭れ、つかの間の午睡に微睡んでいたようだった。
小さく欠伸して、眠気覚ましに数度目を瞬いた。




友人でもある女史に頼み、初心者向きの天文学の本を一冊、選んでもらった。
彼女はどういう風の吹き回しかと不思議そうだったが、向こうとこちらの星の呼び名の違いを調べてみたい、ともっともらしく言えば、やはり今更どうしてという表情を隠さぬまま儀礼的に微笑み、それ以上のことを飲み込んだ。
あとで不意打ちに何か質問されるかもしれないとおぼろに予感しながら頁を繰り、星宿図を開く。
東西南北を確認して、自分が知る星座と重ね合わせて見る。
そもそもあちらの星座を熟知しているわけではなかった。
それでもいくつかの代表的な星座くらいはいまだ覚えている。
むかし学校で学んだ範囲で、代表的な星をなぞらえあたりをつけていく。
天極と呼ばれる星がおそらく、北極星にあたるものだとは容易く推測がついた。
自分が知る星座の形とは違うが、明度の高い星が結ばれて星座になるのは違いなく、方位と勘とでいくつかこれだろうと思われる星座を発見することはできた。




あの夜、辛うじて自我を保てている間にこぼされた呟きが、目覚めてからも記憶に残っていた。
窓へ向かって腕を伸ばすと、袖がこぼれて肘までが剥き出しになる。
日にさらしてなお、色の濃い肌の上に点在するそれは、星宿というには淡い気がした。
自分では直視できない背中へと散らばるそれを、彼は何となぞらえたのかという想いが、星宿図に落ちる。
指先でぐるりと天をなぞり、次いでゆったりと二十八宿をたどる。
薄青の夜の中、褐色の肌に散らばる星を認めるのは容易ではない筈だった。故に彼女はひとつの確証を得て吐息をつく。
それは以前からもしかしたらそうなのではないかと感じつつこれといった確証もなく、宙に浮いたままの小さな疑問だった。
元々自分よりもずっと人の気配や天候の移ろいに敏感であり、けれどそれは決して奇異だと思うほどのことではなかった。
人の中にも、職業や生活環境などに付随してそのような特質を持つ者が少なからずいる。
だからいまひとつ、確信が持てなかった。
けれど、あの夜に落とされた呟きが疑問に決定打を与えた。
思っていたよりもずっと、彼は夜目がきくのだと。
疑問が解決して晴やかな反面、複雑な心境でもあった。
けれど秘すれば花より他ならないだろう。
些細なことだが、誰にも言えない。
上がっていく体温がじくりと肌を灼き、乱雑に本を閉じて思考を遮断しようと試みた。
その本が借り物だということにすぐに考えが至り、慌てて表紙を撫でつける。
動揺を如実に感じて、ふっと、深く息を吐き出す。
緩慢な所作で立ち上がると椅子へ本を置き、窓辺へと歩み寄った。
窓を大きく明けきって、風を浴びる。舞い上がった髪が頬を擽り、背中へ流れていった。




澄み渡る空には雲が流れ、月の影もない。
太陽が沈むまでは大分間があり、宇宙の目のような星は見えない。
夜にならなければ、星は見えない。それは明快な事実だった。
けれど矛盾していないようで、矛盾している。
風は清かで心地よく、それでも一度生まれた熱は簡単には冷めやらなかった。
彼女はひとり何でもないふりをして、袷をきつく整えた。










Novels  [1]












タイトルはファーレンハイト四百五十一と読みます。
レイ・ブラッドベリの名作、華氏451度をやや強引に中国語風へ。
華氏は日本では摂氏にあたり、451℃は摂氏233℃。紙の燃焼点です。
焚書をテーマにした名作ですが、実はまだ読んだことがありません。
あらすじだけ見ていると、図書館戦争はここからのオマージュ?という雰囲気ですが。
摂氏38℃だと華氏100℃くらいでキリがよくてなんだかインパクトにかけるので、451℃のままでという裏話。
ですが燃え尽きる、というニュアンスが伝わるようでいいかなと。




今回は、書きすぎたのかそうでないのか自分でもまだわかりません。
まだ何か越えられないものがあった、というのは実感しています。
それが何かはわからないのですが……。今後の課題です。
練習、訓練、修行。修練あるのみ。










2016.03.25