華倫海451 [1] 記憶は、降り積もる。 それは散り落ちた花のように、肌の上に、意識の奥へと、溶けることなく静かに降り積もっていく。 口づけを交わし、肌を重ねて互いを刻むその行為は似通っているようで、心の在り様やその他の要因によって時々に異なる官能を呼び起こす。 やわらかな慈しみを与えられてはそれを返し、体は次第に熱を帯びていく。 幾度も積み重ねられた甘やかな記憶が、そうして体を発火させた。 新たな記憶が刻まれ、過去の記憶が呼び起されては書き換えられていく。 ほんの刹那ごと結ばれる視線が鼓動を跳ね上げ、肌を滑る形の良い指先に、堪え切れない吐息がこぼれて落ちた。 素肌に触れる唇がたどった後に残される彼の体温に、おかしいほど狂わされる。 思わず喉を反らせ手の甲をあてがって声を殺すと、あくまで穏やかに、けれど有無を許さない力で引きはがされた。 薄く開いた唇に口唇が重ねられ、温かな舌が忍び入ると、指を絡め取るような自然さで捕えられ、声を飲み込まれた。 つたなく応える内に息をするのが苦しくなり、次第に意識が淡く滲んでいく。 寒気にも似た痺れが背中を奔り、剥き出しの肌が、花が綻ぶようにして粟立っていった。 泡のように押し上がってくる感覚を逃すのに意味をなさない声が発せられた筈だったが、それはただお互いの息遣いの中に溶けて消えた。 やわらかく素肌を溶かすような行為に体の奥深くで揺らめきだしたものが沁むようにして広がり、それはゆっくりと全身を染め上げていった。 きつくつぶった目蓋を開けると、目を細めた彼と視線が結ばれ、首筋から頬が熱を持つ。 わずかな逡巡ののちにためらいがちに腕を差し出せば望んだように抱き寄せられ、その背中に腕を回し、隙間なく肌を重ね合わせた。 温かな首筋に頬をすり寄せると、腕に力を込める。合わさった肌越しに、早い鼓動が感じられた。 それにひどく安心して、吐息をつく。 ふと吐き出した息が耳朶をかすめたのか、抱きしめた体が揺れて、腕をゆるめて顔を上げた。 間近く向けられる目をしばらくの間見返して、そっと眼差しを伏せると彼女は赤く濡れる唇に、自らの唇を寄せて押しあてた。 触れ合うと、接触する肌のどこもに熱が生まれ、思考もそれに浮かされる。 まるで、微熱に侵されているかのように。 深くなっていく口づけに酸素を求めて首を捩れば髪に指が差し込まれ、逸らすことができなくなる。 舌が絡み合い、口蓋をゆっくりとなぞられると背がしなり、敷布から浮いた背に、長い指が触れて肩甲骨から腰へと、背骨を下降して滑り落ちる。 与えられた刺激に、悲鳴じみた筈の声が唇を塞がれているせいで小さな生き物の鳴き声のように体の中で響き、体温が跳ね上がる。 自然と胸を押しけるような形になり、小鳥の心臓のように早い鼓動が彼の胸を叩いていた。 一体どちらの鼓動が早いだろうかと、酸素の足りない頭でぼんやり思う。 髪に差し入れられていた指が引き抜かれ、唇が離れると急に寂しさを感じてゆるやかに瞬きをした。 合間に結ばれる視線が物言いたげに憂いを帯びていて、何故と問いかけようとしたが、言葉にはならずにただ彼を見つめ返しながら浅く息を吐き出しただけだった。 それを見やって、彼の唇が何事かをかすれた響きで囁いた。 夜気に解けて消えた囁きに、わずかに首を傾けると、薄く開いた唇を人差し指がなぞって疑問を封じて落ちていく。 その手は羽根のような軽やかさで頤から鎖骨をなぞり、拍動を刻む心臓の上にたどり着く。 手のひらの下でゆったりと胸が押し潰され、その力のまま指の形に沈み、やわらかな存在をあらわにする。 それに気を取られる内に耳朶を吐息とともに濡れた唇がなぞり、そのまま首筋へと舌が這う。絶え間なく生み出される痺れに、唇を噛んで耐えた。 無意識に身をくねらせる間にも口づけは鎖骨から胸へと下りていき、甘やかな刺激が体の裡を一層燻らせて、その感覚に戸惑いも思考も溶かされていった。 温かな手が薄い腹部から脚を撫で、舌もそれを追いかけていく。 やがて足首を彼の指が取り巻いて、折り曲げられた左の膝頭に口づけが落とされると、思いもよらない感覚がもたらされて爪先が猫の手のように丸まった。 宥めるように足の甲を擦った手が膝へと上り、腿を撫で上げて腰へと伸ばされる。 口づけが膝からゆっくりと内腿へと下り、止めようもなく生み出される感覚に背をしならせて抵抗を試みるも、熱に浮かされた躰に力は入らない。 触れられる程に熱は増し、行き場のない熱は何もかもを混沌とさせ、思考を削いでいった。 彼の吐息が肌を掠めるだけで体は震え、眸も、透明の海に浸った。 人の躰は四分の三近くもが水で構成されていて、原始の命は海から生まれたと、生まれ落ちた世界では言われていた。 真実、そうなのだと感じる。 人は身の裡にそれぞれ海を抱いていて、ひとたび熱を持てばそれは肌の上へと溶け出してやわらかく躰を潤ませ、まるで海に還るかのごとく、器の輪郭を少しずつ失っていくようにも思われた。 満月に引き寄せられる潮のように、世界の摂理と同じものが己の裡にも確かに存在し、どうしようもなく翻弄された。 それを支配するのはただ、自らの心ひとつに他ならなかった。 やさしく触れられながら心と躰は温められ、ただ一人へ拓かれる。 熱い、と感じる。 それは何に対してなのか思考を巡らせようとすればどうして見抜かれるのか、あっという間に追い詰められて考える余裕は失せて消えた。 幾度も肌に刻まれた記憶がそうして触れられる程に呼び起され、思考を焦がして塗り潰されていく。 喉を震わせるのは、言葉にはならない感情の温度。 切迫した、赤く濡れた声が夜気の中で震えていた。 限界の近い躰は急速に押し上げられ、苦しいほどなのにまだ足りない、と意識の片隅で埋められない空白を覚えている。 それでも撓められた枝が束縛から解放され勢いよく弾けてしなるように、熱に浮かされる意識はある一瞬で決壊し、真っ白に裏返った。 彼女は刹那息を飲み、次いで大きくわなないた躰に刷いたように汗が浮かび、小さな痙攣が止まらなかった。 心臓は壊れそうなほど胸を打ち、躰中が甘く麻痺して虚脱する。 けだるく肩で息をする様子を見守り、力なく投げ出された躰を彼はやわらかく、腕の中に抱き込んだ。 温かな肌にすり寄って、彼女は浅い呼吸を繰り返した。 何気なく背を撫でる手にさえ、余韻を引きずる躰が過剰に応えた。 それは小さな痛みのように肌を奔って、首裏にその痺れが収斂される。 熱を含んだ吐息が首筋に落ちて大きな刺激となり、小さな悲鳴が洩れた。 抗議に胸に手をつき力なく押しやると、背中を温めていた手が頬を撫で、頤を捉えて上向かせ、唇を塞がれる。 触れるだけの戯れのような口づけの内に、鼓動もゆるやかに落ち着きを取り戻すが、まだどこか浮き上がるように躰が軽く、現実が頼りなかった。 自然と悩ましい溜息がこぼれると唇が離れ、訝しげな目と出会う。 ゆるく首を振り、何でもないと答える代わりに、うすく開きかけた彼の唇を人差し指で封じた。 指を滑らせて顎先に触れ、薄く開かせた唇に、自ら唇を重ねた。 味わうようにして、ゆったりと口づけを深くする。 腕の中に彼を囲い込み、肌を重ね合わせて抱きすくめる。 大きな手が肩から肘へと滑り下りながら肌を撫で、その羽毛が触れるような感触に小さく喉を鳴らした。 息継ぎのわずかな間、瞬きの一瞬に絡んだ視線に、小さな呟きを載せる。 彼の背中へと回した手で、背骨の窪みに指を這わせ、触れる唇を甘噛みした。 短いその一言で、意図することは伝わる。 未だ力の戻らぬ弛緩した手に指を絡め、彼はその甲へと歯を立て、赤い舌先が慰めのようにそこをなぞっていった。 痛みにも満たない、けれどゆるやかな刺激に躰は大きくわなないた。 熱は煽り立てられて、冷めやらない。 彼は辛抱強いが実はそう気が長い方ではないということを、夜を重ねては思い知らされている。 浮かされ、じりじりと灼かれているのは自分だけではないと知ると安堵と仄暗い喜びに満たされ、返礼に無防備にさらされた白い喉元へ口づけて、耳裏から鎖骨へと指をなぞらせる。 指の下で触れた肌が微かにふるえ、望んだ反応を受け取って、躰の位置を入れ替えた。 うつ伏せた彼の背に頬を寄せ、躰も添わせると、彼女は安堵に吐息をついた。 長くうねる髪に指を絡めて、隠された肌をあらわにする。 長い髪は、指で梳く時、不思議と絡むことがない。いつも滑らかに指が通った。 どんな染料にも染まることがない髪は、冷たくやわらかい。 最初にこの髪に触れてみたいと思ったのがいつだったのか、もう覚えてはいない。 その望みがとうに叶ってしまっているからかもしれない、と指で梳きながらどこか他人事のように遠くに思った。 Novels [2] 2016.03.25 |