夢のあとに [2]










仄暗い空間の中に小さな光を感じて、陽子は重い目蓋を開けた。
「申し訳ありません……起こしてしまいましたか?」
「いや……目が覚めてよかった……」
濁った声で呟くと、陽子は首を傾けて声の主を見た。
幾重にも重なった天蓋の紗を掻き分けて立つ人の姿にほっとして、一度目を閉じると吐息を飲み込んだ。
「まだ少し顔色がお悪い、ゆっくりとお休みになってください」
「うん……こんなことになって、本当にすまない。ありがとう……」
すでに天蓋の内側にいる人に、陽子は意識して微笑んだ。
彼は静かに臥牀の縁に腰掛け、陽子の顔を心配そうに覗き込む。
「この所、少し問題が多かったですから……」
近くに見上げるその眸に、陽子は泣きたい気持ちにかられて唇を結ぶとまた微笑んだ。
「無理に、笑おうとなさらないでください。今はどうか御自分のことだけを」
「景麒……そう怒るな。今は嫌な夢を見たばかりで弱ってるんだ、お願いだから……」
咎められた笑みを浮かべると、景麒はわずかに身をこわばらせ、長い睫毛を伏せた。
わかりやすい反応に、陽子は枕辺に流れた彼の髪の一房を指に絡め、少し強く引いた。
「昔の、夢を見た……まだ子供だった頃のことを。変わりたいと思いながら、人の顔色をうかがって、怯えていた頃の……」
手荒いされように顔をしかめた景麒は、髪を握る陽子の手を捕まえる。
「右も左もわからなくて、向けられる目のすべてが恐ろしかった。王宮の中はどこも敵ばかりで、お前でさえ、怖かった……」
景麒の目に、一瞬の動揺が浮かんだ。
陽子は薄掛けからもう一方の手を出して、自分の手を掴む景麒のそれに、そっと重ねた。
彼はこんな小さな拒絶さえ、怖いのだ。だから伝える、そんなつもりではないのだと。
のばした手を振り払われるのをお互い恐れていたのは、とても遠い日のことなのだと陽子は思った。
「私はあまりに幼くて自分のことで手一杯だったし、お前は、本当に不親切だったから……わからなかったんだ、ちゃんと大事だと思われていたことが。私は必死で物わかりのいいふりをしている、子供だったから……」
陽子は重ねた手を、臥牀へと投げ出した。
髪を掴んだ手から、するりと景麒の手が滑り落ちる。
陽子の手の中にはまだやわらかな髪があったが、その指は、とうに開かれていた。
「……今はもう、昔のことです……どうかゆっくりとお休みになってください。深く眠れば、夢など見ません」
それは整然とした、静かな口調だった。
彼は、本当にいつも正しい。
陽子は思わず声を上げて笑ってしまい、景麒の心外そうな表情にさらに笑った。
「ごめん、確かに今は味方の方がうんと多いものな。いろんなものが、変わったよね……」
深い声が、同意を呟く。そのわずかな響きが、とても心地よかった。
見えない境界を越えたいと思いながら、自分たちを決められた枠の中に閉じ込めていた窮屈な時を思う。
理解し合えずに過ぎた日々を、無為に流れた時間だったとは思わない。
長い時をかけてわかったことは、とても簡単だった。
枠を取り払ってしまえば、自分は自分で、景麒は景麒でしかなかった。
ただ、それだけだった。
たった、それだけのこと。
どんな名を持とうと、そこにあるのは命でしかなく、心でしかなかった。
それ以外に意味あるものなど、何も、存在しなかった。




ゆっくりと瞬きをして、陽子はそっと上肢を起こした。
止めようとする景麒の手を支えにして起き上がってしまうと、景麒は早々に諦めたらしく、陽子と向き合うように少し躰をずらした。
その途端陽子の躰が前のめりに傾き、景麒は反射的に陽子を抱き留めた。
「怖い夢を見た……まだ、少し怖くて……」
景麒の肩に手をついて、陽子は間近に囁いた。
不安に揺れる目を覗き込んで、離れがたくなる。
自分へと触れる手が、弱々しく立てられた指が、衣を絡め取っていた。
口にするよりずっと恐ろしかったのだとわかって、景麒は陽子の手を取ると、その指先にそっと唇をよせた。
唇を押し当てた指先の、血の気の失せた冷たさが悲しかった。




陽子はその様子を伏せた眼差しの中から、ぼんやりと見ていた。
指先に触れた温もりは、冷たい指にはじわりと熱いように感じられた。
何気ない仕草のひとつのように景麒が唇を離すと、陽子はその温もりを確かめるように自らのその指に、唇を当てた。かすかな熱を感じて、目を閉じる。
臥牀の中にある、衰弱した躰は冷えている。
こんな小さな熱を温かいと感じることが、とても幸福に思えた。
整った指先が、頬にかかる髪を耳の後ろへと梳いた。かすかな光を感じて、陽子は目を開ける。
ふと翳る光とともに、眦をやわらかな熱がかすめる。
こめかみにも触れて、細い指先が耳の下から確かめるような慎重さで、顎の骨格をたどった。
陽子は両腕をのばして、自らの腕の中に景麒を閉じ込めた。
口接けはゆっくりと、両の目蓋に落とされて、耳元に音のない声が低く響いた。
なんでもないような慰めの言葉に、陽子は抱きしめる腕に力を込めた。
うまく伝えられない、言葉の代わりに。
頬に触れた唇が離れて行き、陽子はゆっくりと景麒を仰ぎ見る。
こちらに向けられる眼差しの静謐さに吸い込まれるような気がして、吐息が洩れた。




止まった時の中で齢だけを重ねて、深層だけが知らず深く深く澄んでいく。
濁りが澱となって沈殿してしまえば、そこに何があるのかよくわかる。
閉じ込めた腕の中にあるものはとても温かくて、ひどく安心する。
触れていれば、相手が何を思うのかがわかる。少なくとも、好悪ははっきりと感じられる。
だから腕を解いて、唇を触れた指の背で、彼の頬を優しく撫でる。
小さく、苦笑を唇に載せて。
凪のような表情が、一瞬で揺れた。
微笑を浮かべたまま頬を撫でた指を髪の中に差し入れて、陽子はその頬に口接けた。
位置をずらして、今度は唇の端へと。
ゆるやかに肩を抱かれて口接けをやめると、陽子はそっと額を合わせた。
そのまますっと徹った鼻梁に、やわらかくまた唇を触れていく。
やがて大きな手が頬を包み込むと、低い囁きが耳に届いた。






       あなたは、ずるい。






陽子はそ知らぬふりをして、むくれるような不機嫌な声を聞いた。
小さな吐息を感じるのと同時に、やっと唇が触れ合った。
不機嫌さとは裏腹にその触れ方は焦れるほど優しく、いたずらに逃げようとすると、甘く噛みつかれた。
抗議に肩を叩くと、手首を捕まえられて何事もなかったかのように、その手を彼の背へと流される。






       熱い。






溶かされて、温かな湯に浸っているような感覚に包まれる。
彼が与えてくれる深い安堵を、感じるそのままに伝えられたらいいのにと陽子はいつも思う。
「……まだ、怖いですか……?」
問う声はそっと、ほんのかすかなものだった。
その言葉に胸の中でふたたび冷たい不安が蠢いて、ゆるりと大きな鎌首をもたげた。
陽子は目を開じたまま景麒の唇を冷たい指先でなぞると、乱暴な口接けで塞いだ。
何の言葉も、今は欲しくなかった。ただ、離さないでいてほしかった。
気持ちの強さのまましがむように、抱きしめる腕に力を込めた。




回される腕に、切ないほど強い力が込められる。
それは今の彼女の、精一杯の力だった。
まったく無防備に預けられる躰に、景麒はひどく静かな感情を感じていた。
何の抵抗もなく、安心しきって預けられる躰をとても大切なものに思った。
突然触れてもびくりともしない。
触れる手を当然のように受け入れられ、優しく微笑まれると、もう何も欲しいと思わなかった。
何の疑問も問いかけも必要ない、ただ傍にいられる幸福が、ここにはあった。
こんなにも深い安堵は、彼女の傍の他にはどこにも存在しなかった。
抱きしめる躰は細く、衰弱している。
なのに背に回される腕だけは、強い力がこもっていた。
景麒は陽子の躰をしっかりと抱きしめると、体重をかけてゆっくりと彼女を臥牀に組み伏せた。
「いやだ、眠りたくない……!」
搾り出された声はまるで悲鳴のようで、鋭い刃のように胸を突き刺した。
「横になっているだけでも違いますから、お休みください」
抱きしめる腕を陽子が離そうとしないので、景麒は肘をついて自身の躰を支え、陽子に負担をかけぬようにした。
「いやだ、何か……何でもいい、話して……」
間近く、潤んだ緑の眸が揺れていた。
すっと眦からこめかみに流れた涙を指で払って、手のひらの中に、彼女の顔を包み込む。
陽子は目を閉じて、無理やりに嗚咽を嚥下した。




夢がまだ、彼女を過去の恐怖に繋いでいた。
衰弱した躰に凍えるような孤独が大きな根を張って、心さえ蝕もうとしているのをそこに見る。
必死に眠るまいとする陽子を、景麒は静かな眼差しで見下ろした。
「大丈夫です……あれは過去です。あなたはそれを、御自分の力で乗り越えられた。今はもう、一人ではないのだから……」
声にならない声が陽子の喉をふるわせて、緑の目が、じっと景麒を映していた。
それは湧き上がる涌水のように、澄んだ目だった。
陽子は小さく息を飲み込んで、目蓋を閉じた。
ふたたび目を開けると、音もなく、涙がこぼれて落ちた。
言葉はなく、静かな眸をして、二人はただ眼差しを交わす。
ややあって背中に回された腕が力を失い、するりとほどけて落ちた。
それを目で追うと、景麒はやっと、緊張を解いた。
肘をのばし、かぶさるようになっていた躰を静かに起こす。
陽子はわずかに身を起こし、素早く景麒に口接けると、大人しく臥牀に横になった。
背を丸めた陽子の顔は、景麒にはよく見えない。
景麒は横向きになった陽子の手に自身の指を絡め、空いた手で、彼女の髪をそっと梳いた。
















人工的な闇の中で陽子の上に睡魔がかぶさっていくのを、景麒はただぼんやりと見ていた。
眠りに落ちる一瞬、彼女はまっすぐにこちらを見上げた。
小さく頷くと淡い笑みが唇に浮かんで、彼女はゆっくりと目を閉じた。
眠る顔には苦悩は見当たらず、もし夢を見ているのならそれがどうか幸福なものであってほしいと、陽子の横顔に景麒はかすかに微笑んだ。
繋いだ手はもう冷たくはなかったが、離そうとは思えなかった。
















せめてその眼差しに、ふたたび出逢うまではと。










Novels  [1]










タイトルはフォーレの歌曲から。歌詞とは真逆の話になりました。
しかし、実は書きながら聞いていたのは『シシリエンヌ』と『パヴァーヌ』でした。フォーレは、好きな旋律の多い作曲家です。
これは、獣は痛みを忘れない、という一文が書きたいが為だけに書いた話でした。


丁度これを書いている時に『ヤマアラシのジレンマ』という心理学用語(にまつわる例え話とでもいいましょうか)を知りまして、人との付き合いって難しいものだなと考えてしまいました。
ヤマアラシは刺を持つ生き物ですから、不用意に身を寄せ合えば互いの身を傷つけます。そうして何度も傷つけあいながら、お互いにとって最適の距離を築いていく、という寓話に基づく言葉なのですが。
近付きたい、けれど傷つくのは怖い、でも……という対人関係の二律背反性をよく表わしているお話ですね。
他人を受け入れるというのはやはり、大なり小なり痛みをともなうことなのだと思います。
どうしてもわかりあえない部分を残しつつ、寄り添っていけるかは互いへの理解と思いやりが必要なのだなと感じた次第です。


追記(2018.11)ちなみにサイト名のやまあらしは、知人が私を喩えた動物です。
猫とか犬とか狸でも狐でもない、メジャーな生き物感ゼロのこのアウェー感。
ひところは、息をするように毒を吐き、などと揶揄されていたせいでしょうか。
最近はとんと言われないので、いろんなものと一緒に丸くなったのだと思います。ニコッ。










2006.02