夢のあとに [1]










こちらでは蓬莱と呼ばれる世界に、人を超える存在として認知されているのは神くらいなものだった。
けれどそれさえも誰にとってもというほど、強固なものではなかった。




それが変わる日が来ることなど、私はほんのひとかけらさえ想像もしていなかった。




だがそれはある日突然に、私を捉えた。
冴えた月光を収斂したかのような、長い金の髪の青年の姿をとって。
















運命の具現は、麒麟という神獣だった。
私が生まれた世界では、神話にのみその名を記す高貴な神獣。
御伽話に過ぎなかったはずのものが頭をたれ、私をその命の半身にした。




多くのものを引き換えにして、本来私が生まれ育つはずだった世界へと降り立った。そうして玉座を埋めたのち、少しづつ、半身と呼ばれる麒麟を知ることになる。
繰言のように語られる麒麟というものの性質に、ただ溜息が出た。
私の狭い世界の、理解の許容を越えていた。
けれどそれを現実のものとする場面に幾度も遭って、麒麟が双つの姿を持つ意味を自然と考えた。獣の姿と人の姿と、本性は獣だというが、その姿はどちらも彼ら自身である。
どちらかが仮のものだとか、そんなふうには感じなかった。
理由は至極明快のような気がした。王を選んで、彼らは自らに課された任を解かれるわけではない。
宰輔として公の立場を持ち、王を補佐し、政の一端を担うのだから。




王宮という場所は、人が集まる場所の中でも、殊に生臭いことの多い場所だと感じる。
なぜそんな場所に決して穢れることのできない存在を置くのか、この世界に王が必要でも、なぜ選定ののちに麒麟の命運を王の手に委ねるのか、私には天帝の御心がわからなかった。




半身の麒麟は、自らの王の過ちによってのみ、その身を病に蝕まれる。
それは国の崩壊への序章となり、同時に天からの警告でもある。
警告のうちに正すことができれば何事もなかったも同じ。けれどそれは多く、止めようもない嵐と同じだった。
その災禍の中に、王は自らの民草に一筋の希望を残すことができる。
麒麟が斃れるより早く自らが斃れれば、天が与えた頑強な軛から麒麟を解放してやることができる。
そうして麒麟は命を取り留め、新たな王を得て国を平定へと導く。
そのようにして残されたのが、私の麒麟だった。
















号を景麒。字はない。
名を聞いてそう応えたので、それが名前だと思っていた。
あちらには麒麟など存在しないのだから、わかるはずもなかった。
言葉数が少なく表情の変化の少ない彼は、その端正な容貌も手伝ってどこか人に冷たい印象を抱かせる。
その性質そのままに、磁器のような肌の白さがよけいに彼を冷淡な人物のように見せた。
私を主だと言うが、彼の言葉は慇懃無礼そのものだといつも思う。
言葉はへりくだっていても、そこに込められた意思は苛立ちであったり、反論を許さないものであったりする。
私があまりにこの世界のことを知らないから、仕方のないことだとは思う。
けれど人間というものは、どこへ行こうともそんなに本質の違うものではないらしかった。






混沌の中では、争いは決して絶えることがないのだということ。






彼は、いつも正しかった。
その正しさに私は時折、どうしようもなく打ちのめされた。
麒麟というものの、まっさらな性に。
善良な人間の純真さとは違う、強固な意志を越えたものが彼の中には凄然と存在する。
麒麟として決して越えられない境界が、私の中の醜い人の性を否定した。
相容れない思いが濁流の中の小枝や石のように、お互いを思わぬ鋭さで傷つけあっては行き過ぎた。
何のためなのかと、無益な問いかけはいつも闇へと打ち捨てられる。
どうしても、あなたは違うのだと否定しきれないから、こんなにも痛いのだ。




なぜ神は麒麟に人の姿を与え、人の心を忍ばせたのか。
何もかも違うなら、否定することも、切り捨てることもできるのに。
人であって人でないこの存在を、私はどう受け入れたらいい?




繰言など聞きたくない。詩歌のように諳んずることが出来るそれは、ひどく虚しくこの耳に響く。
法律の文言のように曖昧で荘厳なそれは、いくらでも解釈の道がある。
悪にも善にも、その道は開かれているように。
聞く者によってどうとでも受け取れる、そんな物などほしくはなかった。




ひとつだけわかるのは、その本性が獣であるということ。
獣は、本能には逆らえない。
その身に受けた痛みを、獣は決して忘れない。忘れることをしない。
それが、獣であるということ。
本能が、何かを超えることがないのだ。
もしそんな時がきたなら、獣は獣ではなくなるのだろう。
もしも仮にそれがあるとするなら、それは何が壊れる時であるのだろう。
命が失われる瞬間になら、獣を支配する本能はそれを赦すかも知れない。
そんなことを、いつかぼんやりと思った。




かつて終わりを夢見た一瞬が、私にはあった。その時に浮かんだものを、憶えてはいない。
ただそこには思い描いていたような歓喜は一片もなかった。
後悔さえも、なかったけれど。
それを言えば、彼は間違いなく憤慨するだろう。
それを何故かおかしく思う。そんな彼の感情を、愛すべきものだと思う。
ただでさえ言葉が少ないのに、それが何の衣も纏わずに語られることは無に等しい。
彼は自らの定められた枠を、いかな超えようとはしなかった。
それが彼の安全であるのなら、私には何も言う権利がない。




これもまた、繰言になる。何度聞いても、どこか胸に痛みの残る昔話を。
その時に負ったすべてのもの、怒り、苦しみ、絶望、孤独。
そんなものを、彼はずっと刻んだまま生きていく。






獣は、痛みを忘れない。






仕方ないと諦める半分で、心は鉛のように重かった。
この深い隔たりを、埋めることはできないのだろうか。
本心から必要とされていないことを知っていても、自ら決めたことであっても一人で立つのは怖かった。
いつだって、怖くてたまらなかった。でも、どうしてそれを言えただろう。
もう何も、壊すことをしてはいけないのだと声なき声を痛いほど聞かされて。
水禺刀の幻にのみ現われる人と、私は違う人であるはずなのに。
違うのだとわかっているのに。
なのに、彼女の苦しみはそのまま自分の苦しみでもある気がした。
あれは、私とは決して相容れない存在なのだと。
溜息だけが唇から洩れて、両手でそっと顔を蔽った。




半身と呼ばれながらも、私たちは引き裂かれている。
他でもない、自分たちの気持ちによって。
何一つ言葉にすることはなく、見えない境界で踏みとどまっていた。
触れもせず、私はいつでも、その横顔を眺めることしかできなかった。
それはまるで、永遠のように思われた。










Novels  [2]










2006.02