矩形の光 [2] 閉じられた宮は、薄暗い。 女王の代が長く続いたからか、慶の後宮は長く閉ざされていた。 何かに行き詰った時、陽子は誰にも行き先を告げず、時折ふらりと姿を消すことがあった。 それは時に下界や捨てさられた岬崎であったり、ひっそりと存在する廃園であったりした。 今、陽子がいる場所も、彼女のそうした雲隠れの場所の一つだった。 後宮の、奥深く。 そこは、唯一の『例外』だった。 そこにいる時、景麒は一度も陽子を訪ねたことがなかった。 理由は、わからない。 そこに姿を隠す原因も、まちまちだった。 それでもそこに彼女がいる間は、何故か近付いてはいけない気がした。 人の気配が途絶えた場所。 それは彼女が好む隠れ家に共通した符号であり、その中でそこはもっとも閉ざされた場所だった。 格別風景がいいようにも思えない、どこか陰鬱とした印象があり、慰めの一つもないように思われた。 使われていない宮に、気の利いた調度品などがある訳はない。 そこにあるのは寂寥とした虚しさばかり。 かつてそこに人がいた痕跡が、かえって寂しさを募らせる気がした。 まして後宮という場に、少女のまま時を止め、家族を失った人がどんな思いを抱いて留まるのか、景麒が想像するのは難しかった。 王気を追い、景麒は後宮の奥へと進む。 道を記憶して来ていたが、初めて来た者が迷った末に辿り着くというにはあまりに不自然すぎるほど、そこは奥まった場所だった。 位置的なことを考慮すれば、おそらく女官たちの私的な空間として使われるような、そんな房室が並ぶ所のようだった。 景麒はそこから、少し奥まった所へある房室の前に立った。 その扉の奥に、陽子がいた。 扉の正面に立った瞬間、景麒はなぜ陽子がそこを隠れ家に選んだのか瞬時に理解した。 そこは、鍵がかかる房室だった。 外からでも、中からでも。 動揺する気持ちを整えるのに、硬く目を閉じた。 それでも躊躇いがちにそっと、陽子の名を呼んだ。 返答は、なかった。 景麒はしばらく待ってもう一度呼ぶが返事はなく、扉の向こうもこちらもしんと静まり返っていた。 耳に痛い程の沈黙の中、景麒は半ば祈るような気持ちで、扉に手をかけた。 鍵は、かかっていなかった。 扉の軋む音を煩く感じながら、こちらと彼女を隔てる境界を越える。 中の様子を目にした瞬間、景麒は軽く目を瞠った。 昼だというのに、夕暮れ時を迎えたかのように室中が薄暗かったからだ。 一筋の光に引き寄せられるように目を移せば、窓は通常よりも随分と高い位置にある。 とても小さな明かり取りの窓がたった一つ、そこにあるばかりだった。 女性の身長では、まず手が届かないような位置。 臥牀を置いたらそれで埋まってしまうような、決して広くはないそこに、求めた人はいた。 王気は、どこに居ても感じられる。 それでもこの目でその存在を確定する喜びは、麒麟にしか理解出来ない、幸福だった。 何もない空虚な房室の中、大きな敷物を幾重にも床に広げ、こちらに背を向けて陽子はそこへ横たわっていた。 かける言葉に逡巡していると、気配を悟った陽子はゆっくりと身を起こし、乱れた髪を手で梳きながら、こちらを振り返った。 「お前がここにくるとは、思わなかった」 こぼれた声はまるで、雨の最初の一滴のようだった。 唇の端から洩れる笑みは、溶け切らない芯のようなものが残っている。 細められた目には、房室の中に満ちる翳が映っていた。 「祥瓊と鈴が、主上を案じております。他の皆も」 「わかってはいる……扉を閉めてくれ。そうしたら、ここへおいで」 滑らかな声が響き、陽子は起き上がった己の傍を何気なく叩いた。 命に従ったあと、中々動こうとしない景麒に、陽子は手招きをする。 重い足を引き摺るようにして、景麒は彼女の傍に膝をついた。 わずかに見下ろす彼女の顔色は、光のせいか随分と青ざめて見えた。 その頬の色に、景麒は一つのことを思い出した。 「……主上、これを。二人からです」 緊張に、少しかすれた声が喉を通っていった。 不思議そうに手のひらを上向けた陽子に、景麒は二人からの預かり物をそっと渡した。脆い硝子を置くように、丁寧に。 「林檎……」 「あなたの、お好きなものをと」 じっと見返す陽子の顔に、ふとやわらかい笑顔が浮かんだ。 けれど一瞬後には煙のように掻き消えて、それは苦い微笑みに変わる。 その心情が手に取るように感じられ、かける言葉につまった。 安易な慰めは、充分に傷ついた彼女の心を、更に抉るだろう。 どんな気持ちも飲み込んで、大丈夫と綺麗に微笑う人に、真実必要なものが何か、いつも思う。 言葉を交わさず距離を置くことを許し、少しだけ自由でいることを黙認する間に、彼女は何を思うのだろうかと。 膝をついたままでいる景麒に、陽子は腰を落とすように敷物を軽く叩く。 すべての諦めに小さく息を吐き、景麒はそこへ座り込んだ。 その背中に、軽い衝撃が襲う。 わずかな重みと温かさに驚いて首を捻ると、自らの膝を抱いた陽子が背中合わせに座っていた。 視線に気付いているはずなのに、陽子はそれをあっさりと無視した。 無言の返答を受け取って、景麒は正面に向き直る。 薄暗い室内で無機質な壁を見上げ、自然と小さな窓へと目が行く。 そのまま、背中の陽子はじっと動かなかった。 窓から注ぐ光を見つめたまま、時間がひどくゆっくりと流れている気がした。 窓があまりに高い位置にあり、小さいので、外の様子は一切わからない。 「みんなには、迷惑をかけてる。すまない」 謝罪する声が背中越しにはっきりと伝わり、躰に力が入った。 「いえ、あまり……お気に病まずに……」 そう応えた自分の声も緊張も、同じように伝わるのかと思うと動転した。 預けられる背中は小さく、温かい。 深く、気息を整えている気配を感じられる。 ああ、と自らの口から吐息がこぼれた。今だから、わかる。 予感がした、これから、始まりを告げる一滴が降ると。 「不矩と、話をした」 硬質な声が、ぽつりと告げる。冷たい雨が、降り出した 彼女が獄舎まで赴いた事実に、驚きはなかった。 むしろ陽子なら、当然のことだと思えた。 「誰も関係ないよ。私が自分で、秋官に掛け合ったんだ。景麒は知ってるだろうか、外形は不矩と同じ歳位の、賀白(かはく)という女性だ」 言われておぼろにだが名前に心当たりがあり、景麒は頷こうとして思い直し、短く応えた。 陽子が引合に出した人物は、不矩と同じく、秋官の一人だった。景麒は面識がなかったが、名前だけは聞き憶えがあった。 それは彼女が非凡な才を持つ人物だったからだった。 それに伴なって、情に冷たいということでも、有名だった。 真実か否か、景麒は彼女を知らない。けれど語りの中に表れる賀白は凛然として潔い人柄のように感じられた。時に口汚く罵られるのは、信じぬ物に決して屈しない人柄だからなのだろうとそう思えた。 「賀白は、頭がよくて、はっきりした人だ。そして必要以上に遜ったりしない……説得するのは大変だった。私が王でなかったら、我侭を聞いてもらえなかったかもしれない」 陽子の口から、自嘲するような笑みがこぼれた。 溜息をつきかけて、景麒は止める。今はどんな些細なことさえ筒抜けだったから。 不思議なことに、こうしていると顔を見合わせているよりもずっと、相手の感情が理解できた。 陽子の言葉は、薄い氷のようだった。 真実の上に、美しい装飾で淡い蔽いをしているかのような。 蔽いの下に、何があるかは明白だった。 氷は薄く透明で、少し目を凝らせば下が見える。 王でなければ、こんなことにはならなかったのに 「何を」 話したのか、と。問いかけに、陽子は吐息をこぼす。 記憶を、忠実に呼び起こすために。 「……感謝と、お別れを。不矩とは、それだけ」 声が、ふつりと途切れた。 低く落ちた声音に、不矩の意思を覆せなかったことが滲んでいた。 不矩に下された刑は、有体に言ってしまえば極刑だった。 弑逆を企てた者たちの首謀者として、どうかそうして欲しいと不矩自らが望んだことだった。 不矩は法によく通じている。そして他でもない本人の希望であって、犯した罪の重さは計り知れない。 心許せるものが少ない王宮の中にあって、傍近い友人たちや女官長の玉葉に次いで、不矩は陽子が信を寄せる者の一人だった。 温和で知慮があり、物腰は柔らかく誰からも好かれる人格者だった。 だから未だに、事の真相は何なのだろうかと消化しきれない気持ちがある。 陽子が不矩を好んだ最初は、その名の響きだった。 陽子の名と同じく、こちらでは少し不思議な響きの字は、あちらでは『福』の音と同じくなるという。 あちら風の響きを持ち、幸いを意味する名を、陽子は好んだ。 そして永遠に失った母と同じくらいの外形を持った、優しい女性。 心を許さぬほうがおかしかった。 人の心は常に移ろう、善にも、悪にも。 見えぬものを、確かに知る術などなく。 「不矩は、やり直すには長く生き過ぎたと言ったよ。もう、充分だと。あまりにたくさんのことがありすぎて、すべきことを見失ってしまったのだと。だから……私が女王であることは、私の責ではないと……」 最後の言葉が、弱く消える。彼女の周りには、絶えず人の欲が絡みつく。 負った役割が、彼女の本質とは関係なく、彼女を苛み続ける。 かける言葉が見つからず、景麒は風の通らない房室に落とされる陽子の声を、ただ聞くしかなかった。 不矩という名は、何物にも定まらぬ、という意味合いを持つ。 いつしか知らず『枠』に己をはめ込んで生きてしまった、道を違えたその事実が、不矩が減刑を拒絶した理由だろう。 例えば陽子を女王という枠に嵌め、けれど陽子本人を知り自らの過ちに気付いて、罪を悔いたように。 苛烈な名が示すように、決意は翻らないのだと景麒にはわかった。 「何を言ったらいいか、全然わからなかった。でも仙籍を抜けて、ただの人として生きる道だってある筈だ。自然に老いて、いつか死ぬ定めを彼女は享受すべきだと思った。だってまだ、何も事は起きていなかったんだから。たとえもう二度と逢えないとしても、私は同じ空の下で、不矩に生きていて欲しいと思ったんだ」 語り続ける陽子に、そうではないと告げようとする声を飲み込む。 同時に、彼女はどこまでも優しい人なのだと、抉られるような哀しみが胸を侵食し始めていた。 「罪を裁くのは秋官の定めだと、いつか自分でも言ったな。けど、願わずにはいられなかったんだ。不矩が望んでないと知っていても、それは正しくないと思って、賀白に頼んだ。たとえ愚かだと言われてもいいとそう思ってたんだ。莫迦だと、自分でわかっていたから」 背中の境界を失くして、彼女の驟雨のような感情が荒く弱く、景麒の胸臆まで届いていた。陽子はそれに、気付いてはいない。 「賀白は私の話を最後まで聞いてくれた。でも、その応えは不矩が選んだものと同じだった。諦めてくださいと、彼女は言ったんだ」 声からは感情の響きが削ぎ落とされ、言葉の内容とは裏腹に、ひどく事務的なことを話しているようなそんな奇妙な感覚があった。 「食い下がる私に、賀白は厳しい顔で一言、こう言ったよ」 『あなたはいつから、麒麟になったのですか』と その瞬間に、一体何を感じたのか、憶えていない。 ふつりと白くなった意識に色を与えたのは、やわらかい熱だった。 硬く握った拳の上に重ねられた陽子の手は、何故か熱かった。 「呆然とする私をきつく睨んで、それから糸が切れたようにその場に頽れてしまうと、賀白は、顔を蔽って泣き出したんだ」 意外な話にゆるんだ拳を、陽子はあやすように軽く叩いた。 「……賀白と不矩はね、同郷の、幼馴染なんだそうだ……」 心を、射抜かれる。 不矩は賀白だからこそ心残しなく後を託そうとし、賀白は不矩だからこそ、もはや何も出来ることはないのだと知っている。 拍子を取り続ける陽子の手を、景麒は捉まえた。 痛い、と小さく抗議の声があがり、わずかに力をゆるめた。 こうして彼女の手を取る時、小さな手だといつも少し驚く。その外形に見合った、女性らしく、優しい手であると。負った定めの、何という重さかと。 「本当に……なんて言ったらいいのか、未だにわからないんだ。血の通わない人だって陰口を叩かれる賀白が、人目も気にせず、ずっと子供みたいに声をふるわせて泣いてたんだ……」 「主上は……彼女が落ち着くまで、ついていらしたのですか……」 「賀白は、もう一度、不矩と話をするべきだと思ったから」 迷いのない、毅然とした声が返ってくる。 それに景麒は真直ぐに顔をあげ、小さな窓を仰いだ。 矩形の光の注ぐ、その場所を。 そうして陽子の心を想った。 「私も、そう思います」 小さな手が景麒の手の内で、かすかにふるえた。 まだ熱い指に、指を絡めた。どこへも行かぬように、ここに、繋ぎとめるために。 「もうすべてが覆せないのなら、罪人と秋官ではなく、互いに、ただの人間であっていい筈です」 繋いだ指先が小さく動いて、深く息を吸い込む背が、大きく上下した。 驟雨がけぶるような霧雨へと変わり、いつしか止んで行くように、それきり小さな房室に、沈黙が降りてきた。 向かい合わせの背も、絡めた指もそのままで。 世界で一番遠くて近い場所に、甘んじて、二人でいた。 その沈黙が長く続いたあと、ふいにさくり、と果実を齧る音がして、林檎特有の瑞々しい香りが鼻先をかすめた。 「甘い……」 思いの他やわらかい声がこぼれて、景麒は知らず安堵の息を洩らした。 陽子はそれきり黙ったまま、時折、林檎を口にしていた。 空気はゆるく、さざめいていた。 声も気配も、まるで変わらぬものではあったけれど、ほんのわずか、雨の気配が感じられた。 床に映し出された長方形の光の中に、鳥の影がゆっくりとかすめて行った。 それを目にして、景麒は一度、目を瞑った。 ここへ来て、長い時間が経っていた。 慣れてしまったのだろう、いつの間にか、甘い林檎の香りを感じなくなっている。 「この場所は、不矩に教わったのですか」 やんわりと切り出した問いかけに、陽子は小さな声で頷いた。 「不矩は、私が王として学ぶべきこと以外に、子供と接するみたいに、他愛のない話もしてくれた。ここは、そういう話の中に出てきた場所の一つだ」 彼女の応えに、景麒は静かに目を開ける。 刑は今日、施行された。陽子は立ち会うことを、許されなかった。 あの時、その背を追うことが出来なかったように。 ここは、後宮の奥深く。 忘れ去られた場所の更に奥、公然の秘密とされた、房室の一つ。 外からも中からも、鍵のかかる、小さな房室。 逃げ出すことが出来ぬよう、窓は小さく、高い位置に配されている。 「お前は、優しいね……」 こぼれた声に、笑みが混ざる。その唇がどんな表情を浮かべているのか、まざまざと想像できた。 熱いほどの熱と、声の響き、ふるえるようにさざめく空気と。 不矩の胸の内を思い、賀白の喪失の深さに胸を痛め。 二人のために出来ることがない事実に、自分を責めて 光の中を、鳥影が過ぎていく。 それを認めて、景麒は遠く、蓬山に居た頃、女仙がこぼした伝承を思い起こした。 その時は、ただの戯言だとしか思えなかった。 はるか彼方に目を向けながら、白い頬に透明な雫を滑り落とした女仙の横顔だけが今も鮮やかに灼きついている。 その横顔に陽子が重なった時、景麒は吐き出す息が、喉をふるわせているのに気付いた。 「主上……昔話を、ご存知ですか?」 「……お前の話は、最初から飲み込めた試しがないな……一体どんな話だ?」 笑い混じりに陽子は訊ね、景麒は応えのために、浅く息を整えた。 「鳥と、死者の話です」 「それは、知らないな……」 絡まったままの指に、軽く陽子の爪が食い込む。 それは陽子が緊張を憶えながらも物事に向き合うとする時の、小さな癖だった。 彼女も知らない『了解』を受け取って、景麒はその眼差しを、降り注ぐ光へと向けた。 「魂魄は、肉体の軛から解放されれば、どこへ行くも自由です。死者の魂は鳥の翼を借り、はるか遠くへと旅をするものだと言われています。風に吹かれながら、心の望む場所へと、そうして巡っていくのだと」 「……どこへでも?」 「どこへでも、自由に」 こわばった指から少しずつ力が溶け、するりと抜け落ちた。 けれど重なり合った手は、そのままで。 そっと振り向けば視界の端に、林檎のように鮮やかな赤い髪が目に入り、同じように首を巡らせた彼女の、緑の眸と出会う。 静かに閉じられた眸から滴り落ちた雫は、あの時の女仙と同じように音もなく消えて行った。 「これは、誰でも知っている寓話です」 「そう……ならば……」 呟く横顔に、ほんの少し、淡い微笑が現れる。 それはささやかな、希望の光のように。 こちらの人間は、些細なことで神に祈ることも、感謝を憶えることも少ない。 けれど彼女は誰かの幸福を願うのと同じように、祈ることを忘れない。 景麒は躰を起しながら後ろへ捻り、自らの腕の中に陽子を引き寄せた。 彼女の細い手を取り、林檎の香りのする指先に、そっと唇を寄せる。 「少しお休みを。眠っていないのでしょう、ずっと」 額を胸に押し当てたまま、陽子はゆるく頭を振り、やがてその虚勢を終えるべく、肩から力を抜いた。 それから無防備なその肩がほんの少し揺れて、再び、雨の匂いがした。 アシメトリー Novels [1] 『矩形』という言葉と初めて出逢った時、これを印象的に使う話をいつか書いてみたいと思っていました。 不矩の名は日本画家の秋野不矩から。賀白は清楚な姿の白い椿花、久賀白(ひさかしろ)から借り受けました。 07.08.25 |