矩形の光 [1] たとえば大切な何かを失った時、人はどうすることが正しいのだと、他人に言うのだろうか。 齢は四十路にとどこうかという、外形を持った女だった。 仙の実際の歳は、見た目ではわからない。 時を止めた王の下で共に長く政を治めるべく、仙籍に名を連ねる者もまた、時の流れから切り離されるからだ。 女は予青の前より長く慶の王朝に名を連ね、先の王の勅令によって一時的に失職するまで長く、秋官を務めていた。 やがて予青から赤楽へと朝は変じ、女は復職を許されたものの、それは秋官としてではなかった。 穏やかな人柄と豊富な知識を見込まれ、新王の傍近く、女官と教育係を兼任するという、大義を預かった。 慶は、女王に恵まれない。 そんな中で新たに立ったのは、少女の面影を色濃く残す、胎果の娘だった。 女は、望みを抱かないことに慣れきっていた。 そう、慣れていた、筈だったのに 断りを告げる取次ぎの女官の声に、陽子は応え、堂扉を振り向いた。 何かの儀式を髣髴とさせるように、大きな堂扉がひどくゆっくりと開かれる。 そこによく見知った女官の姿を認めた陽子は軽く手をあげて頷こうとし、彼女にはひどく似つかわしくない付き添いの姿を認めて、小さく口を開けた。 質素だが、それでも趣味のよい装いをする彼女の髪には、花鈿の一つさえ今はなかった。 凛と顔をあげ、歩く彼女の両脇には、どうしてか兵の姿がある。 「どうした不矩(ふく)、何か大事が?」 思わず走り寄った陽子の前に兵が進み出、不矩と呼ばれた女の姿を背に隠した。 その不自然さに、陽子の足が固まる。 「これは……何だ」 「主上、これ以上お近付きになりませんよう」 「不矩、これは何なんだ」 後ずさり、陽子は語気を荒げて二人を隔てる兵を睨んだ。 主の勘気に触れ、兵は弾かれたように不矩の脇へと戻り、ひどく静かな目をした不矩の姿をそうして陽子の前へと現した。 「主上」 その時はじめて、不矩が口を開いた。 陽子は穏やかに微笑んだ不矩を、真直ぐに見返した。 「主上、お暇のご挨拶に参りました。この者たちに咎はございません。彼らは、正しい行いをしているのですよ」 「不矩……?」 「勝手なことと知りつつ、最期にお別れを申し上げたかったのです。冢宰には、深くお礼を申し上げなければ」 微笑む不矩の顔には、一点の曇りもない。 辛い時、いつでも陽子を支えてくれた笑顔、そのものでしかなかった。 「私はあなたを弑奉ろうとした、罪人でございます。主上、ありがとうございました、私は主上のお陰で過ちに気付くことができました。どうかよき国を、台輔と共に」 膝を折った不矩はそのまま、この国では禁じられて久しい伏礼をした。 彼女の頭が恭しく垂れるのを、陽子は愕然と見つめていた。 美しい所作で立ち上がった不矩は言葉もなく立ち尽くす陽子に深く礼をし、そのまま踵を返した。 陽子はただそれを、目で追うことしか出来なかった。 気付けば兵に付き添われて、堂扉の向こうに不矩の背中が消えようとしていた。 「こんなこと、嘘だろう!?」 噛み付くような叫びに、不矩の背が一度だけ、ふるえた。 けれど不矩は振り返ることなく、兵に付き添われて消えて行った。 後に残ったのは混乱と、抉られるような感情だけだった。 その毅然とした背中を追うことは、陽子には許されていなかった。 こぼれた水は、もう戻らないんだ。 いつか主の口からこぼれたそんな言葉に、強い思いを感じた。 まるで自らにいい聞かせるように、彼女はその台詞を呟いた。 それはあちらではよく知られた故事によるものらしかったが、景麒はその詳細を知らない。 むしろそれをどんな思いで呟いたのか、そちらの方が気がかりだった。 少し前、困惑気味な面持ちをした女御の鈴が、女史の祥瓊とともに広徳殿を訪なった。 それを告げられた時に己の内に走ったのは、やはり、という思いだった。 「主上が、雲隠れなさったと?」 「……申し訳、ございません……」 「責めている訳ではない」 そう呟いた自分の声が存外冷めていることに歯噛みする気分を味わいながら、景麒は唇を結んだ。 全てのことを全員が胸に収めていたので、誰となく、重い沈黙をあげることもなかった。 信を置いた者の裏切りは、これがはじめてのことではなかった。 女王を忌避するこの国で、陽子は未だ幼い。けれど何をするにも心を尽くし、懸命だった。 それは、誰の目にもあきらかに。 誠実さは彼女の生まれ持った性質だった。 それが好ましく映ることも頼り無く映ることも、見る者の問題だと、少なくとも傍でずっと彼女を見てきた景麒は、そう感じていた。 「誰も、陽子がどこにいるのかわかりません。気持ちは痛いほどわかります、でももう……」 「それが昨晩から、だからか」 「ご存知だったのですか」 弾かれたように顔をあげた祥瓊は、次いで慌てて口を閉じた。 景麒はそれに、気付かぬふりを装った。 わからぬ訳が、ない。 いつでもどこにいても、生きてさえいれば彼の人の元へと行ける。 けれどそれを、主は時にひどく厭った。最初の人も、今の人も。 だから常に躊躇いが、足を縫いとめた。 「……お帰りいただこう」 長い沈黙のあと、景麒は自分でも思いもしなかった台詞を紡いでいた。 軽い驚きに伏せがちだった視線をあげれば、どこか不安げだった二人の顔に確かな安堵の色が見て取れた。 「よかった……台輔だけ、ですから」 何のことかと鈴に視線を向ければ、彼女は黒い双眸を細め、微笑んでいた。 「陽子がどこに行っても、迎えに行ってあげられる人が、ってことです。心配かけたくないって言いうくせに、どこに行くのか、いつも言ってくれないから。あんまりひどいって、いつも思うんです」 皮肉が散りばめられた声は優しく、少しの呆れが塩のように利いていた。 それがひどく鈴らしい、と景麒は感じた。 隣に立つ祥瓊が、堪え切れずに笑みをこぼした。 その表情に不安定さが残るものの、表情は明るい。 「ありがとうございます、台輔」 「礼を言われることでは……」 否定を込め、軽く手をあげると、二人はそろって首を振った。 「どうか、よろしくお願いします」 そうしてこの国で許された、最上の礼を取る。 景麒はそれに、短く了承の意を返した。 アシメトリー Novels [2] 07.08.25 |