中空の風景 [2] 祥瓊は短く声をあげた後、悲鳴を飲み込むのに手で口を蔽うと呆然とその場に立ち尽くした。 回廊は水の底のように、静まり返っている。そこに佇むのは祥瓊、ただ一人きりだった。 目の前に居たはずの景麒の姿は陽炎のようにゆらぎ、祥瓊の前から溶けるように消え失せた。 まるではじめから何も存在していなかったかのように、一つの影も残さず、見つめる先には誰も、何もなかった。 「どうして……まさか台輔……っどうしよう……!」 思い当たるのは簡単だった。 事実に気付いた途端、祥瓊は青ざめ、膝から力が抜けるのを感じた。 だが、その場に崩れ落ちそうになる寸前に膝を叩き、乱暴な手つきで涙を拭った。 慌ただしく走り出しながら唯一すべての事情を知る、友人の姿を求めた。 仕事中の友人の姿を見つけると、祥瓊は子供のように走り寄った。 周囲の視線を一心に集めていることを気にも止めず、祥瓊は驚いた様子の鈴の両腕を、しっかりと掴みかかった。 「どうしよう、どうしよう鈴、大変なことになっちゃったの!」 「祥瓊、わかったから落ち着いて。ゆっくり深呼吸して……」 言われるまま祥瓊は肺一杯に新しい空気を吸い込んでは吐き出した。そんな祥瓊を見守りながら、鈴はちらりと周囲の人間に目配せをした。 そこにいるのは気心の知れた女性ばかりだったので、誰もが心得たように頷くと、静かに堂室を出て行った。 それを確認すると鈴は再び祥瓊に向き合い、彼女の手を引いて榻へと連れて行く。 膝を向き合わせるようにお互い斜に腰掛けて、そこでようやく鈴は祥瓊に一体何が起こったのかを訊ねた。 動転していた祥瓊は、息を整えると目の前で起こったことを順序だて、話し始めた。 「陽子に口止めされてたのに、絶対に誤解されるから、蓬山へ行くことを内緒にしてくれって。まさか台輔が私の様子を気にかけるなんて、そんなこと思いもしなくって」 「祥瓊のせいじゃないわ。台輔が冷静でいられなかったのも、無理ないことよ。台輔は一度、最初の主をそうして失っておいでだと聞くから……それにしたって、まあ、驚いたけれど……」 歯切れ悪く、鈴の声は自然と小さくなった。 「ねえ、どうしよう、鈴……」 表面上は落ち着いて見えるとはいえ、動揺は深いのだろう。 不安に揺れる双眸に透明な雫が盛り上がって、重力に耐え切れずにぽたぽた、と膝の上に落ちた。 消え入るようなか細さに、鈴は苦笑して、涙が流れた頬を手のひらで拭ってやる。 蓬莱にいた頃の、家族の遠い記憶が一瞬だけかすめて鈴はまた、小さく微笑った。 「大丈夫。陽子は台輔が思うような理由で、蓬山に行ったわけじゃないもの。だから泣かないで。ちゃんと二人で帰ってくるわよ、喧嘩くらいはするかもしれないけど」 「あんなに陽子に頼まれたのに……私のせいで台輔にだって、しなくてもいい誤解をさせて……元はと言えば、全部私のせいだもの……」 きつく拳を握り締める様子に、強い自責の念が見て取れた。 細い肩に力が込められているさまは、どうにも痛々しかった。 「そんな自分を責めるもんじゃないわ。大体陽子だって悪いのよ、ちゃんと言えばいいんだわ、自分の口からね。そうだったら、こんなややこしいことにならずにすんだもの。さあ、起こったことはしようがないわ、何とかしなくっちゃ」 存外にきっぱりと言い捨てた鈴に、祥瓊が目を丸くして口をつぐんだ。 「言うわね、鈴……」 「甘やかすとためにならないもの。今この瞬間、実証されてるでしょ? さあ、私は遠甫のところへ相談に行くから、あなたは桓堆のところへ行ってよね」 「なん……どうして桓堆なの? 浩瀚さまでしょ、普通は!」 途端声を張り上げた祥瓊に、鈴は綺麗に作られた微笑みを唇に浮かせる。 気付けば終始、鈴が話の主導を取っていた。 「この時間なら、今日は浩瀚さま、桓堆のところへいらっしゃる筈だからよ。一石二鳥でしょ?」 「待って、意味がわからないわよそれ。大体どうして鈴がそんなことを知ってるのよ、いつもいつも」 青ざめていた頬に朱をのぼらせ、祥瓊は鈴に食ってかかった。 けれど鈴はそんな祥瓊にもう一度、それは和やかに微笑んだだけだった。 その笑みを目の当たりにし、祥瓊は子供のように膨れた顔をした。 「……わかった、行ってくる。せめて、これ以上ややこしいことはないようにしないといけないし。その前に、顔を洗いたいわ。気持ちを切り替えたい」 「ああ、そうね。急いだところでどうということではないし……じゃあ、私は皆に少し説明をして、それから遠甫のところに行くから、祥瓊はそっち、お願いね」 「うん。あのね、鈴……」 そっと小さな声で囁くので、鈴は思わず、祥瓊の方へと耳を寄せた。 はにかんだ祥瓊が、すっと、息を吸い込む。 「どうもありがとう、鈴」 ささやかな礼に鈴は一瞬きょとんとし、次いで力一杯首を振った。 「お互い様だよ」 こんなの反則だとこぼした鈴に、二人は面映ゆく、苦笑をこぼすしかなかった。 視界の先は見通せぬ、深い霧に支配されていた。 乳白色の靄が一面に立ち込めて、色濃い夜と朝の境目を覆い隠している。 空気は冷涼と冴え、胸深く吸い込むと、眠気の残る躰が芯から蘇っていく気がした。 自然と夜着の上に羽織った薄物の襟をあわせ、陽子は蓮の咲く泉の淵をゆっくりとたどっていた。 思いもかけず六太の付き添いを得て、陽子は今、蓬山に居た。 慣れない環境に精神がざわめいているのか常よりも早く目が覚めて、それをついでに外へと一人、散策に出ている。 ここはおそらく、この世界でどこよりも安全な場所だった。 麒麟が生れ落ち、そして主と出逢う、それだけのために存在する約束の地。 実際陽子とその半身は、随分と変則的な出逢い方をした。 お互いの印象は、最悪だったように思う。 あの頃はまだ、自分の足元だけが世界のすべてだった。 まだ何も、知らなかったのだと 爪先で小石を蹴ると、泉に落ちて大きな波紋が生まれた。 深くから湧き出る水は澄み、思わず溜息がこぼれるほどだった。 手のひらですくうと、それは思うほど、冷たくはない。 考えれば考えるほど、ここは不思議な場所だった。 通常蓮の花は、澄み切った水には育たない。けれど水面から細い首筋を擡げる蓮の姿は、造化の妙としか言いようがなかった。 やわらかく膨らんだ蓮の花に、陽子は指先を落とす。 水気を含んだ花の肌はすべらかで、少し、天鵝絨の感触に似ていた。 朝靄の中にいて、陽子自身も霧雨が降りかかったように濡れている。 結いもせず流した髪に触れると、いつもよりいっそうやわらかな感触がした。 吐き出す息が白いのか、吐き出した息が靄をくゆらせるのか、もうよくわからない。 この静寂の中の孤独が心地よくもあり恐ろしくもあるような、すべての感覚が曖昧だった。 遠くに目をやれば何かしらの輪郭が、靄の中にぼんやりと映っている。 それがはたして実際に形を持つものであるのか、それとも幻であるのか、すべてが不確かだった。 無意識に手を前へと伸ばして、もどかしいほどゆっくりと陽子は歩いた。 心の中の、迷いの内を歩くように。 目をあげると、少し遠くに、何かしらの影を認めた。 六太だろうかと陽子が一歩を踏み出すよりも早く、それは陽子の傍へと来、その正体をあきらかにした。 乳白色の世界の中でその存在が確かなものになった時、陽子は心から瞠目した。 「あ……」 予期しない声が、喉をふるわせた。 全くの空位がない時でさえ、世界に十二以上存在することのない高貴な獣の姿が、今、陽子の目の前にあった。 麒麟 優美な体躯に、雌黄の毛並み。乱れた金の鬣の色は淡く、月光のようなその色に、陽子は思いもかけず、懐かしさを憶えた。 真直ぐに見返す紫の眸を覗き込む内に驚きは去り、どうしてか、自然と笑みがこぼれて落ちる。 自分でも、その理由はよくわからなかった。 向き合う眸がわずかに瞠られたのに気付き、陽子はまた、やわらかく微笑んだ。 「景麒、どうしてこんな所に? 祥瓊にくれぐれもよろしくって頼んだんだけど、何かあったのか?」 手をのばし、陽子はそっと景麒に触れた。 手のひらの下でびくりと身のふるえるのが感じられ、触れた肌が熱いことに、すぐに気付く。おそらく彼は慶から、休む間もなくここへと駆けてきたのだ。 他ならぬ、自分を目指して。 陽子は優しく首筋を撫で、共にその場に腰を下ろした。 「楽にして、私に寄りかかっていいよ。お前は軽いから、気にすることはない」 冗談を口にしながら、眼差しを伏せたままの景麒に陽子はそっと身を寄せた。 彼が獣形であるということと、気にしなければならない人目がないことが、陽子に自然とそうさせた。 はじめ景麒は身を強張らせていたが次第に力を失い、長く息を吐き出すと、そっと目を、閉じた。 間もなく、沈黙が訪れた。だがそれは、濃霧の中に吸い込まれていくような穏やかなもので、決して窮屈なものではなかった。 「……どうしても知りたいことがあって、ちゃんと真実がわかるまで話したくなかったから、祥瓊に頼んだんだ。私が蓬山へ行くことを、景麒には話さないでくれって。その様子だと、何か一悶着あったみたいだね」 そろりと覗き込みながら問いかけると、応えの代わりに、長い溜息が洩れた。 そっと鬣に指を滑らせながら、陽子は吐息を洩らした。 「お前の不安は、仕方がないことなんだろう。私には完全に理解してやることが出来ないけど、でも……」 言葉を途切れさせた陽子を、静かに目を開けた景麒が見つめた。 「何が、ありましたか?」 労わるような深い声が、陽子の耳にすとんと収まった。 気遣いの滲んだ声は、倒れた花瓶の水のように広がり、心の中に凝っていたものを一気に押し出した。 小さな痛みに、陽子は無意識に否定を口にしようとして、やめる。 その仕草の全てを、景麒は黙したまま見守っていた。 「お前は……どうして私が蓬山に来たのかって、聞かないの?」 思うよりずっと硬い声が、ひずんで落ちた。 なぜこんな言い方しか出来ないのかと、我がことながら嫌気が差した。 「主上がお話になりたいと思うまで、お聞きしません」 淡々と静謐な声が、返ってくる。それが、景麒の返答だった。 触れたままの景麒の躰は、まだ熱い。 その熱が、今の陽子には丁度よかった。 「祥瓊は、様子がおかしかったんだろう? お前が、それとわかるくらいに……」 「私から見た限り、憤っているようでも、深く悲しんでいるようでもありました」 陽子はそれに、慶にいる筈の祥瓊に思いをはせた。 その様子が容易に理解できて、胸が痛んだ。 「どうしてだろう、こんなふうに、祥瓊もお前も傷つけるつもりなんてなかったんだ。これは私の我侭だけど、それでも私はここにこなくちゃいけなかったんだ。そうじゃないと、先へ進めない気がして」 話している内に己の不甲斐なさがこみ上げてきて、鼻の奥に痛みが走った。 奥歯を噛んで、陽子は空を仰ぐ。 泣くのは、違うと思った。いっそ泣いたら気持ちが落ち着くかもしれない。 けれど景麒の前で、そうしたくはなかった。 ややあって、景麒の声が触れ合った躰から、静かに響いて伝わった。 「芳の麒麟、ですか」 「……そうだ。芳麒の身について、はっきりしたことを蓬山の女仙たちから聞きたかった。だからここへ来たんだ。祥瓊は怒っていたよ、私は慶の王なのだから、そんなことをする必要なんてないのだと泣かせてしまった。そんな彼女を説得してここまで来たけれど、結果は、限りなく悪い」 「卵果は流れた……と?」 「祥瓊も、薄々は感じていたようだ。そしてそのことを、自分の罪だと感じてるみたいで……そんな訳、ないのに」 自嘲気味に唇を歪めると、こちらを見上げる紫の目と出逢う。 心の内を見透かされるような気がして、心臓が大きく脈打った。 「祥瓊の責ではありません。これは……仕方のないことです。そして、あなたの責でもない」 一定の温度の保たれた声は夕凪のように力を持たず、陽子の中を通っていった。 彼がどんな人物か、陽子はよく知っている。 彼は、器用な人ではない。本当に、いつも真実だけを口にする。 たとえ真実が、優しいものではなくても。 それが今どれだけ陽子を救ったか、景麒はきっと知らないだろう。 これほど虚飾をもたずに語られ、そして信じられる声を、陽子は他に知らない。 「ごめん……」 「……何故、謝罪される」 かすれた声に、驚いたような景麒の声があがった。 「聞くな。謝りたかったんだ、それだけだから」 向けられる視線から逃げて、陽子は唇の端を吊り上げる。 それが精一杯のことだった。今ここでは力も肩書きも、何の意味を持たない。 世界の理の中で、自分がどれだけ無力な存在であるのかを痛烈に思い知らされた。もはや祥瓊のために出来ることはただ、真実を隠さずに伝えることだけ。 彼女は、最初からわかっている。陽子もまた、覚悟はしていた。 けれどこれは、淡い希望を打ち砕くだけの意味しかない。 麒麟が、いない。 その絶望を、陽子はきっと本当の意味で理解は出来ない。 それでも、それがどんなことなのかはわかる。 麒麟は、この世界の人々が生きるためのよすがだった。 陽の光のように見上げずとも照らし、温かい熱を与えてくれる、生きていくために必要な存在だった。 陽子は景麒に寄り添ったままうつむいて、目を伏せる。 朝靄は未だ濃く、露出した肌がしっとりと濡れていた。 それでも寒くはない。まどろむように、心地よかった。 「……ここまで来てくれて、ありがとう」 景麒はすっと息を飲み込んだ後、不思議そうに陽子を見返した。 なぜ礼を言われるのかわからない、と言いたげに。 言葉の代わりに、陽子は伸ばした腕を彼の首筋に回し、頬を寄せた。 驚きに身を強張らせ、景麒はくぐもった声で陽子の名を呼ぶ。 その戸惑いが新鮮で、陽子は声を立てて笑った。 「いいから、しばらくこのままでいて」 「こんなに朝早く、何をなさっておいででしたか」 景麒には珍しく、感情の感じられる声音で問われる。 どこか困ったような、怒ったような。 手に取るように困惑が感じられる、そんな声の調子だった。 陽子はそれがおかしくて、笑うのをこらえるのに大きく深呼吸をした。 「早くに目が覚めてしまっただけなんだけど、せっかくだから、前にお前が言っていたことが本当かどうか、確かめてみようと思って」 「私が……ですか?」 「そうだよ。でも結局、見逃してしまった。いや、聞き逃してしまったと言うべきかな」 つと持ち上げられた陽子の指先を、景麒は追う。陽子の指先が示した先にあったのは、よく馴染んだ花の姿だった。 それは濃桃色の蕾を開きかけた、蓮の花だった。 その姿に気付けば、涼やかで甘い、花の香りが急に感じられた。 「ほとんど気配のようなものなんだろうね、さっきまで蕾だったのに」 「機会はまた、いつでもあるでしょう」 静かに言うのに、陽子はうんと頷いた。 逃れることを諦めたのか、腕の中にある躰から、ゆるやかに緊張は解けていた。 そのまましばらく、会話もなく、二人は蓮の花を眺めていた。 乳白色の霧に時折霞むその姿は幽玄で、まるでこの世のことではないかのような気がした。この穏やかな時間、そのものさえ。 「……いずれ芳麒が帰還すれば、主上と同じ、胎果です」 唐突な発言に、陽子は腕を回したまま驚いて顔をあげた。 「泰麒と同じように。その時には、主上は誰よりも、彼の力となられるでしょう」 「……そうだと、いいけど。もしそうだと、いいな……」 わずかに声がふるえていたのに景麒は気付かなかったのか、知らぬふりを決め込んだのか、そっと、陽子へと身を預けた。 委ねられた躰の温かさに、自分の躰が冷たいのだと、陽子はやっと気付く。 景麒は少し低い陽子の体温に、彼女が過ごした夜の冷たさを思った。 首筋に回った細い腕に、わずかの力がこもるのを感じながら。 アシメトリー Novels [1] 『蝶々の休息』とわずかに重なっているお話になります。 転変する景麒を書いてみたくて書き始めた話でした。 タイトルは、ここではない何処か、という雰囲気が欲しくてこれになりました。 07.08.18 |