中空の風景 [1] 隣国の雁より、鸞が一羽慶に飛び来る。 発信人は主の慶王、受取人はその宰輔だった。 年若い女王の当極前から長く、雁は慶のよき理解者だった。 共に胎果である王と麒麟とは、そこに五百余年の開きが存在しているとはいえ、女王には故国を同じくするものとしての深い共感があるようだった。 雁の貴人は肩書きをなしにせずとも気安い所があり、両者ともにどうにも喰えない人柄でもあった。 もっともそれは主にも通じるものがあり、堅物と揶揄される慶の麒麟には、馴染めない部分だった。 不快ではない。ただどうしても相容れることが出来なかった。 同じように振舞うことは、景麒には出来なかった。 礼節を重んじるように育てられた身には、公の場において相手との間に一定の距離を保てないことは、戸惑いでしかなかった。 予測が出来ないことも勿論、こちらの意図を容易く読み取られ、杭を打つような真似をされては、苦手と感じないのは無理からぬことだろう。 旅立ちの朝に振り向いた主が、複雑な笑みを浮かべていたのをふと思い起こす。 同じく複雑な思いで吐息をつき、景麒は鸞の囀りに耳を傾けた……。 王からの『書簡』は簡素なもので、滞りなく事態を治められたこと、それが予定より早く片付いたこと、その余剰となった日程を私事にあて、当初の予定通りの日に、慶へと帰還することが伝えられた。 供に大僕の虎嘯だけを残し、随行していた官吏らは早々に慶へと戻ることになると言い置くと、わずかな逡巡の気配の後、謝罪と感謝を囁いて、鸞は無言になる。 どこまでも彼女らしい内容に、景麒は静かに目を伏せた。 ほぼ予測通りの内容だったことに、特別の感心はない。 あるのは、単純な安堵だった。 不吉な予感も危険も、一つもなかった。それでも離れていれば、案じずにはいられない。 性なのだから仕方ないと思う反面、この畏怖を異常だと思いもしている。 この執着を、麒麟という種族ゆえの本能だと言い捨ててしまっても、障りはないのだろうかと。 どれほど離れていても、生死だけははっきりとわかる。 だから、恐ろしいのだ。そして一度、それを経験していたから。 恐怖は、理屈ではない。 人の姿と獣の姿と、どちらも自身でしかない。けれど本性はより獣に近い。 心は決して、本能に逆らえない。 それは決定的に、人と異なる部分だった。 鸞に遅れること一日。 陽子の言葉通り、雁へと随行していた官吏たちが慶へと帰還した。 当然のことながら、その中に、主と大僕の姿はない。 一人を好むことの多い陽子にしては珍しい判断だと思ったが、異なる地でのこと、自らの身を重んじる姿勢は正しく、不自然なことではなかった。 その行為は主に、自分への気遣いだとも取れた。 使令が付き従ってはいても、否を唱えられれば彼らはどんな事態でさえ、その命に逆らえない。 傍に人を置くことを厭う陽子も、大僕は臣である前に友人であり、景麒には何ら異存はなかった。 自らの身を顧みぬきらいのある彼女には、使令では不足のこともある。 その点、大僕ならば問題がなかった。彼女もまた、虎嘯を巻き込むような事態を自然と避けるだろう。 だから、気がかりは一つだけだった。 どこへ行くのか、行き先への説明が一切なかったということ。 だからこそ、虎嘯を伴なったのだとも言えた。 気にかけるだけ詮ないことだと、彼女は快活に笑うだろう。 いつものように、ここへ戻ってきてから話すに違いない。怒らないかと上目遣いに言質を取り、どこで何を見てきたのか、こちらの反応を読み取りながら話をするつもりなのだと、わかってはいる。 待つことには慣れていた筈だったのにと、微かに苦いものが胸の内に広がった。 けれどこれは、幸福なことなのだろうと思えた。 長い時を半ば落胆と諦めとで過ごしていた時には、こんな想いは知らなかった。 どこか気ぜわしかった空気も、いるべき人が元へと戻れば、変わらぬ日常への回帰となる。 それが己には、数日先なのだというただそれだけのことの筈だった。 彼女は今頃何をしてるのだろうかと取り留めなく思い、回廊を渡っていると少し先に外を眺め、佇んでいる人影が目についた。 こちらに気付きもせずに、彼女はどこか遠くを見ていた。 「祥瓊」 呼び声に彼女は大きく肩をふるわせ、反射のように振り向いた。 慌てて礼を取ろうとするのを留め、静かに歩み寄りながら、景麒は祥瓊に、何が見えるのかと訊ねた。 この娘にしては珍しく、どこか睨むような色を帯びていた視線が、気がかりだった。 祥瓊は問いに眼差しを伏せ、何もとだけ、重く呟いた。 声も表情も、どこか頑なな印象が否めない。 彼女と接触する機会が、それほどあるわけではない。 それでも彼女は礼をわきまえた人物だった。 公に戸惑う友人を時に厳しく、時に冗談交じりに支えるこの娘らしくない振る舞いに、懸念は確信へと変わる。 何がこの娘をこのように苛むのか、人の心の機微に疎い景麒にはわからない。 けれど、どこか気にかかる。 水気を含んだように重苦しい沈黙を払うべく、祥瓊は素早く顔をあげた。 「何でもありません、ただ、ただ空を、見ていただけです」 「空を……?」 「特別、意味などありません。とても綺麗だと思ったから、それだけです」 端正な美貌に浮かぶ笑みは、一定の法則を持った数列のように美しかった。 けれどそれは、完璧ではない。 小さな綻びに気付くことは、いつからか景麒の癖になっていた。たとえそれが、主が相手ではなくても。 「何か気がかりなことがあるように、私には見える」 熱を持たない声に、祥瓊はわずかだが身を竦ませた。そのまま彼女はもう、動揺を取り繕う様子を見せようとしなかった。 予期せずして、逃げ道を断ってしまったのだと景麒は悟る。 苦く思うが、それが表情にまで伝播はしない。雰囲気をやわらかく取り繕う言葉が、喉をふるわせることもない。 苦い思いに硬直する景麒には気付かず、やがて祥瓊は諦観したらしく、わずかに眼差しを外すと長く、溜息を吐き出した。 ふいに景麒は祥瓊が、雁へと随行していた官の一人だということを思い出した。 彼女の官職は女史であるが、それはこの場合、面目でしかない。宮廷というものによく通じ、礼を弁え、芯の徹った女性であると同時に、主の最も親しい人物でもあったから。 胸臆に、ゆるゆると重い靄が立ち込める。 王気は、とても安定している。けれど気付けばそれはひどく、遠いような気がした。 「祥瓊、主上はどちらに?」 問いかけに、彼女は小さく首を振った。知らないのか禁じられているのか、それだけでは判別がつかない。だがこれまでの祥瓊の様子が、後者であることを語っていた。 そしてその場所が、彼女にとって好ましくない地であることも。 幾分の苛立ちを込めて、景麒は彼女の名を呼ぶ。 「大僕が追従していることは承知の上、主上は」 「大僕は主上と一緒ではありません。主上とご一緒なのは、延台輔です。虎嘯は慶に、弟の夕暉の元におります」 思いがけない告白に、景麒は言葉を失った。 毅然として言い放つ祥瓊の目には、強い瞋恚があった。 なのに彼女は今にも崩れてしまいそうな様子で、その場に立ち尽くしている。 「主上はどちらへ」 今更だということを充分に思い知らされた上で、祥瓊が逆らえないことをわかっていながら、景麒は詰問した。 彼女が自分へと向ける目が、彼女がかつて失った、自分の眷属の姿と重なることがあるのを、いつからか気付いていた。 彼女もまた、同じ後悔を知る者だった。だから気付くのは難しいことではなかった。 その傷口に踏み入る罪悪感を憶えながら、それでも景麒は引き下がれなかった。 祥瓊はすべてに耐え切れなくなったように突然身を翻したが、逃げ切れないことを悟り、すぐに足を止めた。 強張った肩がいつもより彼女を小さく見せ、呼吸に合わせて不自然に上下していた。 景麒は辛抱強く、その肩から、緊張がほどけていくのを待った。 決して短くはない時間をかけて、祥瓊は一度背を向けた景麒を振り返った。 二粒の眸は潤んで、それでも決意を秘めた目には、強いものが見て取れた。 「陽子が……そんなことをする必要なんて、ないんです。必要なんて、どこにもないのに。何度も何度も、駄目だと言ったのに……!」 途切れた声とともに、涙が一筋、頬を流れて落ちた。 それに気付かないまま、祥瓊は短く喘ぐように息を吸う。 「陽子が一度決めたことを取りやめるなんて、そんなことないってわかっています。でも行っては駄目だと、私には言えなかったんです……」 祥瓊の眸から、堰を切ったように涙があふれて落ちた。 「だって私には、何も、言う資格なんてないんです……っ」 肩をふるわせ、それでも気丈に振舞おうとする祥瓊の傷ましい泣き顔に、景麒の中で、何かがするりと滑り落ちて行った。 冷たい確信に、鼓動が煩く響いていた。どこへともはや、問う必要もない。 景麒は、陽子の麒麟だった。 涙に潤んだ祥瓊の目が、大きく瞠られる。唇がゆっくりと開いて行くのがわかった。けれど景麒が、彼女の声を聞くことはなかった。 アシメトリー Novels [2] 07.08.18 |