ソーヴェスチ 視線を、感じた。 気付かぬふりをしていたがあまりに長くその視線は動かないので、陽子は歩を止め、横を歩く人に鋭い一瞥を与えた。彼は主にならって歩を止めた。 常になく厳しい眼差しを向け、陽子は紅をひいた唇を開いた。 「私の正装がそんなに珍しいか? それともよほど似合っていないのか……言うことがあるならはっきり言え、これは命令だ」 目の前に指を突き出され、硬く張りのある声で言い渡される。 声音の含むものに、景麒は陽子の感情を知る。 相当に、機嫌が悪いらしかった。 金波宮において最高位の女王でありながら、彼女の平素のいでたちは官吏のそれとかわらない。 若い女性でありながら、彼女は装うことを煩わしく感じている節があった。 それでも女王である以上、いついかなる時もそれで通すことはできない。 女王が美しく装うことは公的な義務であると、皆、口をそろえて言う。 陽子はそれに反論はしないものの、あきらかに不満を抱いているのを景麒は知っていた。 誰しも、自国の王が麗しくあることは誇らしいものだ。 それが極々稀なことであれば女官たちの熱の入りようは言うまでもなく、またその姿を目に止めたならば、早咲きの花を見つけたように見入ってしまうのは、心情として無理からぬ話だった。 そうして女王らしい装いをしている間、会う人々にことごとく美辞を受け、誰かれなく視線をおかれるので陽子はその反応に食傷気味だった。 そこへきて、自身の麒麟が皆と同じような視線を投げかけるのが相当癇にさわったらしかった。 「不満などありません。そうではなく、主上……」 主の勘気の前に、景麒は彼にしては珍しく、言いよどんだ。 「なんだ、はっきり言えと言っただろう」 苛立ちを隠そうともせず、陽子は噛みつくように言う。 景麒は溜息をつきかけ、慌ててやめると気息を整えるのに深く息を吸った。 「紅が少し、曲がっております」 「……え? 本当に?」 緑の双眸を大きく瞠り、思わぬ返答に陽子は唇を開いた。 反射的に口元を隠そうとするも手のひらにつくと予想したのか、やめる。 「しばし、動かれませんよう」 短く断ると、景麒は陽子の唇の端に、すっと指をすべらせた。 驚いた陽子は、反射的に景麒のその手を掴んだ。 「な、何をするんだ!」 「もう大丈夫です。ほんの少しのことでしたから」 「そうじゃないだろう、驚いたんだ!」 「ですが、最初に申し上げましたが」 「あれじゃ不十分だ、お前はいつも……もういいや、ありがとう……」 「いえ……」 不自然に会話は途切れ、陽子は顔を俯けた。そのまま、顔を上げる様子がない。結い残した髪が肩から胸へゆったりと落ちていき、あらわになった襟足から細い首筋がのぞいた。 景麒は静かに目をそらすと、陽子から離れようとした。だが手首を掴まれているために、それができない。 「主上、手を、離してください」 聞こえていないのか、陽子の反応は皆無だった。仕方なく、掴んでいる手を引き剥がそうと陽子の手に触れる。陽子は大仰に身をふるわせ、その衝動のまま顔を跳ね上げた。 過剰な反応に驚きながら、景麒は口を開く。 「手を、よろしいですか?」 「あ……ごめん! 悪かった」 ぱっと手を離した陽子は、そのまま一歩後ずさった。まるで、野良猫のような警戒のされようだと感じる。 何か面白くないと感じ、景麒はそんな自分の感情のゆらぎに動揺した。 「……やっぱり、お願いすればよかった……」 ぽつりとこぼされた独白を、景麒は耳ざとく聞き入れた。 視線が合ったことで察しがつき、陽子は景麒に苦く笑んで見せた。 「口紅だけ自分で塗ったんだ。だから歪んだんだろうな、たぶん」 「何ゆえに、そのようなことを?」 「だって、慣れていないから何か変な感じがするんだ。どこを見ていればいいのかわからないし」 「目を、つぶっていれば良いのでは?」 「言うと思った。それもそうだけど、すぐ傍でじっと見つめられている状況というのが、緊張するんだよ」 溜息交じりの陽子に、景麒は曖昧に相槌を打った。漠然と理解はできても、共感することはできなかったので。何かを思いついたらしく、陽子は唐突に手を叩いた。 経験から、景麒は推量する。 また何かよからぬことを思いついたに違いないと、それは確信だった。 ふたたび歩を進めた陽子は、近くの堂室の堂扉を開けた。誰もいないことを確認すると中に足を踏み入れ、手招きをする。 「こちらに」 呼ばれて仕方なく、景麒は陽子の命に従った。 小さな堂室の中、彼女は一脚の椅子の背をつかんで待っていた。 「ここに」 示されるままその椅子に座ると、陽子は景麒に正面に回った。 前に立つ陽子に違和感を感じ、同時に先程の陽子の言葉を思い起こした。 彼女の動きに合わせて、歩揺が軽やかな音を奏でた。 正装している彼女を見るのは、確かに珍しい。だが、似合っていないとは決して思わなかった。 目交いの陽子は、感情の読めない眸でこちらを見下ろしている。 何をするのかと口を開きかけた刹那、突然するりと両手がのばされて、景麒の両頬をそっと包み込んだ。 驚いてその手を払おうとすると、厳しい声で叱責される。 「だめだ、動くな」 その命に、抗いようもなく呪縛される。 陽子はそのまま、覗き込むようにして顔を近づけた。 簡単に触れられるような近さに、景麒は知らず息を殺した。こんなにも近くで、彼女を見たことがなかった。 その近さにも係らず、彼女はゆるがない眼差しでこちらを見ている。あまりに近すぎるゆえに、景麒は目を、そらすことができなかった。 瞬きも出来ずにいると、陽子は近づいたのと同じ唐突さで顔をあげ、頬から手を離し景麒を解放した。 「……ね、わかった? この距離はすごく緊張するだろう? 近さにも戸惑うし、じっと見られて、困惑しただろう?」 その顔には、淡い微笑が浮かべられている。 「驚くのはわかるけど、そんなに引かれるとちょっと傷つくな」 「悪ふざけは大概になさいませ。誰かれなくこのようなふるまいをなさっているのだとしたら、主上には反省なさって頂かねばなりません。あまりに度がすぎます。こんな……」 眦を吊り上げ、恐ろしく低い声で脅す景麒に、陽子は心外だと言わんばかりに片眉をあげた。 「人聞きの悪い。ただ単によくわかるように説明しただけだろう。事前にちょっと詳細を省いただけで」 その言い訳、すべてが問題だった。 あのような状況におかれて、話の前後を冷静に判断できるものなどほとんどいないだろう。 あれが紅をひく人間の真似事だと、誰がわかるのだろう。 同性の親しい友人なら、冷静でいられる分、気付くかもしれない。多少の居心地の悪さを味わうだけだ。 景麒はとても、冷静でなどいられなかった。 「まったく……こんなこと、誰にでもするもんか。信用がないな」 ふわりと微笑んだその表情があまりに見事だったので、景麒はその一瞬で怒気をそがれた。 嘆息して、景麒は椅子から立ち上がる。 「あの……景麒、怒ってる……?」 そろりと上目遣いで見上げる陽子に、かすかに笑んで首を横に振った。 ほっと胸をなでおろす陽子の様子に、景麒はぼんやりと思った。 あれには、自分が最初に紅のずれを指摘したことに対する仕返しの意味も含まれていたのかもしれない、と。 ならばもう、何も言わない方がよいのだと思った。ゆっくり腕を上げると、陽子は不思議そうに首を傾げた。 「何?」 「歩揺が」 そうかと呟いて、陽子は自分へとのばされる手を見ている。 実際にはゆるんでもいない歩揺に手を触れて、髪の一房に指をすべらせ、名残惜しく思いながら、離れる。 陽子が礼を言いかけた時、景麒はぴくり、と身をこわばらせた。 どうしたのかと問いかける前に、廊下に遠く、人の声を聞いた。気配に敏い景麒は、それをいち早く感じただけのこと。 それだけだったのだが、小さないたずらを思いついた陽子は、わざと景麒の傍に寄った。 手をのばし、彼の衣の裾を引く。軽く袖を引かれ、景麒は顔をあげる陽子に目を落とした。 視線を結ぶと、陽子は秘密を告白するようにそっと、囁きを告げた。 「景麒……何だかこれって、逢引みたいだと思わないか?」 その刹那、彼の目が大きく瞠られたのを陽子は見逃さなかった。 ただ一瞬でそれは抹殺され、いつもの無表情を纏うと景麒は陽子から逃げるように目をそらした。 「ずいぶんと、古風な言い回しをご存知ですね」 感情を殺した低い声が、わずかにふるえていた。かすかなそれに陽子は気付くが、触れることはしない。 お互いの常識や価値観がかなり違うことを知っているが、この動揺がどんな意味であるのか、陽子には確信が持てなかった。 一体どこまでならよくて、どこからが駄目なのかと焦燥にかられる。 気付かれては、いけない。これはきっと、彼には重荷にしかならないから。 けれど先程のことは、彼の中でどのように捉えられたのだろうと思った。 陽子はふいに、試してみたい衝動にかられる。 どこまでなら、許されるのだろうかと。 袖を引いた手を景麒へとのばしかけると、突然その手をつかまれた。 思いがけない行動に、陽子は息を飲んだ。 「もうよろしいでしょう、戻りましょう」 そのまま力任せに手を引かれ、陽子は堂室を出る。音を立て、閉まった堂扉を振り返った。 「行きましょう」 歩き出すそぶりのない陽子の手を、離すことがないまま景麒は引いた。 心臓は突然のことに早鐘を打つようで、少し息苦しかった。 「待って、もう少しゆっくり……」 繋いだ手を強く握り返すと、小さな反応を陽子が感じ取るのと同じに、歩測はゆるめられた。 「あんまり早いと、転びそうで怖いから」 「申し訳ありません、大丈夫ですか?」 「うん、このくらいなら」 笑んで応えると、それきり会話は途切れて、二人は黙って歩き続けた。 そっとうつむいて、陽子は小さく微笑う。 綺麗だけれど力強い手に、自分の手の小ささを知る。 この手を離したくないと思っていることに気付くと、笑みに苦いものを感じた。 気付かれるまで、せめてその間だけでいいからと、陽子は笑みを殺した。 俯いた陽子に気付き、景麒はそっと彼女に視線を落とした。 表情を蔽うように流れる髪から垣間見えた唇は、やわらかな笑みを刻んでいた。 思いがけず、鼓動が跳ねる。 その痺れが指先から伝わるのではないかと思い景麒は息をひそめたが、小さな手は、この手の中に大人しく収まっている。 華奢な手だと思う。その姿と、よく似ている。 気丈なようでいて、触れれば散ってしまうかのような脆さもある。 だから、怖いのだと思う。 まるで、硝子細工を手にしている時のように緊張した。 距離が、難しい。 離れることはできない。けれど、願うままに近づくこともできない。 どこまでなら、彼女は許諾するのだろうか。 ただもう少し傍にいたいと願うのは、愚かな望みなのだろうか。 誰にもそれを、問うことはできない。 だから、繋いだ手を、離したくないのだとは言えない。 告げることは許されない。気付かれてもいけない。 この感情をなんと呼ぶのか、だからまだ、名を与えずにおく。 そうすればこの手を、今だけは離さずにすむから。 Novels ソーヴィシチ こちらは『ソーヴィシチ』の姉妹版です。ずれたお題を修整すべく、「紅を直す話」を心掛けました。 この『ソーヴェスチ』という題は、実際にロシア語を生きた言葉として扱ってらっしゃるAさまの訳になります。こちらの方が本来の発音に近いのだとか。 こちらも話の核を与えて下さいました、Aさまに。 2006.02 |