ソーヴィシチ










奇妙な静けさだと感じながら、陽子は中身のない茶杯を手の中で遊ばせていた。
客堂の中は冷たく静まり返っているわけではない。
先程まで人のいた余韻が耳の底にしじまのように響いているので、そんなふうに感じるのだろうとぼんやりと思った。
「お疲れになりましたか?」
「そっちこそ。私より疲れているんじゃないのか?」
低く問う声に、陽子は声の主を振り向くと皮肉を返した。
景麒は何も聞こえぬかのように、平然とそれを受け流す。
「やっぱり見送りに行くべきだったよね、ついお言葉に甘えてしまったけど」
「主上は怪我人です。それを承知の上で、延王ご本人が無用というのですから、なんら問題ないでしょう」
彼の言葉は磨かれた石のようで、取り付く島もない。
そもそもの原因を責められていることもわかって、陽子は苦笑を浮かべた。
















隣国の王、延王が延麒を伴い、慶を訪れた。
時折ある遊興ではなく、一国の王としての責を担ってのことである。
陽子には、延王は偉大な先人である。その麒麟も。しかし親しみやすい相手であることもまた事実だった。
その気安さゆえに一切着飾ることを考えずにいたら、女官たちからすさまじい非難に合った。
しばらくそういった機会がなかったことも手伝って、彼女たちの気迫の前に陽子に勝ち目などなかった。
そうして幾分の手加減を許してもらいつつ身支度を整えたまではよかったのだが、慣れぬ装いに裾を踏んで、体勢を崩し足をひねった。
そうした訳で雁の貴人が帰国するのを見送らず、こうして己の麒麟を付き添いに客堂に残されたのだった。
陽子はそっと、茶杯の縁に親指をすべらせた。その様子に、景麒はふと目を止める。
視線に気付いて、陽子は茶杯を卓子に置いた。
「口紅がついてるのが気になって」
親指を隠すようにして微笑し、陽子は椅子から立ち上がった。
捻挫していることを歩き出した瞬間思い出し、奇妙な足取りで歩くと陽子はすぐに傍の榻へと落ち着いた。
景麒はしっかりとした足取りで主の傍へよると、先程茶杯を持っていた陽子の手を取った。
「衣につけては大変でしょう」
事務的な響きを失うことのない声で言い、懐紙を取り出すとそれで陽子の指をぬぐった。
わずかに紅の色を残して、指は元の通りになる。
陽子はそれをぼんやりと見ていたが、指にわずかに残った紅の色にはっとしたように目を見開いた。
小さな反応だったが、景麒は見逃さない。
そわそわと落ち着かなく視線がさ迷いはじめたのを怪訝に思い、景麒は眉根をよせた。
すると陽子はあわてた様子でぱっと口元を蔽った。
それで景麒は理解した。
彼女は、わずかに紅が落ちたのを気にしているらしかった。
「……塗り直しても、いいだろうか?」
「かまいませんが、歩くがお辛いのでは?」
「大丈夫、持っているから」
景麒はわずかに片眉をあげた。随分と用意のいいことだと思う。
それを読んだかのように、陽子は応えた。
「実はさっき、六太くんにお土産だってもらったんだ」
くもりない笑顔で告げられて、景麒は一瞬思考が停止するのを感じた。
「そうか、お前ここへは途中から来たんだものな。会議を終えてこちらに移ってすぐ、忘れないうちにってもらったんだよ。雁で若い女の子たちの間で流行っているんだって。鈴と祥瓊にもっておそろいでもらって、そつがないよね六太くん。一人だと晴れがましいけど、おそろいっていうのはなんか嬉しい気がする」
そう言って陽子が取り出したのは、小さな円形の、白い陶器の器だった。
白さゆえに青みを含んだ器は、その飾り気のなさがかえって瀟洒である気がした。 
封の紙を破り、被さっているだけの蓋をはずすと、ふわりと花のようなやわらかい薫りがした。
陽子はそれを膝の上に置き、取り出した懐紙で紅を落としたあと、小さな声をあげた。
傍にありながらその様子を見ないよう気遣っていた景麒は、その声に陽子に視線を向ける。
「鏡がなかった。悪いけど持ってきてもらえないだろうか?」
「……それならば、鏡の代わりをいたしましょう」
不思議そうにする陽子の隣に座ると、景麒は陽子の膝の上から口紅を取り上げた。
歩揺にほどこされた金属の細工が、忙しない音を立てた。
意味を察した陽子は身を引きかけたが、素早くのばされた手にしっかりと頤を捉えられ、逃げそこなった。
「動かれませんよう」
身の置き所のなさに思わず目をつぶったが、すぐに目を開け、不自然に瞬きを繰り返した。
「すぐにすみます」
「ああ、うん、そうだね……」
忙しない瞬きは止まず、視線はうつむきがちになる。
「どうかなさいましたか?」
「いや、さっき、目をつぶるなと言われたので……」
「なぜ……誰に……?」
明らかに硬い声に、陽子はぎくりとする。
低く地を這うような声音の理由がわからず、にわかに狼狽した。
彼の纏う空気が尋常ではなかったので意図的に目を伏せるが、痛いほど、景麒の視線を感じた。
この視線の前に戸惑いが何よりも大きく、目を合わせる冷静さを持つのは難しかった。
奇妙な緊張感の拮抗に、陽子はつとめて息を殺した。




先程、口紅のゆがみを指摘した延王がそれを直そうとして陽子に触れた際、忠告したのだ。
悪戯に笑い含みをする延王に、陽子は首を傾げることしかできなかった。
彼特有の、何かの冗談だと思ったので。
延麒も苦笑するだけで、それに頷くでも、否定するでもなかった。




沈黙を経て、頤を捉えた手がほどかれると陽子はほっとした。
けれどその手は肌の上にとどまり、やわらかく頬に触れると、大きな手のひらの内に包み込んだ。
心臓が、大きく跳ねた。
指先はゆっくりと顔の輪郭をたどって、唇に辿りつく。 思わずびくりと反応すると、細い指先が、つと口唇をなぞった。 輪郭をあらわにされるかのような感覚に、その一瞬で全身が粟立った。
こわばった躰は動揺と羞恥に熱をおびて小さくふるえた。 触れている景麒にそれがわからないはずはない。
唇の端に指先を残したまま、彼は動きを止める。 足も手も、完全な自由だった。なのに、ここから逃れることはできない。 再び、かたく目を閉じた。自らが作り出した闇の中で、鼓動だけが煩く響いている。
指先は、動かない。 息苦しさに、小さな吐息が洩れた。 感じるのはただ、まっすぐに向けられる視線。
ことことと、鼓動はやまない。衣擦れさえも聞こえない。
指先が頤へとすべり落ちていき、俯けた顔を弾くようにして、指で顎先を持ち上げられる。
首筋がそらされて、自然と唇がうっすらと開いた。
「目を……」
かすれるような微かな声が、耳を打つ。 鼓動が、ひときわ大きな音を立てた。
「目を、開けてください」
その声の確かさに、陽子は驚いて目を開けた。 思わぬ近さで、内包物のない紫水晶の双眸とぶつかる。
逃げるように景麒は一度、視線をそらした。 頤に触れる手は、そのままに。
再び視線を結ぶと、頤に触れるのとは別の指が、すっと下唇をなぞった。
陽子の鼻腔を、花に似た薫りがくすぐった。
眼差しを伏せ、上唇をなぞる景麒の指をぼんやりとみつめる。
両方の手が離れて、陽子はそっと口紅をなじませた。すると意外なことに気付いて、自然と笑みがこぼれた。
「何を笑っておいでです?」
どこか硬さの残る声で、景麒は不機嫌を隠す様子もなく訊ねた。 陽子は、ひそやかに微笑した。
その唇は、艶やかな紅を宿している。
「なぜこの口紅が流行っているのか、わかったから」
微笑する陽子に景麒は得心がいかず、小首を傾げる。陽子は蓋の開いた紅に目を落とし、唇に華やかな笑刻んだ。
「簡単なことだ」
呟いて、陽子は紅を引いた景麒の手を取った。 指先に目を止め、紅の残る薬指を引き寄せると、それを彼の唇に導いた。あざやかな紅が、ほんの少し唇に移る。
「……ね? わかっただろう?」
小さく微笑う陽子に景麒は口元を手で蔽い、ぎこちなく頷いた。 長い時間を置いて、ぽつりと独白する。
「……甘い……」
「まるで、蜜みたいだろう?」
花のような薫りの正体は、紅に練りこまれた、蜜の薫りだった。
いかにも若い娘が好みそうな趣向だった。ささやかないたずらにもなりうる、その遊びの部分が好まれるのは、当然のような気がした。
「手を貸して。口紅を落とさなきゃね」
反射的に手を隠そうとするのを捕まえて、陽子は先程景麒がしてくれたのと同じように、紅を落としてやる。
彼は俯いたまま、その動作を見ていた。 手を離すと景麒は器の蓋を閉じて、陽子へ差し出した。
礼を言って受け取り、陽子はじっと、手の中のそれを見つめた。




延王の言葉の意味を、思う。あれは忠告ではなく、警告というのが相応しいのだろう。
今なら、わかる。
陽子は開きかけた口唇を、引き結ぶ。 告白したら、何かを壊すことになるだろうか。
あの時、目を開けたことを後悔していると言ったらなら、どうなるだろう。
















紅を手のひらに包み込み、すべてをそっと、しまい込む。
たとえそれが何かを壊すことになるのだとしても、その時までは、収めておかなければ。




だから今は、紅の色を閉じ込めておく、被せるだけの、白い蓋を。










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この話は、懇意にして下さっている方に「お題を下さい」とお願いして「口紅を直す話を」ということで書いた話です。
お題からちょっとずれてしまったのですが……。
タイトルは、ロシア語で『良心』を意味します。自分で辞書を引きました。
そんな訳で、Aさまに捧げます。










2006.02