落 果 [2] 「……やめてくれ……」 矢を射られたかのように、突如その顔が苦痛に歪められた。 奇妙な静けさに陽子が泣き出すのではないかと思い、景麒は知らず息を詰めた。 陽子は足元に目を落としたまま口元を手で蔽って、大きく息をする。 そのまま長い時間をかけて、彼女はゆっくりと顔をあげた。 そろりと手がはずされて、隠されていた唇が、小さく開く。 景麒はただ、沈黙を守ることしかできなかった。 「景麒……あまり私を甘やかすな。お前には、私を許さずにおく権利がある。私はちゃんと自分で選んだんだ、だから……」 ほとんど声にならなかった声を、景麒は信じられない思いで聞いた。 背筋が凍りつくような思いとともに、言いようのない怒りが湧き上がる。 「違う」 気付くと、強い声になっていた。 「私があなたを憎む理由など、一つもありもしない。主上、あなたは王である前に人です。まぎれのない、一己の人間であられる。何故それを否定なさろうとする! ご自分の身をなんだとお思いか!」 自分の中にこんな強い感情があったことに、景麒は驚愕していた。 こんなふうに激情のまま言うべきでないことを重々承知していながら、どうしても止めることができなかった。そんな感情の強さを、生まれて初めて知る。 「あなたは、人形ではない……!」 耐え切れない痛みが、叫びとなって喉をふるわせた。 陽子は大きく目を瞠ったまま、その場に縫い付けられたように、微動だにできなかった。 向けられる感情の烈しさに、陽子は茫然としていた。 時に氷に揶揄される自らの半身が、こんなふうに激昂しているさまなど、今まで一度も見たことがなかった。 たぶん他の誰も、きっと知らない。 彼は、恐ろしいほど本気で憤っていた。 誰でもない、自らの主のために。 訪れた運命が何であれ、自らの手で選び取ったのだ。 迷ってはいけない、前にしか進むべき道はないのだと自分に言い聞かせてここまできた。 けれど押し込めたはずの心が、時折耐え切れずに悲鳴を上げては胸を引き裂いた。 その度に、それをないものとして幾度となく一人葬ってきた。 ここは、そのための奥津城だった。 向けられる紫の双眸は、いまだきつくこちらを睨んでいる。 不思議と、怖いとは思わなかった。 脅すようなその目が、すべてを見透かしているのだと知っても。 そこに、なくてもいい痛みがあるのだと、わかってしまったから。 捨てたはずの心が、泣き声をあげる。 息をすることを憶えて、まるで産声のような慟哭が躰を芯から揺さぶった。 言葉が、見つからない。 なのにわななくように開いた唇は、彼の名を呼んだ。 「景麒」 それきり、続かない。 名を呼ばれて、景麒の目から鋭い光のようなものが消えた。 水を浴びたように我に返り、景麒はこちらを見つめ直した。 「景麒……」 まるで子どものよう。 伝えたい言葉は、空回りして形のある物にならない。 陽子は、涙をこぼさないようにするので精一杯だった。 いろんなものが溢れ出ないように、両手でぐっと胸元を押さえ込む。 そこに楔を、打ち込むかのように。 「……あちらを、忘れずにいても、いい……?」 やっとの思いでそれだけを呟くのに、手の下の心臓は、今にも壊れてしまいそうだった。 怯える響きの含まれたそれに、景麒は慌てるようにして小さく頷いた。 「その必要はありません。その……申し訳、ありませんでした……」 迷いない言葉の後で、景麒は急に歯切れ悪く視線をさ迷わせた。 らしくもなく混乱した景麒の様子に、陽子はふっと気が緩むのを感じた。 過去に彼の身に何があったのかは伝聞と水禺刀とでわずかに垣間見ただけで、心が痛んでもそれはきっと、想像の域を出ないことだと思った。 触れてはいけないものなのだと、いつしか問いかけることを自らに禁じていた。 彼との出会いは、お互いに最悪だった。 抗いようのない天意というものに従わざるを得ないものの存在など、あの頃の自分はまるで知らなかった。 あの吐き捨てるような言葉に傷つかなかったと言ったら、嘘になる。 けれどあの言葉がどんな気持ちで吐き出されたのかと、今なら思うことができる。 暗示の外に、出なければならない。 自分を役目を忠実に果たせばよいだけの存在だと思っているのなら、彼はあんなふうに痛々しい顔をして憤ったりなど、絶対にしなかった。 あんな顔を、させてはいけなかったのに。 確かなことは何一つ、彼の口から聞いていない。 けれど今はまだ、聞くことはできない。 いまだ暗示の中で、この身は生きているから。 「すまない……ひどいことを言った。私は……っ」 「おやめください、あなたの責ではありません」 驚きに押しとどめるように差し出された手を、陽子は掴んだ。 「違う、それもだけれど、いつか、お前に私を信じろと言った。私がお前を信じてなかったんだ、私はなんてひどい、ごめんなさい……!」 手を離せないまま、陽子は俯いた。喉の奥に感情がせり上がって来て、ぐっと奥歯を噛みしめた。 丸まった背はきっと惨めにふるえていただろうが、陽子はそれを隠す余裕などとうに失っていた。 その背中にそっと、温もりが触れた。 はじめは毀れものに触れるように、その手はこわごわとしていた。 その手が優しく心地よかったので、陽子は大人しくされるがままにまかせていた。 ゆっくりと子どもをあやすように背を撫でられて、涙が足元に落ちた。 嗚咽を飲み込んだ背中に触れる手は、一層優しく背中を撫でた。 ふいに背を撫でる手が途絶えると、小さな衣擦れとともにやわらかく、その腕の中に抱かれた。 母親が子どもを抱くのと同じ優しさが、そこにあった。 頬に彼の長い髪が触れて、くすぐったかった。 その腕の中で不思議なほど安心して陽子は全身を支配する力を失い、景麒に身を委ねた。 自分に何ができるだろうかと思う。何を、この人に返してあげられるだろう。 麒麟は、王なしには生きられない生き物だという。 それを陽子は現実を恐れるあまり、信じまいとした。 信じるという言葉は、難しい。それは大概一方からしか量ることができないから。 自分たちを繋ぐのは、つまるところ二度も交わされた誓約にしかないのかもしれない。 それだけは、どう考えようと覆しようがなかった。 確かなものに繋ぎとめられていたことを知ると、知らず深い安堵に包まれた気がした。 たとえそこに純粋な彼の心が存在しなくてもいい。 無理やりに繋がれたものでもかまわない。この寄る辺ない不安を、確かに引き止めてくれるのなら。 悲しくても、それでいいのだと陽子は思う。 もう、わかっている。傷には、触れてはいけないのだと。 優しい抱擁の中で、陽子はかたく目を閉じた。 許しを乞う主の姿に、胸を衝かれた。 いつもいつも、あとから気付く。 大切だと思うあまりに踏み込めないことは、愚かだとしかいいようがない。 それでも、景麒にはそれを踏み越えることができなかった。 先に失った人と彼女は違うのだと頭では理解していても、気持ちがそれに逆らえなかった。 もう二度と失うことには耐えられまいと、それが恐ろしくてならなかった。 彼女が何にも変えがたく大切な存在だと、とうに自覚していたから。 何も築かなければ、何も失うものはないのだと、そう思っていた。そう、信じようとしていた。 彼女の孤独に、気付かぬ振りをして。 誰かがその孤独を自分の代わりに埋めるだろうと、深い痛みを感じながらも手をのばすことを自らに禁じた。 腕の中の人と先の人が、少しも重ならないと言ったら、それは嘘になる。 けれど違うのだと、はっきり言える。 たとえば水と火のように、それは景麒にとってあきらかなものだった。 かの人が言葉に吐露せずにはいられなかったものを、陽子は苦痛を感じながらも飲み込んで誰にもあかそうとしない。 探さなくても傍にいた人は、今ではこちらから探さなくては近づくことさえできない。 景麒だけでなく、女王自身も保たなくてはならない距離を意識していた。 心を、殺そうとしてまで。 胸が痛んだ。 それでも彼女を、この重荷から解放してやろうとは思えなかった。 たとえ帰りたいと、泣きながら懇願されたとしても。 そうして自らした約束を、卑怯なやり口で反故にすることになろうとも。 現実に膿んだ人は、その眼差しを自らの責務から背けた。 現実に苦しむ人は、個を殺してまでその責務に忠実にあろうとする。 景麒は目を閉じて、陽子を抱きしめる腕に力を込めた。 「……あなたは、誰にも似ていません」 戸惑いに景麒の腕を掴んだ指が、こわばって爪を立てた。 嗚咽のような吐息が胸に吐き出されて、ほんのかすかな声で、陽子はまた景麒、とふるえながら名を呼んだ。 応える代わりに、景麒は陽子の躰を完全に、その腕の中に閉じ込めた。 もうそれは、母の腕ではなかった。 目蓋の帳は、仄暗い闇を一時与えてくれる。 ことりと、どこかで小さな音がした。 心は、落果するその実のように 陽の下に萌芽し、一度形を得てしまえば止めようもなく育って、いつかは枝から落ちていく。 見えない力に引きよせられ、やがてはその重さに耐えかねて。 眩むような光の緒を引き、刹那の速さで落果していく。 暖かな陽を、宿したものを Novels [1] この話は懇意にして下さっている方とのやり取りの中から生まれた話です。 『たちずさむ』という造語があるのですが、この言葉は具体的にはどう説明するんだろう?という考えに取り付かれたのが始まりで。 (追記 2018.11 テオ・アンゲロプロスのこうのとり、たちずさんで、という映画の邦題にそれはありました。) 得心いくまで調べ、よし、じゃあせっかくだから例文を書いてみよう!と書いてみた所、このような結果に。私の『たちずさむ』の見解は『心赴くままに、その場に佇んでいる様子』です。どうでしょう? こちらはしつこく食い下がる私に、優しくお付き合いくださいましたHさまに。 冒頭で陽子が歌っているのは、ハイネの詩にジルヘル(ジルヒャー)が曲をつけた『ローレライ』です。訳詩は近藤朔風。この方の訳詩は、叙情的で美しいです。有名な物にウェルナー作曲、ゲーテ原詩の『野なかの薔薇』があります。童はみたり……という誰もが知っているあれです。 2006.02 |