落 果 [1]










風に舞う赤い髪はまるで、しなやかに広げられた翼のように見えた。
















なじかは知らねど  心わびて
昔の伝説(つたえ)は  そぞろ身にしむ
寥(さみ)しく暮れゆく  ラインの流(ながれ)
入日に山々  あかく映ゆる






清かな歌声を聞いた。
静かな旋律は、ごくたまに憶える、苦いような違和感を感じさせない。
そしてその声を聞いたことで、安堵している自分がいた。




歌声は、なおも続く。
軽やかに歌われる声に、その人によく馴染んだ旋律であるのだろうと思われた。






美(うるわ)し少女(おとめ)の  巖頭(いわお)に立ちて
黄金の櫛とり  髪のみだれを
梳きつつ口吟(くちずさ)む  歌の声の
神怪(くすし)き魔力(ちから)に  魂(たま)もまよう






雲海を臨む岬崎に風に吹かれるままたちずさむ姿は、そのまま海へと吸い込まれていくかのように危うげだった。 雲海から吹く強い風に、時折声がかすれて聞こえる。
その一瞬さえ聞き逃すまいと、神経を研ぎ澄ました。






漕ぎゆく舟びと  歌に憧れ
岩根も見やらず  仰げばやがて
浪間に沈むる  ひとも舟も
神怪き魔歌(まがうた)  謡うローレライ






やわらかな余韻を残して、歌声がふつりと途絶えた。
次に風の音にまぎれて聞こえてきたのは、小さな笑い声だった。
豊かな髪を風に翻し、陽子は唇に笑みを載せたまま振り返った。
「どうだ?」
「どうだ、と仰られましても……」
唐突な主の質問に戸惑って言葉を途絶えさせると、陽子は面白そうに笑って、雲海へと向き直ろうとする。
それを見やって、景麒は咄嗟に言葉を紡いだ。
「物語のように思いましたが」
「そうだな。物語というよりは、どちらかというと怪談に近い話だと思うけど」
二人の間には充分すぎる距離があったので、陽子の声は怒鳴るような響きを含んでいた。
それを察して、景麒は陽子へと歩を進める。
「なぜこんなに、岸壁に近づかれるのですか」
「大げさだな。飛び込むには充分に遠いと思うけれど?」
肩をすくめ冗談めかす陽子に、景麒は冷ややかな一瞥を与えた。
当人はその威力を知ってのことではないのだが、慣れぬ内はその冷たい視線に、随分と肝の冷える思いがしたものだと陽子は思う。
気まぐれに吹く風に、景麒の長い髪が紗のようにたなびいた。
それを認めて、陽子はぽつりと呟く。
「ローレライ……」
呟きとともにこちらへと流れた髪を、一房手にとって。
「……人の名ですか?」
訊ねられて、陽子はゆるやかに首を横に振る。
「向こうで、異国の川に棲むとされる水妖の名前だ。黄金の髪を持った麗しい女性の姿をしていて、その美しい歌声で川を行く旅人を水底へと誘うそうだよ」
そっと指を離すと、髪は風に巻き上げられ、手のひらからこぼれていった。
「まるで、夢のような話だろう?」
景麒はそれに、どう応えてよいかわからなかった。
あちらには、妖魔や騎獣に相当するものはいない。
だが少なくとも主が歌に歌うように、景麒には単純な絵空事には感じられなかった。
彼女はそんな自分をぼんやりと見ていたが、風にまとわりつく自身の髪を払うように、ゆるく首を振った。
「実際には、そこは舵を取るのが難しい場所で、まるで何かに誘われるように同じ場所で船が難破するから、人々の恐れからそんな伝承が生まれたんだろうね。悲しい現実を、砂糖に包むように……あそこにはローレライがいる、それなら仕方ないって諦めることができる。蓬莱ならさしずめ、神隠しとでもいう所だろうか……」
聞いたことのない言葉が、耳を打った。
話の前後から、人が不幸にも消える際に使われる語句であろうことを理解する。




あちらには、明確な形で神は存在しないという。
こちらでも、天帝を目にしたものは多分一人もいない。それでもその存在を知らぬ者はない。
蓬莱では神はただ信仰と崇拝の象徴として、すべてのものの中に息衝く御霊のようなものだという。
その例えも着馴れない衣を纏った時のように、景麒にはどこかしっくりとこなかった。
両者の神はおそらく、その役割を異にするのだろう。
同じ名で呼ばれながらも、それはまったく異質なものなのだと思われた。
だがそれがどの人々にも信仰と崇拝の対象であって、同じ神の名で呼ばれる限りは意味の整合性は永遠に保たれるのだろう。
神なる概念が、覆されぬ限りは。




ふたたび陽子の声が、空へと放たれる。
「神隠しもまた、便利なすり替えだ。小さな子どもがある日忽然と消える、探してもとうとう見つからなかった時、それを人は神隠しにあったのだという。その子が神に見出された、特別な存在だったのだと」
そう言う陽子の声は、どこか冷たさを孕んでいるような気がした。
「……何のために?」
自然と、景麒は聞き返していた。そこに、確かな意味があるのだろうかと。
「そうだね……」
そっと返す陽子の表情は、声と裏腹にとても穏やかだった。
「物事には、終わりが必要だからかな。そしてこれは、悲劇が起こったことへの言い訳にもなる。真実は誰にでも正しいわけじゃないから、誰にでも飲み込める、優しい嘘が必要なんじゃないかな。自分のためじゃなく、きっと大事な人のために」
それは詭弁だと、言うことはできた。昔の自分ならきっと、迷わずに言っただろう。
それが、相手を傷つけることがわからずに。
上手な嘘をつくことはできない。けれど、沈黙を言葉に替えることならできる。
陽子はそれを肯定と受け取って、小さく笑んだ。
「これもまた、人の愚かしさの一つなんだろうね。お話の悲劇を感じていながら、危険に魅せられるのは。もしローレライが本当にいるのならひと目見てみたいと思うのを、愚かだと思いながら、私は笑えない」
強い風に細められた目が、哀れむような色を湛えていた。
「きっと訪れるだろう報いよりも、目の前にある誘惑に目が眩む。それをなんのためらいもなく非難できる人なんてきっといないよ。私は出来ないし、したくない」
微笑みながら、陽子は雲海へと視線を転じた。
彼女は自分自身に厳しすぎるきらいがあるが、それを他者にまで求めることはほとんどないと言っていい。あくまでその人物自身の品性や常識の範囲のことだと認めている。
ではと、景麒は思う。
「たとえばそれは、どんなことですか」
はっきりとした口調で告げられたものに、陽子は弾かれたようにこちらに向き直った。
愚にもつかないことをと、胸中で自らを嘲う。人の愚かしさを、笑えない。






ローレライ。






それは自分の名ではない。種族の名でさえも、なかった。
けれどこれはまるで、魔歌を口にしたも同じだった。




向けられた緑の眸に一瞬強いものが奔ったように見えて、景麒は動揺に身を引いた。
「それは……それはきっと、手に入らないとわかっているものを、いつまでも諦められずに思っているのだとしたら、それは愚かだと言うのではないだろうか……」
ぽつりと独白のようにこぼれたものは、ひどくたよりなかった。 何に慄くのか、陽子はほとんど無意識に後ずさろうとした。
考えるより先に、景麒は動いていた。
手をのばし、後ずさる陽子の腕を掴むと力のまま自分へと引き寄せた。 驚きに開かれた視線が一瞬交差し、陽子は転がるようにして景麒の腕の中に収まった。
「後ろは崖です。だから申し上げた、近づかぬようにと」
「……ごめん……」
うつむいたままの陽子の肩が、深い呼吸のために大きくふるえた。
それが現実に返って襲われた恐怖のためか、景麒にはわからない。
細い肩はまだ、緊張にこわばっている。
なぜかと理由を探して、景麒は言葉に詰まった。
自己嫌悪に苛まれながらも、陽子の腕を掴んだ手を離し、その手できつく拳を握りしめた。
「主上……私はそれを、愚かだとは思いません。願うことは罪ではない。それを罪だというなら、生きていくのはずいぶんと息苦しいものになりましょう。あなたが愚かさを笑えないと言うように、私にも一つだけ、言えることがあります」
静かに落とされる言葉に、陽子はゆるゆると顔をあげた。
景麒は言葉を切り、小さく息を吸った。
魔歌をこれ以上歌ってはならないのだと、自らを戒めながら。
「何に背こうとも、誰も心に背くことはできません。自分自身が望もうと、望むまいと。たとえそれで何を壊すことになろうとも、誰も……」
景麒はそれを、よく知っていた。
それゆえに、今、傍にある葛藤に気付いてしまった。
あまりに近い眼差しに、景麒は陽子を解放し、そっと一歩後ろに下がった。
私と公に引き裂かれる陽子の痛みは、そのまま過去の自分へと重なる。
そこにある想いが、まったく似ても似つかぬものであっても。
たとえば彼女が海の向こうに、見えぬものを見ようとしていたのだとしても。




水妖を歌った歌であっても、琴線に触れた歌詞がある。
なぜはわからないけれどとても寂しく思い、昔のことが訳もなく、この身に沁みるのだと。
それはそのまま、彼女の想いなのではないかと。
景麒はこちらを見返す陽子の目を、まるで硝子のようだと思った。
まっすぐなその目には、感情のゆらぎが、まるで感じられなかった。










Novels  [2]










2006.02