肩甲骨は翼のなごり [2] 水面を、小さな魚が跳ねる。 そうして生まれた水紋がゆるやかに淵にたどりつくように、景麒の表情の中に、ゆっくりと驚きが生まれた。 陽子の問いの中で、彼が何を思い起こしたかは明白だった。 景麒に青を想起させるのは、後にも先にもただ一人の存在だった。 景麒の憶えた憐憫が、陽子の中でも小さく疼いた。 その人はかつて自らの生と引き換えに、自分に、目交いにいる麒麟を残した。 彼女の想いとは裏腹に、それは麒麟という生き物には、何よりも酷い仕打ちであったことに違いはないのだろう。たとえ王であることを放擲したとしても、麒麟にとって大切な人であることには変わりはない。 それはたとえば、家族のように。 そこに憎しみではなく、愛情があるから今も心を苛み続ける。その感情は失われた人が望んだようなものではなかったにせよ、彼にとってはその人が、失いがたい人であったことに、変わりはない。 「こんなふうに思い出して、つらい?」 微笑みもせずに、陽子は囁くように訊ねた。 どんなに上手に微笑んだとしても、それは嘘にしかならないとわかっていたから。 だから何も飾らずに、景麒の応えを、そのままに待った。 真直ぐに向けた陽子の目を、景麒は逸らさなかった。 ややあって、彼はひどく静かな目をしたまま、首を横に振った。 深い響きの声が、いいえ、と確かな応えを、問いかけた者に告げた。 「ただ思い出されるだけです。自分の中で、最も縁の深いものを」 「うん……私もそうだ。でもね、私はひどいことを言ったと思ってる」 違うと言いたげに眉を顰める景麒に、陽子は小さく頷く。 「この感情は仕方のないものなんだろう、たぶん。でもね、知ってもらいたかったから 。もういいんだってことをさ」 悪くないと言ったところで、景麒は納得しない。 だからこんなふうに、許しを与えることしか出来なかった。 先王を思い起こさせたことを後ろめたく感じるように、そうすることしか、陽子には出来なかった。 理解は出来ても、納得の出来ないことは存在する。 その想いは、その人だけのものだから。 穏やかに告げた陽子は、そっと、自らの胸に手をあてた。 それは、ごく自然な仕草の一つだった。 そうすることに、何の意図も見えなかった。ただ痕の残る、古い傷をなぞるように。 何故かそれを、愛おしむかのように。 彼女の手は拍動を刻む、心臓の上に置かれていた。 傷でしかなかった記憶はゆるやかに血肉へと溶け、もはや彼女を形作る一部になっているのだと、景麒はその手に彼女が口にした事実を知る。 自分と、同じように。 先の人を思う時、そこに痛み以外の深い感情が存在するように。 その過去は、切り離すことも捨て去ることももう、必要のないものなのだと。 絶えず流れている風が、ざざざ、と木立を鳴かせる。 長い髪が風に遊ばれて、それが一瞬陽子の表情をさらうように隠した。 乱れ髪の合間から細められた緑の双眸が現われて、困ったような微笑みに、そっと目蓋が下ろされる。 胸にあった手が顔にかかる髪を払い、彼女はそれでもまだ髪がまといついている感触が消えないのかゆるく首を振った。 それから両手の指を組み、伸びをすると片方の足を曲げ、履の踵に指をかけた。 同じ要領でもう片方の履にも指をかけて、何でもないことのように履を脱ぎ捨てた。 草が履を受け止めた軽い音に、景麒はぼんやりとしていた現実を把握する。 素足を得た陽子は、無言のまま景麒に背を向けた。 景麒もまた無言のまま、陽子へと手をのばした。 腕を、掴まれる。 同時に強くそちらへと引かれて、視界が回った。 予期せず躰が相手にぶつかって、その衝撃にたじろぐ間もなく陽子は浮遊感を味わった。 足が地に着いていないことに驚いて視線をめぐらせれば、奇妙な違和感がある。 ふと目を落とせば、間近くこちらを見上げる景麒と視線がかみ合った。 「二度も言わせないでください」 眦をあげる景麒に、陽子は目を瞬く。同時に、何度目だろうと思った。 あちらにいた時は小さな時分にさえしなかったが、草の上を素足で歩くのは心地よかった。けれどいつでも、景麒はそれにいい顔をしなかった。 初めは素行の問題かと思ったが、怪我の心配をしているらしかった。 そんなに心配されるほどやわではないといつも言うが、景麒は受け入れない。 彼は時に驚くほど過保護になるが、当人はそれをまったく自覚しておらず、陽子はただくすぐったいような奇妙な気持ちを飲み込むしかなかった。 「なあ、下ろしてくれないか」 「残念ながら、そのご意見には賛同しかねます」 子供のように抱き上げられたまま、陽子は浅く溜息をついた。 ささやかな抗議に足をぶらつかせるが、巻きついた腕はゆるむ気配さえない。 じっと目を覗き込めば、景麒はこちらの眼差しの強さにか、目を逸らした。 陽子は仕方なく、持ち上げた腕を、景麒の首に回した。 自然に遊ばせた指先が彼の首筋をかすめると、触れ合った躰越しにほんの一瞬、肩がゆれるのがわかった。多くの人と鑑みても、自然な反応だろう。 謝罪するのも不自然な気がして、そのまま何もなかったように、陽子は首を傾けて景麒の頭に頬を寄せた。 こうしている間、ほんの少しも警戒や緊張が感じられないことが素直に嬉しかった。 語られない秘密があることを許容されているその事実も、お互いの領域を重ねてさえ、分かり合えない余地を残しておくその優しさも。 全てを嬉しく思う。 「全部、もういいよ。昔のことだから」 だから彼にとって、許しとなる言葉を与える。息をするように、清かに。 抱き上げられた躰を支える手は、肩甲骨を包み込んでいる。 夏を引き摺るこの時の中にいて、その温かさが心地よかった。 彼の温もりを感じて、自分が確かにここに存在していることを意識する。 木立の緑が光に透き徹って、その風景に、目を奪われる。 見慣れたはずの景色にいつでも陶然とするのは不思議でもあり、安堵でもあった。 微睡みに似た揺籃の午後に、陽子はそっと吐息を洩らした。 足裏を撫でる風の指先に、抱き上げられていたことを唐突に思い起こす。 驚きはしたが、もう怖いと感じていないことに気付き、唇が自然とゆるむ。 頬を寄せたまま、陽子はそっと景麒の髪を撫でた。 自分とは違う優しい感触に、笑みがこぼれる。ほんの小さな気配を感じたように、肩甲骨を包み込んだ手が、やわらかく背中を叩いた。 景麒は何度かそれを繰り返し、陽子を抱えたまま、後ろを振り返った。 何事かと顔を上げ、すぐに経験から回した腕を解くと、彼の肩に手をついて、力を入れた。 「離せ、降りる」 焦燥を帯びた陽子の言葉を聞こえぬもののように、景麒は無視した。 「こら……っ」 思わず手を振り上げた所で木立を掻き分ける音を聞き、顔を向ける。 そこには大きな目を更に瞠って硬直している、見知った青年の姿があった。 反射的に息を止め、振り上げた手を下ろしながら言い訳を考えるが、動揺のために適当な言葉が出てこない。 「陽子……どうしたの、怪我でもしたの!?」 青年の驚きに瞠られた目が、心配そうに元へ戻っていくのを見ていると、小さな声と共に途端にその目が一杯に開かれた。 「陽子、足! ああもう、また履を水底に沈めちゃったんだね!? どうしてそういうことするのかなあ」 「蘭桂違う、そんなことはしてな……」 「しようがないなあ、誰か捕まえて、替えの履を用意してくるからね。台輔、すみませんがもうしばらくお願いします。なるべく急いで戻ってきますから」 弁解の台詞をあっさりと聞き流して、蘭桂は渋面を作った。 子供の時のまま表情を絶え間なく変えて、蘭桂は景麒に軽く会釈する。 景麒はそんな蘭桂にわずかに微笑し、一度だけ首を横に振った。 めずらしい微笑に、陽子は続けようとした弁明を飲み込んだ。 景麒が他人に対して、こんなふうにやわらく微笑むことはあまりなかったから。 それは気心の知れた人にしか見せない、特別な笑顔だった。 「急がずとも大事ない。蘭桂は何か、用があったのではないか?」 問いかけに、蘭桂ははっとして動きを止めた。 「いけない、そうだった……でも大丈夫です。久し振りに、二人の顔を見たかっただけですから。それじゃ、ちょっと待っててください」 こぼれるような笑顔で言い、蘭桂は身を翻すと軽やかな足取りでその場を去って行った。 あまりの身軽さに、引き止めることを忘れた陽子は目を落とし、景麒と顔を見合わせた。 「お前の影で脱いだ履が見えなかったんだね。言えばいいのに、ちゃんとあるって」 「忘れていました。それより、履を池に沈めたことがおありとは……」 皮肉のつもりだったが、どうも藪に潜む蛇を、不用意に起こしてしまったらしかった。 形勢があやうくなるのを感じ、陽子は溜息を吐くと、指先を伸ばして景麒の髪を掻きあげた。 不思議そうにこちらを見る景麒の耳元に唇を寄せ、小さな声で囁きかける。 「あのね……歩きたいから下ろしてほしいんだ。お願い、景麒」 秘密を語るように、吐息だけの声をそこに忍び込ませた。 ささやかな言葉は余計な力を溶かし、そのまま彼の肩がするりと下がるのを見ると同時に、陽子は自分の足で地面に立っていた。 礼を言って微笑み、景麒に心配をかけぬよう、素足のまま、ゆっくりと歩き出した。 それだけ気を付けて歩けば、たとえ裸足でも怪我をすることはないだろう。 池の淵で立ち止まり、陽子は爪先に意識を集中させ、軽やかに地面を蹴った。 裳裾を風に泳がせて、再び飛び石の上に降り立つ。 細かな水飛沫があがり、それは光を映し、刹那の間に飛散する。 足先はわずかに水に浸り、素足に感じる水の思わぬ冷たさに驚きながら、陽子は踵を返した。 振り返ると池の淵に、景麒が立っていた。 それはお互いが手を伸ばせば充分届くほどの距離で、わずかとも、少し遠くとも、どちらとも当てはまる、そんな距離だった。 静かに腕を持ち上げれば、景麒が自然と手を差し伸べてくれる。 その手を握って、陽子は真直ぐに顔をあげた。 「預けておくから」 何でもないことのように告げれば、握った手にわずかな力がこもる。 その温かさを感じながら、水に浸る爪先を持ち上げ、水の中で足を、魚のように泳がせた。 蘭桂が戻ってくるまでの、束の間の戯れ。 程なく季節は秋の気配を濃くするのだろうと、夏の果て、水の冷たさに陽子は天を仰ぐ。 白い雲が、止まっていると錯覚するほどに、ゆったりと流れていた。 アシメトリー Novels [1] タイトルはディヴィッド・アーモンドの著作から。 響きのやわらかさが好きで、いつか使ってみたいと思っていました。 そして水にまつわる話もずっと書きたいと思っていました。 陽子が水浴びをする話はたくさん読ませていただいたので、水浴びまでいかず、清涼感のある雰囲気で、あまり色を感じさせない話に自然となりました。 アシメトリー三作品の中では、個人的に一番気に入っています。 風景を描写するのがとにかく楽しかったです。 07.09.01 |