肩甲骨は翼のなごり [1]










「夜の水は真っ黒だね。僕は、青い水の方が好きだな」
その言葉に、陽子は隣にいる桂桂を振り向いた。
「青い……水?」
不思議に思って聞き返すと、桂桂はうんと頷いた。
整然と手入れの行き届いた王宮の池のほとりで、陽子は少年の言葉を受けて自然と水面に目を落とした。
山の端に陽は落ち、空は夜に向かい、深い青の色を濃密にし始めている。
夜と夕の淡いの中で、水は桂桂の言うように墨のような暗い色を含んでいた。
鏡のように覗き込む二人の姿が昼よりもなおはっきりと、そこに映し出されている。
「陽子?」
呼び声に陽子は顔をあげ、桂桂を見た。
不思議そうに見つめる桂桂に、陽子はゆっくりと微笑んだ。
「いや……私も、そっちの方が好きだなって思ったから」
素直に応えると、桂桂は破顔した。
嬉しくて仕方ないといった無雑な笑みに、陽子は温かな気持ちで頷いた。
















風に揺れる木立が、軽やかな葉ずれの音を立てていた。
わずかに注ぐ木洩れ日を受けながら、陽子は歩く足を休めない。
「もう随分昔の話だけど、子供って、面白いことを考えるよね」 
「水に、色などありませんが」
「まったく……そういう話じゃないだろう?」
そっけない景麒の返答に、陽子は苦笑交じりに嘆息した。
「物を見ている視点が新鮮じゃないか。絵を描いて色を塗るとしたら、青い色をつけるだろう、ふつうはさ」
少し遅れて後ろを歩く景麒を、陽子は裾を翻して振り返る。
予期せぬことだったように、景麒は一瞬歩みを止めた。
その反応を見やって、陽子は微笑う。
さりげなく横へと並んで、再び歩き始めた景麒と歩測を同じくした。
景麒は陽子を一瞥しただけで、特別会話はない。
視線は絡むことなく、景麒の目は自然と進む方向へと戻っていた。




出逢ったばかりの頃は、沈黙が重荷だった。
景麒は決定的に言葉が足りない。
惜しむ訳ではないのだが、あまりに簡素化された言葉から彼の意を汲み取るのは、決して容易なことではなかった。
そういう性質なのだと思うと同時に、それを不親切だとも感じた。
けれど時を経る内に、彼の言葉には、真実しかないのだと気付いた。
言い難い台詞を砂糖に包むような器用なやり方は、景麒には出来ないのかもしれない。
それでも淡々と発せられる言葉のどれにも、保身や嘘はなかった。
真実彼が感じたことがそのまま言葉となって、伝えられる。
何の虚飾もなく、最低限よりも、少し足りなく。
そこに、必要ないものがない。
その静寂の時間を共有することを、陽子はいつしか居心地の悪いことだとは思わなくなっていた。
たとえばこうして並んで歩く時、陽子より少し遅いくらいの歩調で彼は歩く。
決して陽子を置いていくことのないように。
他の人なら、こんな時にどんな話をするのかと時々考える。
他愛もないような、明日には思い出すことも出来ないような些細な話をするのだろうかと。
そして相手が景麒ではなかったら、自分はそれに、何と言うだろうかと。
詮ないことだ。けれどそれが何故か可笑しい気がした。
暦の上ではすでに秋と呼んでも差し支えない季節になっていたが、この年は未だ夏の名残りが色濃かった。日差しを避けて木陰を歩いていても、木洩れ日の強さに時折、それを意識させられる。
それでも季節はやがて、ゆるやかに秋へと変じて行く。
風の気配が変わり、咲く花が違うものへと移ろって穏やかに時は過ぎて行くのだと、雲を見つめながら陽子はぼんやりと思う。
「ちょうど、この辺りだったんだ」
景麒の袖を軽く引いて、陽子はその場に立ち止まった。
















景麒もまた、陽子に倣って歩みを止めた。
木陰から陽子の視線を追うと、美しく整えられた池が目に入る。
風に波立つ湖面が陽を受け、玻璃の欠片を散らしたように白く反射していた。
袖を引くわずかな力が消えると、突然、視界を赤い髪が掠めていった。
長い髪が背に揺れて、その鮮やかさに思いもかけず声が洩れる。
陽子は振り向きもせず池に近付くと、しなやかな獣のように軽く地面を蹴った。
白い裳裾が風に膨らんで、眩しく翻る。
見事な所作で、彼女は池の中に設えられた飛び石の上に降り立った。
昨夜降った雨のせいで、池は水嵩が増している。
石はわずかに水の中に埋もれていたが、陽子は構うことなく、向こう岸へと渡された飛び石の上を進み出した。
軽やかに跳ね上がるたびに散る水滴が、一過性の光を宿しては消えていく。
遠目に見る者があったなら、きっと彼女が水上を歩いているように錯覚したのではないかと思った。
水に浸る石は色を濃くし、見目を水と同化させている。
一度向こうへと渡りきると、陽子は先程と同じように、けれど倍の時間をかけてこちらへと戻ってきた。
最も手前の飛び石に留まり、立ち尽くしたたまま、動かなくなる。
目が合うと、小鳥のようにわずかに首を傾けた。
そこから動く気がないことを知り、景麒は彼女の元へと足を運んだ。
澄み切った水はこの温い空気の中、いかにも清冷とした印象を与えていた。
思うよりも夏の名残りの熱気を感じているのだと気付き、彼女がそこに留まった理由を何となしに理解出来た気がした。
「水は綺麗だけど、青くは見えないよね」
「澄んだ水、という意味でしょう。先程あなた御自身が仰られた、色を塗ればと」
「ああ、なるほどね。あの子はひょっとして、絵を描くのが得意なのかな。聞いたことがないけれど」
「私も、存じません」
そうかと呟いたあと、陽子は言葉を切った。
ゆるやかにざわめく水面に目を落として、彼女はその表情の変化を飽くことなく眺めている。
見れば揺れる水面に、鏡のように彼女の姿が映っていた。
彼女は、元からそう多弁な人ではない。そして感情を伴なった言葉を、殊更飲み込む癖のある人だった。言うべきことだけを選んで、声に紡ぐ。そんな印象があった。
けれどこんな時にだけ、それが少し変わる。
さして意味のない、他愛のないことを思いのままに口にすることが珍しくなかった。
それがこちらの返答に窮するものであった場合、声をあげて笑うこともあった。
そんな時にどうしたらいいのか、いつも少し戸惑う。
けれどどんな返事を返しても、彼女は穏やかに頷いた。
景麒はそんな彼女の無防備な表情が、好きだった。
水面に映った陽子の顔に、ふと何か思い出したような色が浮かんだ。
ほとんど同時に顔をあげ、目が合うと陽子は息を吸うように小さく口を開いた。
「なりません」
意識もせず、言葉が口をついて出た。
「まだ何も言ってない」
一拍おいて、陽子は軽く肩をすくめた。何を言い出すのかとでも言いたげな表情を、それとなく作る。
「ここは池です」
押し問答になる前に、景麒は先手を打った。
「麒麟は、人の心まで読むのか?」
陽子の唇の端が、まるで三日月のように吊りあがった。
その仕草に、景麒は眦にいらぬ力がこもるのを感じた。
すべて承知していて、陽子は言っているのだ。
















「怖い目をして睨むな、そんな大層なことじゃないじゃないか」
「ご冗談を」
思わぬ切返しに、陽子は意表をつかれて唇を閉じた。
道理を遵守する性質は変わらないがそれを頑なに通さず、一度緩衝を設けることをこの堅物はいつの間にか学んだらしい。
「別に水浴びをしようってわけじゃない。お前にそれに付き合えなんて言わないし」
「そういうことではなく……」
声の苦い響きに優位を感じるが、それが束の間でしかないことはよくわかっている。
眉根に寄った皺に、陽子はふっと息を吐き出す。
景麒の変わらない反応を見て、安心している自分がいた。
意地の悪い遣り口だと思いながらも、それでもわかりきっていてなお確かめたいのだと、自分の幼さに笑いたくなるがおくびにも出さない。
「これが私なんだから、いい加減に諦めたらどうだ? ああ、違うな。名残りのような物かな、水への執着は」
理解できないと言いたげな景麒の表情を読み取って、陽子は水上から大地へと、重さを感じさせない足取りで戻った。
豊かな髪が空気を含み、ふわりと肩を取り巻く。
どこか安堵した様子の景麒に、陽子は自然と相好を崩した。
だからつい、口が滑ったのだ。






「綺麗な水を見ると入りたくなるのは多分、放浪の名残りだよ」






笑い話のつもりで、陽子は特別の気負いもなく言った。
その瞬間、景麒の目が軽く瞠られたのを違和とともに認める。
すぐに強張った表情の意味に気付き、唇に浮かんだ笑みに溜息が混じる。
もうとうに、忘れてもいい話なのにと陽子は苦笑する。
あの経験は、今では得がたいものだったと思っている。 忘れがたい、出会いもあった。
そのすべてがなければ、今自分はここにいないと確信さえ出来るというのに。
「何を考えた?」
「……何も」
「まったく、お前はすぐ顔に出るんだから。お前が思うほど私は気にしてないのにって言っても、信じないんだろうな、たぶん」
図星を指されて、景麒は言い訳もせずに押し黙る。
不器用で、どこまでも真直ぐでしかない。その性質を、少し哀れだと思った。
澄んだ目の中に、揺れる波が見え隠れしている。 苦くて、触れがたい痛みの記憶だった。
決して共有は出来ない、相手の過去への哀切の想いがそこにはある。
過ぎ去った時間の中の、もしもさえない経験への、憐憫の情も。
長い袖の中で、陽子は力を込めぬようにそっと、手のひらを握り締めた。






「そうだな……ではね、景麒……『青』と言われて、お前は何を想う?」










アシメトリー  Novels  [2]











07.09.01