楽園の向こう側 [2] 「私には、何が正しいことなのかわからない……」 迷いを含んだ声に肩からわずかな重みが消え、力に軋んだ躰がゆるやかに解かれる。 「なぜ麒麟自身に、選ぶことができないんだろう……?」 投げかけられたものに、俯いていた顔が、上げられる。 その眸は先程の激情が嘘のように静まっていて、水紋のない湖面に似ていた。 鏡を見るような心地で、陽子は景麒の目を覗き込んだ。 「自らの意思とは関係なく、勅命だといえば、逆らえない。命に係ることなのに……」 「麒麟は……等しく王のものです。この命は、己の手を離れた所にありますゆえに」 淡々とした声音はまるで詩歌を吟ずるかのようによどみなく、陽子はいっそう心が冷えていくのを感じた。 命じられれば抗いようがない、仕方のないことなのだと景麒は言う。 その声の響き、眼差しから感じるのは、決して言葉にはされない、声なき慟哭だった。 陽子はぎゅっと、奥歯を噛み締めた。 「お前の命は、私のものだと言うんだね……もしそうだと言うなら、ひとつだけ憶えていて。私は今ここにいることを、こちらに来たことを、幸福だと思っている。それだけはどうか、忘れないでほしい……」 いけないと思った瞬間には、涙がこぼれていた。 はっとして気持ちを気を引き締めるが、頬には一筋、涙のこぼれた痕が残った。 その頬に、そっと、触れたものがあった。 こわばった指先が腫れ物に触れるように静かに、頬をすべり落ちていった。 潤んだままの目で茫然と景麒を見つめると、どうしたらいいかわからないとでも言いたげに、頬から離した手を所在無く空に迷わせている。 そのうろたえた様子に陽子はおかしくなって、ふわりと微笑った。 それを見ていた景麒からふっと緊張が解け、何かを思い出したような仕草で長い睫毛を伏せた。 その動きに伴うように、長い髪が光を纏い、音もなく肩を流れ落ちて行った。 陽子はそう思う。 湧き上がってくる気持ちの強さに、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。 まだ景麒の腕の中にあるために、彼は容易に陽子の変化に気付きぎこちなく顔を上げた。 戸惑うようなその表情を、とてもいとおしいと感じて、陽子は告げる、微笑みとともに。 「……その方に、お逢いして来たらいい」 一瞬、景麒は陽子が何を言ったのか理解ができなかった。 一拍してその眸が瞠られて、信じられないものを見たように忙しない瞬きが続いた。 「私は……かの方とは、何の縁もございません」 「同じ眷属だろう、それ以外に理由が必要か?」 「ですから……」 陽子の言わんとすることはわかる。 逢えるものなら逢いたいと、景麒は自分がそう思っていることに気付いていた。 何もできないことはよくわかっている。それでも、何かしらの慰めにはなるかもしれなかった、お互いに。 他国には干渉しないというのが、長い間の通例だった。 恐らくはこの世界が創造されてからずっと、陽子が慶の王座に据えられるまでは。 腕の中の人はいつもやすやすと、思いもかけない視点で景麒の世界を変えてゆく。 「かの国は遠い。混乱のさなかに、縁のない私を受け入れてもらえるとは思いません」 「ではもし、これが隣国での出来事だったとしたら……? お逢いしたこともない台輔が、すぐ隣の国で苦しんでいらっしゃったら、お前はどうする?」 「それは……」 応えようと紡がれた声は、弱かった。 きっと心を痛めずにはいられないことは、手に取るようにわかる。 けれどたとえ隣国のことであろうとも、一歩を踏み出すことはひどく難しいように思われた。 逡巡を見透かして、陽子はそっと囁きかける。 「ほら……距離は、問題にはならない。だからたとえ隣国だろうと遠い国だろうと、どちらでも同じことだろう。たとえば自らの王がこの世界にいなければ、虚海を越える。その意味を、景麒は知っているのだから」 澄んだ緑の双眸が、景麒のためだけに向けられていた。 思いは、声にはならない。 目交いの人は、どれだけの渇望を以て麒麟が王を乞うるのか、きっとわからない。 「お前は考えもつかないだろうけど、何も公式でなくてもいいだろう。延麒なら、きっと上手な方法を何かご教授くださるだろうから。ちゃんと留守を守るから、安心して行っていい」 そう言って、彼女は神聖な儀式のように、そっと額をあわせた。 そこから温かい力が満ちてくるような気がして、景麒は目を伏せる。彼女の顔を見られないことを、少し残念だと思いながら。 静かにのばした手の中にそっと、陽子の顔を包み込んだ。 顔を上げた陽子は不思議そうにこちらを見て、景麒の手に、自らの手を添える。 「主上、私は、かの方にはまみえません」 「どうして……私は、景麒の望むようにしてほしい」 納得できないと言う陽子に、景麒はゆるく首を振ってそれに応えた。 「いずれ時がくれば、かの方も知ることです。半身を失った痛み以外今は感じられなくとも、それでも出逢うべき人がいることを、麒麟は知らずにはいられないのだから」 王を知った麒麟は、再び王を求めずにはいられない。 王を乞うるは、麒麟の必然の性であるゆえに。 陽子は向けられた言葉に一瞬怯みながら、景麒の手に添えた手を落とし、景麒の胸へその手を置いた。 その手の下の、拍動を感じようとするように。 出逢うべき人に出逢い、自分が満たされぬ器であることを知る。 だから王を知った麒麟は、王なしでは生きられない。 先王を失った痛みは薄らぐことはなく、終生この胸で血を流し続けるだろう。 けれど今この傍にある王は、景麒の生きる世界そのものだった。 「どこへも行きません、私はここにいます」 目交いの陽子は不安に押し潰されそうな、迷い子のような顔をしている。今にも泣き出しそうな目をして、唇はかたく引き結ばれていた。 景麒は岩から腰を上げ、立ち上がる間に陽子を腕の中に引き寄せた。 抱きしめた背中が声もなく、漣のようにふるえた。 「……泣かないでください」 「泣いてなんかいない」 かすれるような声で呟くと、陽子は抱きしめられた腕の中で顔を上げ、景麒を睨みつけた。 その頬に、涙の痕はない。けれど涙に潤む目は、光を溜めている。 片腕で彼女を抱きしめると、自由になった手で、先程の涙の痕を指先でたどった。 「……何?」 血の色を透かした唇が、吐息だけの声を紡ぐ。これだけ近ければ、声は囁きで足りる。 「触れても、よろしいかと」 生真面目に告げられた言葉に、陽子はわざとらしく眉根を寄せてみせた。 「そうやって、いちいちお伺いを立てるのは気に入らない」 陽子はのばした腕を、景麒の首筋に絡めて自分へと引き寄せた。 背の高い景麒を見上げる陽子は、金の天蓋に包まれる。 少し背伸びをして目を伏せると、唇に確かな熱が触れた。眸を閉じると、急にやわらかい風に載って忘れかけていた花の薫りがした。短く、時折長く、口接けは交わされる。 長い時間を経て、それでも名残惜しむように唇が離れて、陽子はそっと目を開ける。 間近で出逢う景麒の眸をまるで初めて見たような気がして、陶然と見つめ返した。 ふいにこちらへと手がのばされて、その手は髪に触れる。 打紐で括っただけの髪を解かれ、空気を孕んだ髪は首筋に巻きつくようにふわりとこぼれ落ちた。 少なからず不思議に思い、巻きついた髪を払おうとして、手を止めた。 一瞬の灼くような熱の意味を、遅まきに気付く。 撫でつけるように髪を手櫛で整えて、陽子はそっと襟を正した。 「帰ろう」 陽子の指先を追っていた景麒は、その言葉に陽子に視線を向ける。 「祥瓊が、心配していたから」 「祥瓊が……?」 不思議そうな問いかけに、陽子はどう伝えたものかと思案する。けれどと思い直し、これ以上を語らずにおいた。 「景麒、そこの枝を取ってくれるか?」 「まだ莟のようですが……」 「それでいいんだ。薫りが強いから、そのくらいの方がいいと思う」 折り取られた枝を受け取って、陽子はその薫りを吸い込んだ。すっかり薫りに慣らされた鼻に、甘い薫りが存在を新たにする。 まだ堅く閉ざされた莟に、遠い地で病に伏せる人を思う。 逢いたいと思ったのは、景麒ではなく、自分なのかもしれない。 残された人の心健やかならんことを、静謐な白い花に託した。 孤独だけが、唯一人の心を殺す。 それは肉体の死を、たやすく凌駕する。 だから思う、出逢うべき人に出逢う僥倖を、天が麒麟に授ける皮肉を。 それなしでは生きてゆけないものを、その手に与える残酷さを。 そしてその末路を、自らの王の手に委ねよという、酷薄さを。 それでも人は、選び取る。 己が、生きた証に 折り取った花枝が祥瓊の枕辺で咲ききって花びらを散らし、やがて玻璃の温室の外で、その八重咲きの梔子がほろほろと莟を開きかけた頃 梧桐宮で鳳が、遠い南の一国の、即位を啼いた。 Novels [1] タイトルはフローラル・フローラルの代名詞にもなっている、エスティローダーの香水『ビヨンド パラダイス』から。無理矢理和訳しました。 その名に相応しく重層的で甘く、南国情緒溢れる花の薫りがします。 作中では梔子を選びましたが、私にはこの香水、百合の花のような雰囲気があるように思われました。 虹のようなグラデーションの壜が、芸術的に美しいです。 今回ほどCDを、とっかえひっかえ替えながら書いた話はありませんでした。 2006.02 |